📧スイス金融立国への歩みとクレディ・スイスの栄光、そして欧州金融危機は再び…?⑭(2023年04月前半号)
株式投資の神様ウォーレン・バフェットは「自分が良く分からないものには投資をしない」という投資哲学を持っているそうです。
2023年3月初旬、米国シリコンバレーバンク(SVB)破綻などと直接的な関係はないものの昨年からの世界的な金利急上昇に端を発した局面で、スイスを中心とした長い歴史を持つ欧州の巨大金融機関が共振と思われる揺さぶりの中で正念場に立たされました。
何故、市場がパニックのような状態になったのかと言えば預金者も、投資家も「良く分かっていない」から自分たちで勝手に不安を増幅して下落の引き金をみんなで仲良く引いています。
3か月おきなどで成果を求められる機関投資家(法人の投資家)や、決算ごとに評価損益を発表しなければいけない金融機関などは別として、シリコンバレーバンクなどにFRBは資金の流動性を供給し、こうした混乱による事態はほどなく収まるでしょう。
けれど一度始まった混乱はドミノ倒しのようにあっちの不安、こっちの不安を突っつき始め、不安の連鎖があちこちに波及します。
つまり勉強しない投資家は市場を去ることを余儀なくされるのがいつの時代も常です。(ざまみろ)
さて、そのとばっちりというかこういっては当事者にとってはオコな案件なんですけど、近代以降の166年に渡って欧州金融の中枢を背負った名門銀行「クレディ・スイス」が、いよいよその長い歴史に幕を下ろすことになりました。
クレディ・スイスをもし知らない人がいたとしても、富裕層や闇の組織などが相続対策や資金洗浄などでスイス銀行にお金を預ける(隠す)…というエピソードを映画や小説、漫画やアニメの中で見聞きした事くらいある人はいるでしょう。
これまでも「大きすぎて潰せない」と言われ、同じくスイス三大銀行として長年のライバル関係にあったUBSによる買収合意発表でパニックは一時終息したと言えますが、これは長い道のりの始まりに過ぎないかもしれません。
両行ともスイスの金融システムに根深く繋がっており今回のクレディ・スイス破綻危機は、様々な問題のいわば氷山の一角に過ぎません。
藪を突っつけば蛇が出る…金融の闇とも呼ぶべき様々な問題が明るみになりつつあります。
特にスイスはこの問題の世界の中心、震源地であり、EU非加盟国でもあるが故にECBからの救済も見込めないため最悪の場合には欧州ひいては世界中の金融機関全体にも波及しかねない影響を持っています。
今回はこの騒動を機会としスイスと金融、そして話題のクレディ・スイスについて世界の経済にどんな足跡を残してきた金融機関なのかをダイジェストで振り返っていきます。
事件の全容は別な機会に改めて分かっている範囲のことをまとめてみようと思いますが、数年も経てばあちこちで分析がされて事件の全容がリーマンショックの時のように明らかになって来るでしょうから、今は世の中の出来事やそれが何故起きているのかということに関心を持つ意味で経済ニュースを眺めていれば良いでしょう。
サブタイトルは「さよなら名門クレディ・スイス」です。
(え?気が早い?PBのファースト・ボストンだけ吸収してポイしそう…)
スイスという国
スイス建国史は諸説あり複雑ですので、一番メジャーそうなのから。
地中海に面したイタリアとの間をアルプスの4000m級の高い山など48峰に阻まれた土地であるが故に、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)から王位継承されなかった王族が隠居するための場所として土地が開拓され始まります。
中世には現在のジュネーブ大学(1559)の創設者でもあるジャン・カルヴァン(フランス出身)のような宗教改革者が現れ、プロテスタントという新しい宗派が広まる端緒となった震源地(※)の一つもスイスでした。
隣国フランスで起きたフランス革命(1789)に触発され、世界で最初の直接民主主義を取り入れたヘルヴェティア共和国が1798年に誕生したことを一つの建国の起源とすることが出来ます。
18世紀の産業革命以降の近代においてスイスの近代史は、シンガポールがヨーロッパとアジアの中継地として発展したことの内陸版と考えるとイメージがしやすいかもしれません。
中世最強を誇った傭兵軍を要するスイスは欧州の王族や貴族、資本を持つ人々の希少な財産を守るのにも打ってつけだったこともあり、欧州の資金が集まる場所として後のプライベートバンクの素地となります。
しかし近世に入るとスイスは、フランス・プロイセン・オーストリアなどの列強に囲まれ、近代化には遅れを取ってしまいます。
何しろ国土そのものがほぼ山の中で産業革命の伝播が遅れたうえに、河川は山間部を縫うように走っているため交通の便が余り良くない土地柄だったことも一因でした。
そこでスイスは1815年からウィーン会議によって永世中立国となり、この中立という立場を活かして第一次・第二次世界大戦では直接的対立による被害を受けることなく欧州中から集まっていた資金を使って山間を走る鉄道網の整備という投資を行い、ヨーロッパの両陣営に物資の供給を行い発展を遂げていきます。
一方で中立国という立場のため第二次世界大戦の戦勝国によって構成された国際連合にも加入を長年してきませんでしたが、国際的な秩序と枠組みを守るためとして2002年に加入。
その一方で国際連盟時代から本部が置かれ、国際連合の時代になってもニューヨーク本部に次ぐ国連事務所として機能し、その他に世界保健機関(WHO)や世界気象機関(WMO)、世界貿易機関(WTO)、赤十字国際機関また欧州経済委員会(ECE)や欧州サッカー連盟(UEFA)など数多くの国際機関や欧州関連の本部や事務局が設置されています。
またジュネーブは降伏した戦争捕虜や非戦闘民間人を攻撃してはならないジュネーブ条約など歴史的にも重要な条約が交わされてきた場所でもあります。
EUには現在も加入していないため共通通貨ユーロではなく、自国通貨スイスフラン(CHF,Confoederatio Helvetica Franc*)を採用しています。
言語は隣接するフランス・ドイツ・イタリア語の他、ロマンシュ語の四言語を公用語としています。
スイスの経済と産業
国土は日本で言えば九州(4.22万km2)よりやや小さい広さ(4.12万km2)。
総人口は2021年わずか870万人。
同年の名目GDPは7,997億ドルで世界21位(日本は3位で4兆9,325億ドル)ですが、国民一人当たり名目GDPでは世界第三位と経済的な豊かさを誇ります。
スイスのGDPの約7割を第三次産業が占めています。
特に金融業(銀行・証券・保険)は全体の10.5%を占め世界トップ。
労働人口の5.8%が金融業で働いており、これはシンガポールに次いで高く世界第二位と言えます。
スイス時計産業と投資
またスイスといえば高級時計が有名です。実は時計産業と資本主義、投資は歴史的にとても深い関係にあります。
世界の時計生産台数では僅か2.5%ほどのシェアですが、1万フラン(約15万円)以上の高級腕時計の95%はスイス製(Swiss Made)。
腕時計全体の売上高でも世界で半分のシェアを誇ります。
しかしスイスの時計産業がGDPに占める割合は1.5%ほど。殆どが手作業のため数を作れず、年間3万台前後。芸術品として付加価値を高めての輸出によって成り立っています。
スイスの労働人口は約490万人(総人口比56%)ですが、時計産業で約6万人(1.2%)が働いています。
前述の金融業の1/4以下と働き手が少なく、またスイス国内の平均賃金(月給)に対して約1000フラン(14万円相当)ほど低く5,400フラン(約77万円相当)と他の業種と比べて同国内においては低賃金の職業です。
時計は元々、隣接する現在のドイツ周辺で職人たち(ギルド)によって生み出されました。
それが16世紀のルターやカルヴァンによる宗教改革(反カトリックのプロテスタント誕生)と共に欧州の広い範囲に普及していきます。
プロテスタントは「働くことは美徳」、「人が神から与えられた能力」であるとされていたため繊細な歯車を組み合わせて一つの機械を作る時計職人の人気は凄まじく時計産業は技術の研鑽と練磨によって昇華されていきます。
イギリスにも広まった時計作りはそれまでの教会などの鐘と合わせて人々に正確に時刻を知らせる役割としてエリザベス1世女王の治世に始まり、「徒弟法」として労働者の時給の概念が登場します。
また時計技術者たちの知る歯車の仕組みはその後、そのままイギリスの産業革命において蒸気の力を如何に目的の場所の機械を動かすかの仕組み(機械工学、物理学による回転運動・往復運動や変換する脱進機やカム理論)として重用され、工場だけでなく鉄道・蒸気船など幅広く応用されていきます。
イギリスの時計職人たちは工場の機械や鉄道・蒸気船の駆動開発に奪われてしまい、旧態依然とした生産体制のままで18世紀をピークにイギリスの時計産業は衰退に差し掛かります。
一方でこの頃にスイスでは時計産業が本格的に家内制手工業として始まります。
スイスのジュネーブ近郊などは元々、独特のセンスと彫金やエナメル細工など豪華で華美な宝飾加工をすることが得意な土地柄で、あえて機械仕掛けの複雑な機構を持つ時計を作る必要はしばらくの間ありませんでした。
16世紀の宗教改革によってユグノー派*(仏国プロテスタント)の時計職人たちがユグノー戦争(1562-1598)の戦火から逃れるためスイスに渡ってきた時にその素地が作られますが、絢爛豪華なカトリックに対する批判もあり、華美な装飾は好まれず殆ど定着しませんでした。
しかしこの技術とセンスという素地の上に、ブランパン*の開祖ジャン・ジャック・ブランパンが1735年、工房を開き時計技術が融合。ブラパンは世界で最初の時計ブランドとなります。
続いて1738年にピエール・ジャケ・ドロー、1755年には1755年にはジャン・マルク・ヴァシュロンなどが続き、パリへ出店するとスイス製の時計の品質の高さに驚かれます。
これに目を付けスイスの時計は高く売れると考えたのが、資本を持つ投資家(銀行家)たちによる投資と要求でした。
投資家は出資をする代わりに時計職人たちに作業効率(生産性)を高める事を求め、部品・組み立ての工程ごとに専門のエタブリスゥール(組合)を作り、組立業者が品質をチェックして組立て完成品にする仕組みが確立し、産業として定着していきます。
スイス時計産業の始まりから間もなく約300年。大陸欧州を巻き込んだナポレオン戦争や二度の世界大戦、間で起きた世界恐慌などの混沌とした時代であっても戦地を始め世界中にスイス時計は貴重品として流通しますが、この間もスイス時計産業は逆境と挫折の連続でした。
特に19世紀後半にはアメリカでの大量生産でスイス時計の対アメリカ輸出台数は75%が減少するなどの大打撃を受け、また1970年代に日本の時計メーカーSEIKOによるクォーツ・ショック**で安くて正確、しかもメンテナンスも殆ど不要な時計やデジタル時計が大量に出回ると壊滅的打撃を受けました。
スイスの時計産業は最盛期9万人(1960年)いた労働人口から一時3万人割れ(1980年)まで減少。
1990年代にはスウォッチ*による低価格路線で反転攻勢をしかけたのを契機として時計産業は今日の付加価値路線を復活させ、現在やっと労働者数も2/3まで回復してきた途上にあります。
近年は携帯電話やスマートフォンなどの時刻を知る代替品が増えたことに加え、Apple Watchなどのスマートウォッチの本格的な普及にあたり再び腕時計を巡る市場は競争が激しくなってきています。
人の腕は基本的に左右2本しかなく、二本も三本も腕時計やスマートウォッチを付ける必要はありません。
腕時計が単に時刻を知り、時間を把握するためではない宝飾品などと並ぶステータスになるならばスマートウォッチが普及するほど腕時計の希少価値もまた高まっていくのかもしれません。
スイス時計産業にとって芸術品として職人らによる手作業で完成された付加価値を提供し、それに対する対価としての価格と価値が認められる人に使ってもらえるとしたらそれは職人としてこれほど喜ばしいことはなく、本質的な脅威ではないのかもしれません。
スイス金融と世界企業
スイス時計以外にも、スイスの金融によって投資されてきたことで世界的企業となっている会社がいくつもあります。
ここではスイスに本社のあるグローバル企業を例に挙げていきたいと思います。
例えば医薬品では世界第二位のロシュ、第五位のノバルティスファーマ(ノバルティス)です。
ロシュで尤も知られているのは新型コロナウィルス感染症の治療薬としても注目された抗インフルエンザ剤でしょう。
その他にも抗ガン剤や抗マラリア剤、睡眠薬、抗不安薬などの製薬で近年大きな売り上げをあげてきました。
またノバルティスは古くは1938年に前身のA・Gサンド社時代にLSDの合成に成功した企業で、幻覚作用をもたらす半合成幻覚剤であることから精神疾患等の研究に使われたり、末期がんの患者の抑うつや死への恐怖を緩和する目的で使われる一方で、自白剤としての応用など負の面の研究の対象ともなりました。
薬物を肯定するわけではありませんが、1960~70年代には欧米の薬局の店頭に並び、ヒッピー文化の大流行期にスティーブ・ジョブズなどもこの時代に神秘体験をしたと語ったり、その時代のサイケデリックなアート・音楽など文化と共にその使われ方と流通に変化が起きます。
しかしその使われ方が社会問題となり米国では1965年に違法薬物として規制が始まり、日本でも1970年から所持禁止の麻薬として指定されます。
現在のノバルティスは抗がん剤やアルツハイマー型認知症などの難病治療薬開発や新薬の開発に力を入れています。
その一方で薬価の高騰も進んでおり、1回の投薬が米国では2億円超というものも登場しており何かと話題になっています。
医薬品は研究開発から実際に市場に薬として出回るまでに時間がかかり、1つの薬ができるまでに約9~17年、費用は約500億円~。
しかもどれだけ売れるかは事前に予測することが困難ですし、競合他社からより安い薬や副作用の少ない薬が出れば資金の回収が途絶えます。
採算性を考慮すると製薬業は産業として容易には成立しません。
これらはスイス金融による長期投資に支えられています。
またこの製薬関連技術は基礎研究と特許によって支えられ、スイスはアメリカと並んで世界で最も製薬に関して特許を出願している国の一つでもあります。
また世界最大の食品・飲料会社であるネスレもスイスに本社を置く会社です。
日本でもコーヒー(ネスカフェ)や麦芽飲料(ミロ)、キットカットなどを展開していますし、北米では高級アイスクリームのハーゲンダッツもネスレがライセンスを取得して販売しています。
またネスレが今日のような巨大な食品・飲料会社となったきっかけは長年のライバル関係だったアングロ・スイス社との合併を1905年にクレディ・スイスが仲介したことに始まります。
金融立国スイス
世に言われる「スイス銀行」は、ヨーロッパの銀行(主にドイツやフランス・オランダ・イタリアなど)が産業革命と資本主義の拡大期に自分たちの金融資産を隠すためにアルプスに阻まれて攻められにくい永世中立国スイスにその資本を隠したことがその起源とされています。
隣国であるナチスドイツがユダヤ人への迫害をし始めると隣接する国々の人々は永世中立国であるスイスにそうした人々の資金の隠し場所としてスイス銀行は機能しました。
しかし第二次世界大戦が終わって、スイス銀行に資金を預けたユダヤ人の親族たちが資金を引き出そうとした所、これを様々な理由をつけて言い訳をして拒否。
批判的に表現すれば自発的に相続させず、膨大な資金をスイス銀行の中に滞留させて世界大戦後の復興への投融資をして欧州金融の中心地となったのが今日に至る大まかなスイスの金融立国としての歴史です。
一見すると金融の世界は華々しく見えますが、内情は非常にドロドロしており、誰かの犠牲(損)が誰かの利益(得)であることが日常茶飯事。
札束で相手を殴って生き残った方が勝者、ハメたハメられたは当たり前の世界です。
英国のことをその二枚舌外交や世界の紛争・対立の原因を作ったクズっぷりからネットスラングでは「ブリカス」と呼びますが、金融に関してはスイスもなかなかに腐っており、通貨から取って「腐乱」と呼ぶIFAもいます。
「スイス銀行」と多くの人が呼んでいますが、日本銀行やFRBなどの中央銀行*のような立場ではなく、また単独の金融機関(銀行)の事でもなくスイスの銀行協会に登録してある金融機関全てを指す言葉で、その中核を担っているのがUBSとクレディ・スイスになります。
スイス三大銀行
スイスにはこうした欧州中また世界中から資金を集めた大きな金融機関がかつて3つ存在しました。
スイス最初の鉄道駅(1860年)が開設されたスイス北部の都市バーゼルで、その鉄道網の整備に投資をしたバスラー銀行を中心に、1872年に6つの私立銀行が合併して設立された"スイス銀行コーポレーション"(Swiss Bank Corporation、SBC)。
後に欧州の各地に進出し、チューリッヒ銀行や諸外国の投資会社・投資銀行とも合併を繰り返しながら大きく成長していきます。
もう一つはスイス北部のチューリッヒ州(州都チューリッヒ)で1862年に設立された"ヴィンタートゥール銀行"。
スイスの工業の中心地だったヴィンタートゥールにおいてスイス国立鉄道(SBS)や工業化などに投融資を行って成長。
スイス東部リヒテンシュタインなどを中心としていたトッゲンブルガ―銀行と1912年に合併しスイス・ユニオン銀行(Union Bank of Switzerland)となり、1998年に前述のスイス銀行コーポレーションと合併しスイスで2番目に大きな銀行、そして世界で二番目に大きな銀行UBS(United Bank of Switzerland)となります。
そして3つ目が1856年、同じくチューリッヒで設立されたのがスイス信用銀行、つまり"クレディ・スイス"です。
クレディ・スイスの沿革と栄光の時代
クレディ・スイスの沿革は古く、山に閉ざされ産業にも乏しかったスイスが産業革命によって急速に発展していく欧州で孤立することを防ぐためアルプスを抜けイタリアと交易が出来る当時世界最長のトンネルを開通させる鉄道計画を発案したのが政治家で実業家でもあったスイス近代化の父となったアルフレッド・エッシャーでした。
エッシャーがその鉄道整備(スイス国立鉄道)のための金融機関として1856年にスイス信用銀行を設立したのが今日のクレディ・スイスの始まりとされています。
その後、スイスの国土の隅々まで鉄道網を整備。また中世以来続く中立国としての立場を活かし、資金の隠し場所としての欧州中からの資金を集め金融立国としての基礎と欧州の東西南北を結ぶ要所に国を作り変えました。
また1869年にクレディ・スイスはスイス運送保険会社を設立し、運送時における損害リスクを保障。これは後に現在のチューリッヒ保険の原点となります。
1910年にはエジソンから特許を取得したことを機にドイツで設立された電機メーカーAEG*やドイツ銀行、ベルリン商銀*と電力事業に参入。
スイスでは刑事告訴等の一定条件を除いて顧客情報を銀行が政府機関に提供することを禁じる銀行秘密法が1934年に施行されます。
これによって中世から銀行が独自に行ってきた秘密主義が法制化され、明確な根拠となりました。
そしてこの法律に裏付けされスイス金融の秘匿性の高さは、やがて欧州だけでなく世界中の富裕層からの資金を集めて投資する、同社の事業の中核となるプライベート・バンク(PB)*としての走りとなります。
その少し前、1932年に世界恐慌下のアメリカではグラス・スティーガル法*によって銀行・証券の分業化が適用されたファースト・ナショナル・バンク・オブ・ボストンは投資部門(投資銀行)を独立させ、ファースト・ボストンが誕生。
そして1987年のブラックマンデーでの米国経済の混乱期にクレディ・スイスはファースト・ボストンを買収し、ブティック会社として債券投資部門が独立し今日では世界最大の資産運用会社となっているブラック・ロックが誕生します。
また今日では世界最大の再保険会社であるスイス・リ(Swiss Re)もUBS、クレディ・スイスなどの共同出資(投資)によって設立された金融機関(1863年)です。
スイス・リの保険金支払いで近年、最も有名なのは米国同時多発テロ(911)における世界貿易センタービル(WTC)の支払いでしょう。
WTCオーナーの内、22%と最も多くの再保険を引き受けていたスイス・リは契約通りの約1000億円の保険金を支払いました。
クレディ・スイスは米国の中央銀行にあたるFRB設立などに尽力し、米国金融の中核を担ってきたモルガン・スタンレーを上回る運用資産*を1990年代には持つ、当時世界最大の巨大金融コングロマリットだったのです。
しかしクレディ・スイスはこの後迎えた2000年代、ITバブル崩壊からサブプライムショック、リーマンショックに始まる激動の時代に市場の変化に適応できず、巨額の損失と機会損失を積み重ね遂にその歴史に幕を下ろすことになりました。
世界でも有数の巨大金融機関の統合と、今回の破綻危機の余波はフランスやドイツを始めとした長年不安定だった欧州金融の根幹を揺さぶり、BNPパリバやドイチェ銀行などのEUの核ともなっている金融機関への不安も揺さぶり始めています。
まとまり次第、「さよなら欧州金融」にて、クレディ・スイス破綻危機が起きた顛末と欧州金融危機への懸念が高まっている背景を現在分かっているところまで書いていきたいと思います。
おまけマンガ
本編とはあまり関係ありません。
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