ⅶスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑩
マンガ「Mac登場とジョブズ追放」
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帝国の勃興と巨人の凋落
25歳でアップルコンピュータを上場成功させ、富裕層に駆けあがったスティーブ・ジョブズですが、30歳にしてそのアップルコンピュータの経営からはじき出されてしまいます。
アンディ・ハーツフェルドやビル・アトキンソンらマックチームの面々がジョブズを見舞いますが、彼は失意のどん底にいました。
しかし、スティーブ・ジョブズが何の経営権もない会長職に追いやられた頃、泣きっ面に蜂とばかりにマイクロソフトが追い打ちをかけてきました。
アップルコンピュータにとっては提携先の一つであったマイクロソフトがIBM互換機向けOS『Windows』を1985年11月にリリースすると発表したのです。
Windows1.0と名付けられたOSは、マウスによるアイコン操作のGUI(グラフィックユーザーインターフェイス)によってプログラムが分からないユーザーでも画面上のボタン等を操作することで扱えるとして大々的にPRがされていました。ジョブズはゲイツを呼び出し、問いただしました。
ビル・ゲイツはマッキントッシュのソフトウェア開発のために参加していた会議で公開された情報からマッキントッシュのGUIプログラムを模倣して、自社OSに採用して売り出したのでした。
しかし元々、マウスを用いたGUI操作はジョブズが生み出したものではありませんでした。ジョブズがゼロックスのPARCで開発中の物を見学時に見たものであり、Lisaそしてマッキントッシュにそれを模倣して搭載をしたものです。
PARCへの見学はビル・ゲイツも同様にしており、GUIやマウスによる操作という共通点や類似性というだけではアップルコンピュータから盗んだとは言えませんでした。
しかしマッキントッシュ開発で負荷の大きいGUI操作を如何に負荷を少なく使いやすくするかの様々な工夫(アーキテクチャ構築)に並々ならぬ努力と時間を費やしてきたジョブズたちにとってこれはマッキントッシュのアイデンティティを奪う大きすぎる出来事でした。
コンピュータ業界また芸術の世界において模倣(コピー)は盗作(パクリ)とインスパイアと紙一重の一面があります。
コンピュータ業界最大の盗難事件として扱われるこの騒動は、形を変え今日でも様々な方面で火種となっています。
泣いても騒いでも今や何の経営権もないジョブズにはどうすることもできません。
そして自分自身が盗人である以上、マイクロソフトを訴えることで自分たちもゼロックスから訴えられることになる完全な膠着状態(デッドロック)に陥ります。
そしてマイクロソフトとWindowsがその後、世界のコンピュータ市場でどれだけ市場を席巻したか、語るまでもないでしょう。
その後1987年12月にWindows2.0、1990年5月にはWindows3.0、1995年8月にはWindows95としてリリースされ着実に市場を獲得していき、アップルコンピュータとのOS開発競争で帝国とまで呼ばれる独占的地位を構築していきます。
コンピュータ産業の主戦場はこの時代、ハードウェア開発からソフトウェア開発へ大きく軸足が移り始めていたのです。
アップルを去ったジョブズの起こした会社NeXT
ジョブズはアップルコンピュータの経営権のない会長職に追いやられたショックから立ち直るために海外など様々な場所を訪れます。
その中でスタンフォード大学で教鞭を取っていたノーベル化学賞の受賞者ポール・バーグと出会います。
ポール・バーグ博士が遺伝子組み換え実験について話した時にジョブズは「それはコンピュータでシミュレーションをすればいい」と提案し、高等教育のためのコンピュータ構想(ワークステーションやアカデミックプラン*の提供)などを着想。
*大学など高等教育機関へ格安でコンピュータを提供し、将来のユーザーを増やそうという狙い。IBMとの競争が激化する中でコンピュータを購入しようとする際に、大学などで使ったことがある製品を消費者は購入してくれるだろうと考えて大幅な割引価格での提供や寄付がされた。
この構想を実現するためにアップル・コンピュータの会長職を辞して新会社NeXTを設立。
決算報告を受けるためにアップルコンピュータの株式1株を除き全ての株約650万株を売却。資産を現金化して、その約半分を新会社への投資(700万ドル)を行いました。
アップルコンピュータから退職時にアップルコンピュータを退職しようと思っている重要な役職にない従業員数名だけを自分が退職後に新たに立ち上げるNeXTへ連れていくことを役員会に伝えます。
しかし実際にはNeXTは既に登記され、重要な役職にはない従業員数名ではなくジョブズの眼鏡にかなった優秀なエンジニアたちを引き連れての離反でした。(このことが原因で後に訴訟に至る)
そうして作られた会社NeXTはアップルからの束縛から逃れて、ジョブズの創造力を起点として新しいコンピュータの活用方法を世の中に提示することを模索していきます。
NeXTは当初、高等教育機関や企業向けのワークステーションとして開発されます。
1985年の開発スタートながら遺伝子組み換えシミュレーションが出来るほどの当時としては圧倒的に高性能な仕様を目指していました。
そしてAPPLEⅡを開発した際にマウス操作によるGUIをゼロックスのPARCで観た時に着想を得、Lisaとマッキントッシュで実装しきれなかったPARCが開発していた数々の技術を実用段階へと昇華させていきます。
しかしアップルコンピュータ時代のように一社でハードからソフトまで何でも開発できるスタッフも、人員もありません。
ジョブズには資金力だけはアップルコンピュータ株売却の個人資産がありましたが、そのうちの約半分の700万ドルをNeXTにつぎ込み、18か月後には製品の出荷ができなければ資金が底をつく可能性がありました。
NeXTは販売目標価格3,000㌦。1987年春のリリースを目指し、開発チームが動き始めました。
しかしその頃、アップルコンピュータからの人材引き抜きとアップルコンピュータ内での開発・研究を盗んでNeXTで開発をしていると訴えられます。
これに対してジョブズは「4,300名以上を抱える20億ドル企業(アップルコンピュータ)がブルージーンズを履いた6人に太刀打ちできないとは想像しにくい」と述べ、アップルコンピュータは裁判になる前に取り下げマッキントッシュとの互換性を排除するなどの約束を取り交わします。
その一方で開発にはビジネスパートナーとして、マイクロソフトのビル・ゲイツを呼び出しました。
統一されたカラーリングの本体、ディスプレイ、キーボード、マウス…最低限しかケーブルがデスクの上に広がらないスタイリッシュなNeXTを披露して、ジョブズは自信満々に言いました。
「マックは一緒にやったよな?あれどうだった?」と問いました。
そして「次はネクストで一緒にやろう。これも凄いものになるよ」と参画を求めました。
ジョブズにとってビル・ゲイツは憎きライバルであり、GUI盗作における敵でもありましたが、そのプログラム開発能力では一目置いていた存在でした。
彼はビル・ゲイツとマイクロソフトにOS開発を外注しようとしたのかもしれません。
しかしゲイツはジョブズがこだわった光ディスクドライブ※の読み込み性能は遅すぎるし、大容量でもない。
特にこだわった外装の正方形のケース(金型を設計するのに65万ドルをかけた)やアーム型のディスプレイを「くそケース」と呼び、「市場を獲得したら検討しますよ」とこれを一蹴しました。
※光ディスク=CD、後にDVDやBD。NeXTは出資企業のキヤノン製を採用した。NeXTではこれまでは電源を入れる前に接続と起動が必要だった周辺機器を、起動時でも途中取り出しが可能(リムーバブル)なドライブをいち早く採用。
自分を見捨てたアップルコンピュータへの悔しさと悲しさ。
先日まではアップルの下請けでソフトウェア開発をさせてあげていた側だったマイクロソフトの同い年の天才エンジニア、ビル・ゲイツ。
冷ややかな対応で、過去の人として扱うマスメディア…
これらの悔しさの全てを原動力にジョブズはNeXTの開発を続けます。
コンピュータの未来を創造した知られざるNeXT開発の物語
そんなNeXTの開発に大きな影響を与えたのがPARC出身者で、ゼロックスが研究成果をいつまでも商用利用しないことに痺れを切らして1982年にチャールズ・ゲシキ(1939-2021)とジョン・ワーノック(1940-)により設立されたAdobe Systems(以下、アドビ)の存在でした。
モニターの解像度は印刷物の解像度よりも高くないため、プリンタ出力のためのプログラム言語(ページ記述言語PDL,Page Description Language)はモニター上に表示されるよりも緻密で高精度の出力を要求していました。
アドビは1985年にこの初期のPDL、PostScriptをアップルコンピュータにライセンス提供を行い、アップルコンピュータ用のレーザープリンターの出力用言語に採用されていました。
この縁からジョブズはNeXTの印刷出力以外の出力も、アドビのPostScriptが描画エンジンとして利用できると全面採用。
コンピュータからの情報を正確に素早くモニター上に美しく表示するためのDisplayPostScriptが誕生、NeXTに全面採用されます。
同社は1987年にillustrator、1989年に画像編集ソフトPhotoShop、1991年には動画編集ソフトPremire、1993年にはAdobe Acrobat PDFが登場して大躍進を遂げる。同社とアップルとの関係がグラフィックやデザインなどの分野で大きな連携をしているのはその頃からである。
しかしこのPostScriptを採用するにあたり大きな問題が立ちはだかります。このPostScriptを実装できるOSが存在しなかったのです。
そこでNeXTは高等教育機関向けの廉価なワークステーションだけではなく、DisplayPostScriptを搭載した総合的な開発に乗り出すことになり、社名をNeXT Computer ,Inc.へ改称。
そこに米国の鋼鉄王アンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー技術大学を前身に持つ、米国における私立最高峰の研究大学の一つ、カーネギーメロン大学でMachカーネル***を開発したアビー・テバニアンがNeXTへ加わります。
***Mach=マーク
カーネルはハードウェアとソフトウェアの橋渡しをする役割のシステムのこと。OSの中核システムとも表現できます。
Machカーネルは1985年にアメリカ国防総省(通称ペンタゴン)高等研究計画局によって開発された実験用マルチプロセッサコンピュータ用のOSで、ペンタゴンがUNIXを採用していたことからUNIX系統の開発となりました。つまりNeXTもUNIXの系譜を歩むことになります。
当時のコンピュータはCPU処理能力だけでなく、様々なものが近年と比べてとても限られておりコンピュータの作業スペースであるメモリーも、データを保存しておくためのハードディスクドライブも決して大容量ではありませんでしたし、各デバイス間のデータ転送も決して、お世辞にも高速とは呼べませんでした。
その限られた性能の中でも、ペンタゴンの高度な要求に応えるために開発されたのがMachカーネルでした。
タスク、スレッド、ポート、メッセージ、メモリオブジェクト…データをスムーズにCPUに処理するためにMachカーネルの果たした役割はとてつもなく大きなもので、NeXTに正式採用され、UNIXのみならず数多くのOSに多大な影響を与えることになります。
また高速処理が可能なCPUやメモリーなどが次々にリリースされる中で、OSの果たす役割は益々重要になってきました。
しかし処理能力が高速化していくとコンピュータの使い方というのはひたすら同じ作業(例えばずっと表計算やワープロ文書作成など一つの作業だけをPC起動時から終了時まで)をするものではありません。
あれもやりながら、これもやる…マルチタスクが求められます。
しかし当時のCPUは殆どの場合、1つだけ。
しかもコンピュータは高価故に2つ、3つもCPUを搭載したコンピュータは現実的ではなく、複数台のコンピュータを所有する人は非常に稀でした。
CPUやメモリー・ハードディスクなどのハードウェアを飛行機本体、ソフトウェアであるOSをパイロット(操縦者)と喩えた場合、ウェットウェアであるユーザーはそれに指示を出す管制室に位置づけられます。
当時普及していたコンピュータはシングルタスク。管制室であるユーザーがコンピュータに出した指示を、パイロットが受け取り、それを飛行機の操縦に反映させます。
当時の主流だったノンプリエンプティブマルチタスクは、実行されているプログラム側がOSを制御してCPUへの処理の送り込みを行うためにOSの構造はシンプルで済みました。
しかしこの場合にはプログラムがOSより上位として扱われるため、CPUに処理をなかなか明け渡さない「行儀の悪い」プログラムがあるとOSや他のプログラムが処理されず滞ってしまう現象などが起こってしまい、最悪はOSやシステムごと停止してしまうという大きな問題もありました。
そこでNeXTではプリエンプティブマルチタスク(非協調的マルチタスク)を採用。
ユーザーから送られてきた命令を、OSがCPUへ送って処理をする順番を割り振り、CPUの周期(周波数)のサイクルに合わせて命令の一時停止・保存・命令の切替・再開を行うようにしました。
OSが上位に位置づけられることで、プログラムの一方的な暴走がコントロールされ、CPUの処理能力を効率よく行えるようになりました。
そうすることで実際には1つのCPUしか搭載されていなくても、コンピュータのバックグラウンドでまるで同時に処理がされているような動作を実現したのです。(実際にはCPUがものすごい高速で処理しているので、ユーザーはそのことをもはや殆ど認識できないほど)
NeXTに当初採用されたCPUは25MHz。1MHzは1秒間に100万回という周期を意味していますので、25MHzは2,500万回の計算をしてくれるということになります。
NeXTの2年後に発売されたWindwos3.1はマルチタスクが十分可能とそれまでのコンピュータ同様のノンプリエンプティブを採用していましたが、OSの安定化とCPUの更なる高速化に伴いその能力を効率的に利用するためにプリエンプティブマルチタスクがそれ以降は主流となりました。
いち早く製品化するのをジョブズは望みましたがこれら様々な開発環境や制限、そしてジョブズの妥協しないモノづくりへのこだわりもあってNeXTの製品(NeXT cube)が発売されたのは1988年10月12日になってからでした。
世界はアップルコンピュータを生み出したスティーブ・ジョブズがまた何かやってくれると期待してその大々的な発表会を見守りました。
当初1987年春とされていた発表が大幅に遅れたことについてインタビューを受けると「遅れた? このコンピュータは5年先を行っているよ!」と自信満々に発表をしました。
実際に完成して発表された時の販売価格は6,500㌦(約80万円)、高等教育機関向けに限定販売されました。目標価格は開発着手当初3,000㌦(約37万円)でしたから、大学などの研究機関の担当者でさえ唖然としたことでしょう。
しかもそこにプリンターやハードディスクを取り付けると合計1万㌦(約122万円)に迫るものでした。
発表の興奮から冷めるとNeXTに対する世間の関心はなくなり、月産1万台の生産能力があったにもかかわらず、価格などがあまりに高すぎ、月400台ほどの受注しか入らずにハードウェアとしては大失敗。
NeXTはアップルコンピュータの時のようなハードとソフトを両方セットで売るビジネスから、OS(NEXTSTEP)を中心としたソフトウェアを専門的に販売するビジネスへと大きく経営の軸足を移すきっかけとなりました。(1993年に出資企業だったキヤノンにハードウェア事業を売却)
そしてこの時のシステムは5年どころか後にMacOS Xの基幹として採用され12年進んでいたとされています。
(画像はOPENSTEP3.3)
そして今日もMachカーネルと切り離されたこのNeXTで作られたOPENSTEPはmacOSやiOS用のアプリケーションフレームワーク(API)CocoaAppなどが今尚iPhone/iPad向けなどのアプリケーション開発などで使われています。
つまりあまりに先取りしすぎて先進的すぎる開発環境を搭載され、マシンスペックどころか、ユーザーさえも全くついていけなかった(汗)
そして彼ら自身にもそれによって何ができるようになるのかが分からなかったことになります(笑)
その一方で、このNeXTに未来を感じた人物もいました。
英国のティモシー・"ティム"・ジョン・バーナーズ=リー(1955-)がこのNeXTを使用して世界で最初のブラウザWorldWideWebとハイパーテキストシステムの実装やHTTP、URL、HTMLの最初の設計を始めました。
更にNeXTのOS”NeXTSTEP”はJavaなど今日に至るダイナミックなインターネット体験に欠かすことが出来ない様々なWebobjectsも生み出します。
更にマイクロプロセッサの互換性においても1995年の最終版リリース(Ver3.3)までにサン・マイクロシステムズのマイクロプロセッサSPARC、hpのマイクロプロセッサPA-RISC、インテルのマイクロプロセッサx86いずれでも稼働可能という対応範囲の広いシステムでした。
そして更に驚くべきことにスティーブ・ジョブズは1985年、あのアップル追放の年のインタビューで、このNeXTが誕生する以前から、つまりWWWやHTTP、HTMLなどが誕生する前から「人々はコミュニケーションネットワークに接続するためにコンピューターを購入するだろう」と話していました。
彼の驚くべき先見性はどこまで、そして彼の眼には一体何が観えていたのでしょうか。
>⑧へ続く
マンガ②「そして彼女たちは出会った」
※本編とはほぼ関係ありません。