"コンパクトシティの成功例"として取り上げられる富山市は青森市と何が違ったのか(前編)
今日、富山市は「コンパクトシティの成功例」として取り上げられることがあります。
青森市が「コンパクトシティの先進都市」から、現在では「失敗例」として取り上げられるのとは対称的です。
少子高齢化、人口減少…戦後復興から高度経済成長、バブル期にかけて延伸してきた道路、電気ガス水道などのインフラの持続性が危ぶまれているのは全国どの都市でも共通する課題でしょう。
しかし東京都でさえも2030~2035年を過ぎると全国からの人口流入による人口増から減少に転じると予想されており、地方を始め周囲から人口を吸い寄せることで活性化してきた経済に黄信号が灯ります。
本記事は以前書いた『コンパクトシティの先駆者「青森市」の失敗と都市計画への再考』の続きとして、成功事例として取り上げられる富山市の戦後の都市計画と青森市と何が異なったのかを私の独断と偏見で書いていきたいと思います。(前編です)
予め断っておきますが、この記事は今回、富山市等の取り組みを書いていきますが目的はあくまでも「青森市のコンパクトシティの失敗原因を理解するためのもの」です。
このため途中で青森市との比較や説明が多分に挿し込まれています。
また少子高齢化・人口減少を食い止めるものではなく、人口が減少しても持続可能な地方都市の在り方を模索するための個人の考察です。ご了承ください。
富山市の基本情報
富山県は日本海に面した県で南に長野県、西に石川県、東に新潟県と接する北陸地方に位置しています。
その県庁所在地である富山市は平成の大合併(2005)で周辺市町村を吸収し、当時の人口は42.12万人。(2024年6月時点40.47万人)
その後、人口は減少傾向にありますが、日本海側の都市としては福岡市(165万人/都市圏274万人)、札幌市(195万人/都市圏236万人)、北九州市(91万人/都市圏131万人)、新潟市(76.9万人/都市圏133万人)に次ぐ中規模都市です。
富山市は合併により県全体の面積の29.24%を占め、一つの市が県に占める面積としては全国最大。
面積1,241.70km²で約60%は山林地域となっています。
人口密度は326人/km²。
富山市を地図で見ると南の山間部、北は海に挟まれた土地であることがわかります。
終戦間際の大空襲による復興から富山駅を中心に再開発が行われ、港湾部まで約8km弱、富山きときと空港(標高23.6m)は山間部に近い河川敷*にあり、海からは約16kmほどで、富山駅は丁度中間に位置しています。
最も近い都市である金沢市は46.5万人/都市圏人口72.8万人。富山駅-金沢駅間は車で63.7km、北陸自動車道を使って1時間2分(普通車990円)、一般道で1時間25分。
日本海側の北陸地方のイメージに漏れず豪雪地帯の一つですが、年平均降雪量は253cm、平均最深積雪は51cmで北海道・東北地方の豪雪地帯と比べると雪の量はそれほど多くはありません。
富山県の歴史
歴史的には大化の改新(645)より以前から富山市街地の基礎が築かれていたとのことですが、平安・鎌倉・南北朝・室町・安土桃山時代と世に戦国時代と呼ばれる時代を紆余曲折を経て、江戸時代に前田利家が「加賀百万石」の礎を築きます。
富山の薬売り
富山といえば「富山の薬売り」が有名です。
前田利家が56歳の時に側室との間に生まれた庶子(四男)前田利常が加賀藩二代目藩主を隠居する際に、その子:利次に分封して富山藩が誕生。
その子(利家のひ孫)にあたる二代藩主:前田正甫が製薬を推奨したことをきっかけに、薬の製造・販売を一括して行い、顧客の自宅に配置する独自のビジネスモデル「置き薬」が考案され広まっていきます。
加賀藩はその後、明治時代の廃藩置県によって金沢城にちなみ金沢県(現石川県)となり、富山藩は富山県となりました。
つまりお隣の金沢県とは文化的に一体だった地域と呼べます。(将来的にまた一つの県になり得る地域かも。加賀県?)
北前船と岩瀬湊
前述の通り、日本海側の都市としてその後も発展を遂げていった富山ですが、江戸時代にその繁栄をもたらしたものが三津七湊と呼ばれる日本の十大港湾の一つ「岩瀬湊」があり、現在の富山市と射水市の間に渡る一帯がそれにあたります。
江戸時代は徳川家康が江戸幕府を開いたばかりの頃、関東の治水がほぼ何もできておらず、長い時間をかけて利根川などを治水したことで関東平野は開けていきます。
また太平洋の向こうの交易の相手は遥か彼方に国として存在していないか、まだ建国したてでした。
このため輸送と各藩の交易を主に担ったのが日本海側の港町で、物流は北前船と呼ばれ、大阪の堺を目指した日本海周りが主流でした。
風と潮の流れで進む帆船での輸送は大変でしたが、陸路よりも一度の沢山の荷物を運ぶことができるため重宝され、岩瀬湊もその一つの拠点として栄えました。
近代化
1871(明治22)年に富山市政が始まり、臨海部を中心に機械工業や化学工業の工業化が進み、1899(明治32)年には官営鉄道北陸線(現:あいの風とやま鉄道線)が開通。
当時の富山駅は現在の場所ではなく、神通川を渡った西部の田刈屋周辺にあったとされています。
1908年11月に現在の富山駅の場所に駅舎が完成。
1928(昭和3)年に県が「富山都市計画事業」を施行。富山駅北側と東岩瀬港を直結する富岩運河を建設すると、この周辺に工業地帯が形成されるようになります。
戦後
終戦間際の1945年8月2日に富山大空襲で死者2,275人、市街地の99.5%が消失する壊滅的な被害を受け、城下町としての町並みや面影は完全に破壊されました。
1950年、改めて富山駅を中心とした都市計画が策定され、放射状道路と碁盤の目の直行した道路による近代都市計画が実施。
港湾で接する新湊市(現:射水市)や高岡市などと一体となった臨海部では工場地帯が再建。
電力の安定供給のために河口域に大規模な火力発電所などが建設され、港湾都市という輸送の便の良さもあり、富山市は高度経済成長期を一気に駆け抜けていきました。
急速な工業化が進んだ一方で、1955年頃から1970年代にかけてイタイイタイ病の公害問題が深刻化するなどの課題と反省も浮き彫りになりました。
平成の大合併とLRT
2005年に富山市を中心に周辺の町村と合併し、中核都市としての認定を受け、2006年にはJR西日本から移管を受ける形で富山ライトレール富山港線が開業しました。
富山市中心部の概要
富山市という都市を考える時にイメージをしやすくするために富山駅を中心としたいわゆる繁華街とその周辺はどんな様子なのか、GoogleMapとストリートビューで雰囲気を読み取ってみました。
富山市の大きな特徴は北前船など歴史の影響もあってでしょうか。
また津波などの直接被害を抑えるためでしょうか。
神通川を利用すること、またそのために運河まで作っている点です。
街の中心となる駅は海から8kmほど内陸に設置しています。
また駅の北側850m(徒歩10分)にはかつての船着き場でもあった場所が1988年から約10年の歳月をかけて整備され、富岩運河環水公園として開園。
現在は富岩運河環水公園~中島閘門~岩瀬エリアを結ぶ観光船「富岩水上ライン」というクルーズができるようになっていて、観光スポットにもなっています。
富山駅と富岩運河環水公園の間は富山合同庁舎、ホテルやホール、美術館、ハローワーク、武道館、総合体育館、北陸電力や北日本放送局、JR貨物や国土交通省北陸地方整備局、全労災富山県本部などが立ち並ぶオフィス街が広がります。
その一本ほど裏手に入ると住宅街が広がっています。
駅に戻ると富山駅と隣接する形で電鉄富山駅(私鉄)があり、乗換がスムーズにできるようになっています。
駅の南側に出るとバスロータリーがあり、そこを挟むように商業施設・ショッピングモールが建っています。
駅前の道路を渡るとエクセル東急、東横インなどの大手ビジネスホテルが立ち並び、北陸銀行の駅前支店も建っています。
地方都市の駅前は大体どこも似たような雰囲気ですが、やはり駅周辺を見て他の都市と異なる点はLRT(Light Rail Transit)とその軌道でしょう。
富山のLRTは大きな通りを一つ東側、片道1車線の真ん中を走っています。LRTが走っていなければ片道2車線は取れる道路でしょうか。
こうすることで交通量の多い道路の混雑を回避、分散する事が出来ているようです。
富山駅南口から徒歩10分ほどで富山県庁を挟む形で大きな公園が2つあります。県庁南側に隣接する松川公園は富山城址公園とも接しており、続日本百名城にも選ばれた富山城の周辺を遊覧船に乗って約30分のクルーズを楽しむこともできます。
さらに富山駅から約4km南下すると、LRTは南富山駅と接続します。
LRTの停車場の間隔はおよそ200~400m前後。
バスの停留所と似たような感覚です。(駅前に近づくと間隔が短くなる)
オフィスビルなどの裏にはすぐに住宅街が広がっているのは、駅北側と同じです。
駅周辺には駐車場も無数にありますが、車がなくてもバスまたはLRT、電車を使うことで中心地にアクセスしやすい交通が整備されていると思います。
LRTと路面電車(市電)
駅から伸びるLRTの軌道はほぼ路面電車(市電)のそれですが、駅前通りの真ん中を車が避けながら、LRTが颯爽と走っていく様は函館や札幌、東京など全国に今も残る様子と似ていますが、LRTの重心の低さに目を引かれます。
いわゆる昔からの市電と比べるとその低床式が際立っていることが分かります。
現在では札幌市などでは既存の市電車両の一部を低床式のものに切り替えるなども行っています。
市電は通常1両編成のものが殆どですが、LRTは車両の編成が長いことも大きな特徴です。
これによりある程度の人口規模のある都市であれば2~3両編成にすることでバスよりも一度に輸送する人を確保でき、満員状態で車内で身動きがとりづらいことも緩和する事が出来ます。
市電・LRTは裏道を行く
本題の富山市から離れてしまいますが、以下の地図は札幌市の地図とポインターは市電の停留場です。
大きな通りと交差することはありますが、基本的に交通量の多い道路は避けつつ、既存の地下鉄駅からも多くは1本か2本ほど道を離れた場所に停留場*が設けられています。
また市内全てのバス路線などをカバーしようなどとは考えておらず、中心地への車での乗り入れによる渋滞緩和を目指すために利用されている面もあります。
バスと比べて専用軌道を走るため電車ほどではないまでも定時運行がある程度確保される点、車と並行して走るとはいえ決まったルートしか走行しないために自動運転化(省人化)がしやすい面もあります。
そもそもバス路線というのは決まったルートを、決まった時間帯に走行するものですから自動運転とは本来相性が良いものであることも分かります。
現在、全国各地でバスの運転手不足などが課題となっていますが、そういった面でも人手不足解消にLRTは導入検討が一定の人口規模のある街では今後も進む可能性があります。
加えて車両の編成をこれまでの市電よりも長く組むことで、一度に多くの人を輸送できる点もLRTの優れた点です。
正確な市電・LRTの採算可能ラインはその軌道距離や人口にもよると思いますが、函館市の例を見ていると人口25万人が一つの分岐点かもしれません。
もちろん住んでいる人だけでなく、観光客などの利用者もいますがやはり日常的に使ってくれる人の数というのが採算を考えたうえでは重要です。
そして全国に19か所ある路面電車ですが、その多くは20世紀初頭に開業したものが目立ちます。
このため2006年に開業した富山ライトレールや2023年に開業した宇都宮ライトレールの動向は他の地方都市にとっても中心地(行政・オフィス・商工業地域)と生活地域(ベッドタウン)を結ぶ重要なインフラとして考える事が出来ます。
言い換えると25万人未満の都市人口の場合、国内でLRTの導入をした事例はありません。LRTを導入さえすれば全ての地方都市の問題が解決するわけではないという点も忘れてはいけないでしょう。
宇都宮LRTは約14.6kmの区間、19の停留場を整備し総事業費は684億円かかっています。中長期的計画とは言えこの費用を捻出することができる地方行政はそれほど多くないとも言えます。
マスタープラン
富山市の場合
ここからは富山市のコンパクトシティ構想のグランドデザインとなる「富山市都市マスタープラン」(以下、マスタープラン)を参考に、補足情報を交えながら見ていきたいと思います。
マスタープランは全国の自治体が同時期に一斉に策定しており、富山市の場合には2編(+資料編)からなっており、第1編は以下4つの章で構成。
第2編は「地域別構想」として具体的に市内を14地域に分け、それぞれの地域ごとの特性に合わせた第1章の内容をどう具体化していくのかが描かれています。
一つ一つの生活圏の解説もしたいところですが、キリがないのでめぼしい所だけをここからはピックアップして触れていきます。
中でも公共交通機関を利用したコンパクトな街づくりでは現状の課題と市の掲げているゴールを明確に分かりやすく表現しています。
中心部に集中しないので買い物の効率が良く、郊外で広くゆったり買い物ができる環境が整いつつあると報告。
中心地から多くの施設などが移転したことで地価も下落。そのおかげで中心部の再開発がしやすくなっていることを挙げています。
コレがこう!
なぜこれを目指すのかといえば…
そのためにこれまでやってきた主な施設の郊外への移転などを紹介。
次に各地域ごとの都市計画(分野別のまちづくりの方針)が詳細に練られています。
これが各地域ごとに書かれており、それぞれの区の中心はココだという場所に紫色の点線で丸が囲われています。
そしてきちんと地域性を考慮しながら「1.土地利用の方針」の中でも「商業系」「産業系」「住宅系」「農業・自然系」とこの生活拠点となる場所への「2.交通体系の整備方針」「3.みどり・レクリエーションの整備方針」「4.その他都市施設、まちづくりの方針」が描かれています。
当たり前かもしれませんがこの地区ごとの縮尺は統一されており、その土地を歩いたことがない人間が見ても距離感がどれくらいかというのがイメージできます。
これにどれくらいの時間を費やしているのでしょうか。
策定の経緯を見ると3年がかり、計15回のすり合わせの記録があり、単なる議会が決めた有識者を集めて結論ありきで議論するのではなく市民委員を募集し、市民の意識調査やパブリックコメントを集め、地域ごとに説明会を実施しています。
また委員会名簿を見ると金沢大学教授を委員長に、長岡技術科学大学教授を副委員長、地元である富山大学教授や鉄道会社、国土交通省の担当者、商工会、日本政策投資銀行の所長などが公募委員と並んでいます。
金沢大学も長岡技術科学大学も隣県の大学です…。
よく地方のこういった打ち合わせの場では地元の大学の教授、商工会などの会頭や青年会議所の人などが委員長・副委員などを務めることが散見されますが、どうしてこうなったのかの経緯までは分かりませんが、非常にフェアでかつこのマスタープランづくりに真剣さを感じました。
また何より資料が読みやすい、情報を受け取る側に理解させる意図でしっかり工夫され、関心のある市民が手に取っても何が目指している都市計画なのかが伝わってきます。
青森市の場合
比較用に青森市の都市計画マスタープランのリンクをここに貼っておきます。(全国に見てもらえ!)
情報ソースとしては悪くないかもしれませんが、青森市の都市計画をどういう風に持っていきたいかの資料集でしかなく、具体的なビジョンは少なくとも私には何も見えてきませんでした。
青森市がやべぇ消滅に向かってひたすら突き進んでいるのを感じることは出来ましたが。
別にこれがダメだというのではなく、これはこれで必要な情報も当然ながらあります。富山市のマスタープランに足りない視点もあるかもしれません…。
しかし青森市と合併した旧浪岡町…大味すぎる区分の中で「拠点」は市のココとココとココね!という解像度の低いものが目立ちます。
生活者レベルの視点になった時に、大きな商業施設などのあるそこまでのアクセスをどうするのか。
車社会が持続することが前提となっており、高齢化して免許を返納したり、足腰が弱くなった時の買い物や通院のことなど誰もが何とか出来ている前提になっていて、押し付けられ感を私は感じました。
市内全域から青森駅前(中央)・新町商店街に人が集まってくることを前提に
冬は1時間以上も平気で遅延する市営バスの停留場の数や本数を検討・検証。
年間の除雪距離が青森市の県庁前から広島県尾道市までの距離に相当する
平均33.4億円の除雪費がかかっていて大変だ…お、おぅ()
ハザードマップで堤防などが決壊するなどの洪水発生時の浸水地域を想定
拠り所である中心地の大部分が全滅するシナリオ。県庁も市役所もこれだと全滅するのですが…
津波で沿岸部と一緒にほぼ中心部は壊滅するシナリオ…
特に東部の造道(県立中央病院)周辺は紫色に…
そんな壊滅シナリオに誘導する居住誘導区域ェ…
青森駅前まで居住誘導地域になっている…
単身高齢世帯のメッシュ分布。中心部はほぼ高齢者がとても多い。
空き家も昔の中心地である旭町・金沢・古川・長嶋・橋本地区などに多い。
中学・高校・大学卒業を機に県外に若い人たちが逃げていく様子がグラフで残酷なほど明確に…()
青森市に入って来る人より、出ていく人の方が多いことを無常に伝えるグラフ…
青森県内の主要市と函館市での産業活動特化係数1.0が全国平均なので1.0未満は産業が弱いとなる。青森県は製造業(2次産業)が壊滅的に弱く、経済の土台がない所に3次産業が多いから賃金が安いことが伺えます。
だったらやることは工業化や企業の誘致ではないのでしょうか?
折角、東通原発があるのに、工業(工場)が青森市にやってこないのは誘致に対する努力が足りないのか。魅力がないからでしょうか。
青森市の「マスタープラン」で掲げているテーマは、
魅力がなく、人がいない、滅びゆく県都あおもり…の間違いでは?
多分、市議も県議も何故こうなったのか未だに分かっていないと思います。
自分たちの立てているグランドデザインから間違えているのだが…
ちなみにフォローでもなんでもありませんが、抜粋したこれらの富山市のマスタープランは平成17(2005)年~平成19(2007)年に検討されたもので、スライドそのものは平成31(2019)年のものです。
一方で青森市のマスタープランは令和4(2022)年作成のもので、2042年度までの目標だそうです。
ハザードマップによる両市の違い
富山市の場合
一方、富山市のコンパクトシティ構想の前に青森市と比較をした場合に気になる点があるとすれば災害におけるリスクにどう取り組むかの違いも感じられます。
以下は富山市が公開しているハザードマップですが、市内の北部~富山駅周辺は活断層が走っており、もし仮にこの断層が原因で大きな地震が発生した場合に富山駅周辺および北部の海沿いまでは建物の倒壊などの大きな被害が考えられます。
2024年1月1日には能登半島地震で隣県と共に大きな被害を受けた地域だけに地震に対しての防災が後回しにしているわけではないかもしれませんが、懸念事項ではあります。
また大きな河川がある街ですので、仮に氾濫などが起きた場合の想定でも富山駅周辺は浸水などの大きな被害を受けることが考えられます。
基本想定でも富山駅周辺は3.0~5.0m、1000年に1度級の最大想定で10.0~20.0mの浸水とされており、この場所は氾濫流への警戒地域にもなっています。
また日本地震本部における震度6弱以上の揺れの想定では富山市沿岸部もやはり警戒地域になっています。
青森市の場合
まぁ、青森市も氾濫時には青森駅周辺の中心部は3.0~5.0mの浸水で壊滅するんですけどね。
陸奥湾(青森湾)は津軽半島と下北半島に囲まれた内海なので大きな津波被害が長年起きていません。しかし昭和三陸地震など全く影響がなかった訳でもありません。
仮に津波が湾の中で発生した場合、線路(現:青い森鉄道)より内側はほぼ壊滅的な被害を受け、この中に青森市の中心街は大部分が含まれています。
港町ですから高潮のリスクも想定されます。
これもまた同じように線路の内側の広い範囲が打撃を受けます。
地震が発生した場合でも日本海溝モデルと入内断層モデルでのシミュレーションがされています。
特に日本海溝モデルは地震の規模も大きくなることが想定され、元々の海岸線だった埋め立て地一帯は広範囲で打撃を受けることが想定されています。
港町というのは海のリスクと隣り合わせですから、普段は海運などのベネフィットが上回っているけれど一度それが牙をむけば打撃になるのは当然です。
それでも青森県内の主要都市の中ではまだマシな方なのですから、青森市が壊滅的被害を受けた場合には県都(県庁所在地)を弘前市などに再び移すことも検討されるかもしれません。
青森県のトラウマ
災害対策を重視
青森県はこれまでに1933(昭和8)年に岩手県釜石市東方で発生した昭和三陸地震(マグニチュード8.1)、1952(昭和27)年の十勝沖地震(M8.2)、1994(平成6)年の三陸はるか沖地震(M7.6)、2011(平成23)年の東日本大震災(M9.0)など太平洋沖を震源とする大きな地震が度々襲いました。
沿岸部は特にその度に大きな被害を受け、経済的に決して豊かではない青森県はその発展に足踏みをする事を経験してきました。
日本全国どこでも大きな地震が起こり得、またどこの地域でも過去に大きな地震を経験しているとはいえ本州最北端である青森県にとって災害は何よりも優先的に市や県が取り組んでいかなければならないものという認識が青森には特に色濃く表れます。
それは既に触れた通り冬の季節に大雪による雪害を日常的に経験している事も少なくない影響を与えています。青森市は除雪費用のために年平均33.4億円が支出されています。
これは令和4(2022年)度における青森市の歳出1451億円に対して、約2.3%を占めています。
平時から常に災害に見舞われているような状態のために、国からの補助金を要請して穴埋めをしたりしていますが、青森市だけでなく青森県全体でこうした雪による支出が多く、市区町村ごとではなく県へまとめて交付される仕組みのものも少なくありません。
これが全てではありませんが、どうしても限られた市や県の予算に対してやるべきことの優先順位は企業誘致や産業育成よりも、災害対策に傾倒しがちです。(取り組んでいない訳ではなく、優先順位の話)
また青森市も戦争末期、1945年7月14~15日に青森大空襲で市街地の88%が消失。殆ど何もない状態からの戦後を迎えます。
そして復興にあたり本州から北海道への物流の拠点として発展を遂げるために青森湾からの青函連絡船での物流が大きな原動力となりました。
つまり焼け野原となった青森市は戦前と同じく再び青函連絡船を活用したスイッチバック形式の駅と港が一体になった構造による青森駅を中心とし、それに合わせた市街地を形成したことで、この中心地は狭く集約され北東北一の商業都市を形成していきました。
しかし1988(昭和63)年に青函連絡船が廃止され、フェリーふ頭は待機場所を広く取れる西部の海岸線(油川・沖舘地区)へ移転。
物流の流れが大きく変わると青森駅前はかつての賑わいを取り戻すことなく、またその直後にはバブル崩壊の時を迎えます。
青森市が他の地方都市と比べて非常に特徴的な点の一つに青森県庁・青森市役所前の国道の幅があります。
青森県庁前を起点に東京からの国道4号線、新潟市からの国道7号線が合流します。
この2つの国道が合流する道ですが、人口26~30万人都市としては珍しい片道3車線、往復6車線という非常に広い道幅となっています。
復興から高度経済成長期にかけてこれからはモータリゼーション(自動車)の時代だと予見した当時の市長が、市民や商工会からの反対を押し切って道路を拡張。
現在では車社会の青森市において大動脈となっており、先見性に光るものを感じますが、一方でこの広い国道によって駅前からの中心街は隔離され、国道沿いから一本入ると今度は線路に挟まれた古川・長嶋地区は急速にさびれた住宅街の雰囲気を醸し出しています。
更にこの国道より海側の繁華街では過密による地価の高騰もあいまって中心地への人の流れの回帰を目指した再開発はうまくいかず、むしろ高度経済期からバブル期にかけては郊外への住宅街の乱開発が行われ、市街地はどんどん東部・西部と南部に広がっていきました。
商工会に大きな影響を与える中心地の地権者たちはこれまでの青森の発展に貢献してきたことを傘に取ったのかは分かりませんが、中心地から百貨店、商業施設が郊外へ移転していくのに強く反対したであろう事は想像に固くありません。
結果、県議会・市議会はこうした発言力の強い地権者たちの意向を組みつつも、東北新幹線誘致という戦後最大の機会を取り込むために国と県との板挟みになりました。
北海道新幹線との接続を優先した新青森駅の西部地域の郊外(石江地区)への誘致、それを行うための西バイパス地域の開発規制、中心地の地権者をなだめるための駅前再開発ビル「アウガ」の建設、駅前周辺の再開発も行いました。
南部に広がる新興住宅地(浜田地区)に1970年代、まだそれほどの政治力・交渉力はありませんでしたので、操車場跡地(現:セントラルパーク)への青森駅移設と新幹線誘致案は一瞬持ち上がっただけですぐに見送られました。
また「商業の街」といっても、本州と北海道の物流の中継地である青森市には特別な産業が根付きませんでした。卸業・問屋業が一定の発展を遂げますが、これらもインターネットの普及によって衰退を迎えました。
弘前市などのような林檎、八戸のような海産物、下北のようにマグロやホタテ…青森市には特に特産品と呼べるモノもありませんでした。
市内で労働者を雇い、何か生み出したものを県内や県外へ積極的に売り出していくものがないということは、国でいえば輸入超過であり、貿易赤字ということになります。
青森市はその雇用と産業が生み出す付加価値を市内または県内での消費に留め、非常に内向きなこの産業構造が経済成長しない、雇用を生み出せない、最低賃金以上の給与・報酬を提示できない状況を長年生み出しています。
当然ながら青森県もそれを手をこまねいていたわけではありません。
工業化への挑戦とその失敗
1962(昭和37)年に池田隼人内閣が掲げた「所得倍増計画」の一環であった「全国総合開発計画」によって日本では太平洋ベルト地帯(中央地帯)における復興・工業化は一気に進み、日本は高度経済成長期に突入しました。
国土面積の31.1%に人口の63.4%が集中し、工業出荷額の83%を占めるという過密ぶりは限られた国土の日本において大きな課題でした。
特に石油化学コンビナートなどの重工業などの大型産業が集中する地域では四日市ぜんそく(三重県)などの公害が大きな社会問題となり、こうした問題の解消策として重工業地帯の移転が真剣に議論されました。
およそ1970年にこの計画が達成を迎えようという1969(昭和44)年、1985(昭和60)年までの「新全国総合開発計画」が掲げられました。
過密となっている石油化学などのコンビナートなどを発展の遅れている地方に分散し地方産業(工業化)の底上げを行い、太平洋ベルト地帯の過密化を緩和しつつ、公害の問題や大都市圏への集中を是正・分散しようというものでした。
1973(昭和48)年、東海道新幹線の成功例に倣って、さらなる経済成長を目指して、全国新幹線鉄道整備法に基づき北海道新幹線(青森-札幌ルート)・東北新幹線(青森-盛岡間)・北陸新幹線・九州新幹線(鹿児島ルート)・九州新幹線(西九州ルート)の整備計画が決定。
この時、北海道の開発計画では農業・畜産の生産性増大、高速道路整備計画、室蘭・苫小牧地区の港湾整備と重化学工業地帯の整備や国際空港整備(現在の新千歳)計画が織り込まれ、札幌から道北まで延伸をしての北海道縦貫新幹線や道央から道東にかけての北海道横断新幹線の計画、太平洋沿岸における海底資源の開発計画や大規模コンビナートの建設、原子力発電所や原油輸入基地、海外(ロシア)からのパイプライン引き込みによる天然ガス基地を設けて道内の都市や工業地帯に安定的にエネルギーを供給する青写真が描かれていました。
東北・北陸では自然の保全(十和田八幡平などの国立公園・国定公園整備)や農作物の一大供給地としての更なる生産量の増大を求めると、共に東北縦貫自動車道、東北横断自動車道、関越自動車道、常磐自動車道、北陸自動車道および基幹的な国道の整備計画と東北新幹線の建設の早期実現。
奥羽本線・羽越本線などの鉄道路線の電化、線増や青函トンネルの建設の推進、流通拠点としての仙台港・秋田北港・坂田北港・新潟東港等の整備、太平洋側の仙台空港等の整備や地熱などの新たなエネルギーを模索しつつ、女川・大熊原子力発電基地の建設計画を推進が掲げられました。
中でも「主要開発事業の構想」として取り上げられたのは陸奥湾・小川原湖周辺ならびに八戸・久慈一帯に当時世界最大の巨大臨海コンビナートの形成を図るというものでした。
工業地帯を誘致したいというのは主な産業が第一次産業(農業・林業・漁業)などに大きく依存していた青森県が他県に遅れず経済成長していくためには欠かす事のできない要素でしたが、六ケ所村の対象区域の住民の意見は割れ、激しい反対運動も起こりました。
しかし六ヶ所村長選挙で開発推進派が開発反対派の現職を破り当選すると開発受け入れに大きく舵を切りました。
県の外郭団体が土地の買い上げを行い、多くの住民の移住が始まった頃、オイルショックが1973(昭和48)年、1979(昭和54)年に相次いで発生。
住民が苦渋の想いで県と村の未来に期待をして手放した土地は、企業が新たな工場の建設を見送ったことで殆ど売れずに放置されることになります。
この打開策として1985(昭和60)年に、県が受け入れを決めたのが再処理工場を始めとした核燃料リサイクル施設でした。
企業と工業地帯の誘致に失敗した青森県を襲った悲劇は、それだけではありませんでした。オイルショックによってもたらされた景気後退で整備新幹線の八戸延伸は凍結。盛岡のまま新幹線は止まってしまったのです。
県庁所在地として青森市の発展に大いに期待していた新幹線はいつまでもやってこない上に、国鉄はJRへ民営化(1987年)。
採算が見込みにくい地方都市への延伸に積極的でない事から県と市の負担が大きく突き付けられました。
そうしているうちに、1988(昭和63)年に世紀の難工事と呼ばれた青函トンネルがついに完成。津軽半島に全国から集まってきた工事関連の労働者は一斉に地元へ帰っていき津軽半島は急速に人口減少。
そして青函トンネルの完成は、青函連絡船廃止を意味していました。
本州-北海道の中継地として栄えた青森駅は「商業の街」としての役割を終え、青森市は産業の空洞化が露呈します。
折しもバブル崩壊(1989~1995)の時と重なり、国内景気は悪化。
折角、大学・短大・専門学校を卒業しても県内は愚か、全国に殆ど働き口などありません。就職氷河期を始めとした団塊ジュニア世代の若者が高校を卒業を迎える時期になると県外への進学・就職という現象が当たり前のように起こりました。
2010年10月には待望の、悲願だった東北新幹線全線開業を迎えました。
しかしその時には既にバブルが崩壊してから20年が経とうとしており、帰って来ることが望まれた団塊ジュニア世代は既に県外で就職、家庭を築いた人も少なくなく、仕事も基幹となる産業もない青森市に帰って来ることは稀でした。
またそれでも県も手をこまねいていたわけではなく、県内の産業の立ち上げようと奔走していました。
2000年代に入ると、落雷も少なく、安い労働力、豊富な水資源と電力供給能力のあるむつ小川原地域に再び注目が集まりました。
九州が高度経済成長期に国内半導体の集積地として「シリコンアイランド*」と呼ばれたことに倣って、青森県は21世紀のテレビや携帯電話の画面に不可欠とされていた液晶ディスプレイやフラットパネルディスプレイ(FPD)産業の集積を目指して「クリスタルバレイ構想」を立ち上げました。最大のライバルは同じく「クリスタルバレイ構想」を掲げシャープ亀山工場を有した三重県でした。
青森県は構想10年、10~15の事業所誘致を目指し、設備投資額2,000億円、雇用者数5,000~6,000人、年間出荷額2,400億円を目指していました。
2001年、その想いに応えようと東北にも工場を持つアルプス電気、カシオ計算機、セイコーインスツル、日立化成工業、アンデス電気、アンデスインテックら6社が出資により、日本初のオーダーメイド型リリース工場(現在のTSMCなどのファウンドリ・IDMに相当)として様々な企業からの製造受託を開始。
2011年7月の地デジ移行が迫り液晶テレビが飛ぶように売れ、シャープの亀山工場や堺工場などが注目される中で、青森県も続けて液晶ディスプレイの一大供給地になろうと再三三度の工業化への挑戦をしていました。
しかし原価を無視した投げ売りのような家電量販店での熾烈な価格競争、エコポイントバブル。
中韓企業が日本人の技術者を取り込みノウハウを吸収してソニー、パナソニック、シャープ、東芝、日立、三菱などの大手日の丸家電がこの分野において壊滅するまでに至り2010年7月に県は同構想の抜本的見直しを表明。
県が補助金を出して六ケ所村に設立された東北デバイス社も同年同月に破産手続き、岩手県から誘致したエーアイエス社*もリーマンショックによる世界的な経済危機を引き金に相次いで2010年11月に破産手続き。
雇用を生み出すどころかこの破産手続きによって、雇用200名が失業をしました。
一般社団法人機械振興協会の調査研究部の近藤信一氏の2011年1月における「機械情報産業カレント分析レポート」によると三重県と青森県では同じ「クリスタルバレイ構想」という名前を掲げているものの両者はまるで異なると指摘しています。
そして青森県がこのクリスタルバレイ構想の挫折から学んだことを以下のようにまとめています。
この指摘は青森県と青森市がこれまで立て続けに失敗してきた都市計画から産業振興、大学設置(県庁所在地なのに県下の国立大学は弘前大学で、青森市内にわざわざ公費で青森公立大学を設立)にまで共通して言える非常に重要な指摘が含まれていると思います。
原因と結果どちらが先という話ではなく、また今日既に東京一極集中にも限界が見え、人口減少も止められないという結論が出ている現在において地方都市が抱えている様々な問題と向き合うためにこの指摘と「コンパクトシティ構想」について再考することは私は欠かせないと考えています。
次回はこの「コンパクトシティ構想」、青森市と富山市でどう異なったのか。青森市が現在検討を進めている青森市民病院と青森県立中央病院の「統合新病院」の議論の行方についても随時気が向き次第まとめていきたいと思います。
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