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ⅳスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑩

マンガ「コンピュータ革命の夜明け」

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救世主マイク・マークラとAPPLEⅡ開発、PCの使い道の急拡大

APPLEⅠでのユーザーの反応(商業的成功体験)を観て、自分たちの何が支持されたかを理解したジョブズはコンピュータ愛好家だけではなく、一般の消費者にも使ってもらうにはどうしたら良いのかに着目しました。

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そこでゼロックスパロアルト研究所(通称PARC)で1972年にパーソナルコンピュータの父の一人、アラン・ケイが発表したDynabook構想。企業や官庁へ試作機の納品を始めていた暫定ハードウェア”Alto(アルト)を参考とした個人向けのコンピュータの制作・販売を行いました。

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ディスプレイをつなぐだけで、届いた日から使い始められる”世界初のオールインワンパソコン”として発売されたAPPLEⅡはAltair8800など当時のコンピュータの総称だったマイクロコンピュータから差別化するために”ホームコンピュータ*”として完全な完成品として1977年4月、世に送り出されます。

*今日のパーソナルコンピュータと呼ばれるようになる原型。内蔵BASICで操作。伊オリベッティのポータブルタイプライターをデザインイメージにしている。


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また1978年7月からはフロッピーディスクドライブを起動ディスクとして読み込むことも出来るAPPLEⅡPLUS

日本向けカナ文字対応のAPPLEⅡJ-PLUS(東レが代理店)、欧州の50Hz/220V対応になったAPPLEⅡeuroplus、アラビア語の出力と画面表記(左←右)が可能になったAPPLEⅡArabic-plusなど出荷先に合わせたローカライズモデルも発売されます。


しかしこれら外装の生産、量産していくためには多額の資本金が必要でした。

ジョブズたちが方々にアップルコンピュータとその技術を買ってくれるようM&Aを提案をしますが、まだ殆ど無名のアップルコンピュータはどこも買い手として名乗りを上げてもらえませんでした。

そんな中で方々に連絡をしまくってパートナーを探していると、二人のスティーブは運命的なパートナーと出逢います。

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今日の集積回路の基礎を作ったフェアチャイルドセミコンダクターやCPU・メモリー開発・製造・販売を手掛けていたインテルなど大企業を渡り、活躍をした投資家マイク・マークラ(1942-)と出逢ったのです。

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マークラは後にアップルコンピュータの二代目CEOとして就任し、1997年までCEOを含む重役として活躍。

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アップルコンピュータを大企業に育てる立役者の一人となります。


マークラの出資によって量産体制を整え、完成品のAPPLEⅡが個人向け市場に発売された事でアメリカの教育現場個人でのコンピュータ利用が急増。

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APPLEⅡが大きく支持された要因の一つはAPPLE Iでの成功体験と失敗体験からの反省に加えて、1976年に小型化された5.25インチフロッピーディスク(容量100KB)にいち早く対応した事でした。

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(画像は左から8インチ、5.25インチ、3.5インチのフロッピーディスク)

このいち早い導入によってテープ式(容量64KB)より大容量のプログラムをコンピュータに読み込ませる事が可能となりました。


当時のコンピュータはハードウェアとソフトウェアをセットでメーカーが独占的に開発する事が主流でした。

しかしAPPLEⅡの開発に追われる中でアップルコンピュータなはその余力がなく、ソフトウェアの外部開発を認めます。

これを機にプログラムを、自分で打ち込んで操作できないユーザーのためにソフトウェア開発企業が次々に世界中で誕生していきます。

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企業の給与計算や米国では個人でも必須となっていて煩わしく毎年の課題だった確定申告などの用途でAPPLE II専用表計算ソフト『VisiCalc*が空前のヒットとなり、コンピュータの使い道に多くの人々が注目するようになりました。

*世界初のパーソナルコンピュータ向け表計算ソフト。税理士にやってもらうにはコストがかかる確定申告(州ごとに税制が異なる)を簡略化するために多くの購入者が利用。


ビジネスツールとして、また個人の家庭にも浸透するきっかけとなり、AppleⅡ購入者の実に7割が同ソフトを購入したとされています。


その他、APPLEⅡ本体に備え付けられた8個の拡張ソケットによってメーカー以外(サードパーティー)が製造した周辺機器との接続も可能としていました。


APPLEⅡはグラフィック性能が同時代のコンピュータやライバルのゲーム機よりも高く、それまでは高価な専用機器としか接続しないと出来なかったビデオゲーム(アーケードゲーム)との互換性もありました。

これによって並走していた黎明期のビデオゲーム市場もまた半導体技術の集積と発展をしており、この拡張ソケットを通じて数多くのビデオゲームやジョイコントローラーなどがAPPLEⅡ向けとして登場します。

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特にテーブルトークRPGから発展して、APPLEⅡにコンピュータRPGの第一世代として登場した『ウィザードリィ』や『ウルティマ』は後の日本のゲーム開発者たちに多大な影響を与え、堀井雄二(1954-)が『ドラゴンクエスト』(1986)を、坂口博信(1962-)や田中弘道(1962-)らによって『ファイナルファンタジー』(1987)など世界的な大ヒットシリーズが誕生します。

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直前までビデオゲームのパイオニアであるATARI社で働いていたジョブズはビデオゲーム市場がまだまだ成長を続けることを確信していたのでしょうか。

そしてAPPLEⅡの能力を用いればビジネスにも、個人の確定申告にも、ビデオゲームにも利用できることはまさに一石二鳥でも三鳥でもありました。

こうした汎用性からコンピュータ愛好家以外の一般の家庭やビジネスマン、ゲーム愛好家たちまでもがAPPLEⅡを購入し、コンピュータの用途の多角化と大衆化をしていくきっかけが生まれます。


マーケティングの観点ではAPPLEⅠを購入してくれた顧客に連絡を取り、ジョブズはAPPLEⅡへの買い替えを提案。

これは今日もMacやiPhoneなどで続くアップルの下取りプログラムの先駆けでした。

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APPLEⅠを下取りに出させて、APPLEⅡ買い替えの頭金としました。この際にジョブズはこの下取りをしたAPPLEⅠを破壊。(高価だった半導体を部品取りをして売却)

これによって現存するAPPLEⅠは今日殆ど存在していません。


また企業としてきちんとした経営基盤を作るため、経営経験のあるCEOを外部から招くこともマークラの提案で始まります。

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マイケル・スコット初代CEO時代と世界のエレクトロニクス産業

そして初代CEOとして半導体産業で一時代を築いたナショナル・セミコンダクター(NS社)*からマイケル・スコットを招集。

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*世界初の半導体集積回路を生み出したフェアチャイルドセミコンダクターからスピンアウトして誕生した半導体企業の一つ。

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1960~70年代には低価格で実用的な半導体の製造を得意として電卓・デジタル式腕時計などに加え、後にレジなどのPOSシステム・大型コンピュータなども手掛け、当時世界最大の家電メーカーだったGEや米国大手電機メーカーウェスチンハウジング(WH社)をこれらの市場から撤退させるほどの存在感(プレゼンス)を示していたが、1980~90年代には日本企業、2000年代からは中国企業に追いやられてします。

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競合のテキサスインスツルメンツ(TI社)から1988年にスピンアウトして設立されたCPU製造の同業サイリックスとNS社は1997年に合併。

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後のその一部門が分離されマイクロプロセッサ製造の雄AMD(アドバンスト・マイクロ・デバイセズ)に。

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2011年にNS社は同業のTI社に買収され、TI社は今日それらの技術を集約して今日、世界中の映画館などのIMAXデジタル・シアター・システムのプロジェクター製造の盟主として君臨するに至ります。



しかしマイケル・スコットをCEOに招いた後も創業初期の混迷するアップルコンピュータの中で製品やマーケティングにこだわるジョブズと多方面で衝突。

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ある時にはコンピュータを収める外装のプラスチックの色で対立したり、多くのアメリカ製品で当時採用されていたメーカーの「90日間保証」を、品質に絶対の自信を持つ日本企業の「1年間」に対抗するかどうかで対立しました。


丁度その頃、海の向こう日本では経済復興。そして日本の製造業でも技術の集積が起こっていました。

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1970年に入ると戦後創業企業の中でも技術力に秀でた企業として台頭してきたソニーは自社テレビの代名詞トリニトロンテレビの開発と特許取得に成功。アップルコンピュータ創業の年にはアメリカでも生産・販売が始まっていました。

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またAPPLEⅡ発売の前年、1975年には初代ベータマックス(ビデオデッキ)を発売開始。

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1979年7月には初代ウォークマンTPS-L2が発売され、日本の製造業の品質の高さ独創的な物作りが世界的に評価され、米国製造業が脅威にさらされていた時代でした。

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同時代、他の日本企業も躍進を果たします。日本電気(NEC)などがマイコンの前身TK-80(下記の基盤)をアップルコンピュータ創業と同年1976年に発売開始。

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1979年には国産マイコンPC-8000シリーズ(後にPC-9800シリーズ)を登場させるなど、急速にエレクトロニクスの進歩が観られた時代でした。


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また同時期、1978年には英国ケンブリッジではエイコーン・コンピュータ(Acorn* Computers)が設立されます。*Acornは「どんぐり」の意味。上記画像は同社の初期マイコンAcorn System1。

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エイコーンは英国の教育用コンピュータ(1983-1998)の礎を築き、1983年に自社でプロセッサ開発がスタート。コンピュータ製造のメーカーからパソコン部品メーカーとして成長し、社内の部門がやがてスピンアウト。

このうちの一つが1990年にアップルコンピュータとのジョイントベンチャーによって今日のアーキテクチャー設計ARM社**(アップルシリコンM1など)へとつながっていきます。※エイコーンそのものはARM社に吸収されて法人格は2000年に消滅。

**元々はAcorn RISC Machineの略称としてARMが使われていたが、スピンアウトしたことから”Advanced RISC Machines Ltd”へ変更。

後にRISCをコンピュータ業界に詳しくない投資家などにはRISK(危険)と誤解されることから社名を今日の”ARM Ltd”に改称することに。

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アップルコンピュータでは結局、ジョブズはマイケル・スコットCEOを言い負かし、殆どの言い分を押し通してしまいます。

そしてそれが社内のパワーバランスを変えて行ってしまいました。

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またスコットが社員番号を決める際にウォズを1番、ジョブズが当初2番になったことで揉めて、ジョブズを0番にすることで落ち着くなど数々の逸話も語られることになります。

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そして経営よりもエンジニアとして好きなように開発を続けたいと、創業時にジョブズと同じく45%の株式を持った大株主でありながら開発責任者であり続けたウォズ。

ジョブズは人目から注目される事を好み、メディアへ度々登場して自社とAPPLE IIを宣伝。IT業界の風雲児として若くして注目を集めるようになっていきます。


1980年12月12日NASDAQ上場、娘リサ誕生

創業5年目を控えた1980年12月12日、アップルコンピュータは1株22ドルで米国にある世界最大の新興株式市場NASDAQに上場。

当時の為替レートから円換算すると時価総額1,833億円、ウォズとジョブズはその内それぞれ103億円相当(物価変動を加味すると127億円前後)を創業者利益として得たことになります。

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APPLE II発売時点で若干22歳、上場時点でも25歳。

彼の言動や一挙手一投足は常にスキャンダルの的であり、また世界が自分を観ていることに彼の中の何かがくすぐられたのも無理なからぬ事でしょう。

しかし世間もそして会社でもアップルコンピュータの生みの親を開発者スティーブ・ウォズニアックだと取り上げました。

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その頃、彼の私生活にも転機が訪れていました。

ジョブズは23歳(1978年)の時にアップルコンピュータで従業員として働いていた、学生時代から付き合っていた恋人クリスアン・ブレナン妊娠が判明。

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しかしジョブズはこの子を自身の子としては認めず、二人の関係は終わりを迎えます。

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一緒に暮らしていた家も出て、学生時代からの友人の一人だったロバート・フリードランド(LSD大量所持のカリスマだった人)の親戚が所有する牧場で出産。

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クリスアンは家政婦の仕事をしながら娘リサを育てます。

(クリスアンに付き添っていたのは学生時代にコトケのガールフレンドだったエリザベス)

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しかしシングルマザーで子育てをしながらでは生活もままならず、彼女たちは生活保護を受けることになってしまいます。

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これが元で裁判となり、裁判所はDNA鑑定の結果「94.1%はスティーブ・ジョブズが父親である」というものでしたが、彼は「米国の男性人口の28%が父親である可能性がある」とクリスアンが他の男性とも関係を持っていたと主張し、それを認めませんでした。


裁判の結果、月額385ドル(当時の為替レート195円として約7.5万円)の養育費を支払う判決が出て渋々支払いを承諾。

1981年の上場に伴って億万長者となった後からは、家を買いそこに無償で住まわせると共に養育費を月額500ドルに支払いを増やしました。

後にジョブズはリサが自身の子であることを認めますが、それにはまだしばらくの時間が必要でした。

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上場成功、若くして富裕層入りを果たしたスティーブ・ジョブズ。

しかし元から乱暴だった言葉遣いや傲岸な態度に拍車がかかり、彼は社内で絶対的な権力を振るい、そして孤立していきます。


そして今や大企業へと成長していくアップルコンピュータは、ウォール街を始めとした株式市場から注目されていました。

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娘リサを認知しなかったなど個人の振る舞いは週刊誌やメディアの格好の的となり、その一挙手一投足が株価を大きく左右することを痛切に感じたジョブズですが、社内でも様々なプロジェクトに顔を出しては口を出しアップルコンピュータの経営は混乱に陥ります。

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初代CEOとして経営を行ってきたマイケル・スコットはこのストレスフルな職場で精神疾患を発症。

「私は、AppleのCEOであることが面白くなくなれば辞めるとこれまで言っていたが、気持ちが変わった。面白くなくなった時には、もう一度面白くなるまで私は人を解雇することにしよう。」

このように発言し、従業員を突然大量に解雇をし始めます。

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これによって経営陣の判断でCEOを解任され、マイク・マークラが1981年から一時的という条件付きで二代目CEOとして就任することになりました。

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マイク・マークラ2代目CEO時代の躍進とIBM参入を表明

1981年から暫定として2代目CEOに就任したマイク・マークラの経営手腕は、マイケル・スコットの築いた基礎の上にアップルコンピュータの成長を加速させました。

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AppleⅡは発売初年の1978年に世界全体で7,600台でしたが、1979年に35,100台、1980年に78,100台、1981年には18万台、1982年に約30万台とほぼ倍々ペースで生産がされ続け、1993年の生産終了までに総計500万台が生み出され、世界的ホームコンピュータ普及に大きく貢献。

アップル・コンピュータは世界のコンピュータ市場で30%のシェアへ急成長・急拡大をし、今や他のIT企業たちでさえ無視できない存在感を放つ企業となります。


そんな1981年、右肩上がりの成長を続けていたホームコンピュータ市場へ企業向けコンピュータで世界を支配する巨人IBMがホームコンピュータ市場への参入を表明。

これに対してジョブズは新聞広告で次のように不敵に挑発しました。

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”ようこそIBM。

あなた方の引っ提げてきた最初のパーソナルコンピュータは、35年前にコンピュータ革命が始まって以来、既に個人の手が届くものになった後にやってきて、最も熾烈な競争にさらされているこの市場に投入されることになります。

コンピュータの力はもはや使い方によって人々の働き方、考え方、学び、コミュニケーション、そして余暇の過ごし方の一部になっています。

コンピュータリテラシー(コンピュータを扱う教養・素養)は、今や急速に読み書きと同じく人々が身に着けるべき基本的なスキルになりつつあります。

私たちが最初のコンピュータシステムを思いついた時、その利点をあなた方も理解していれば世界中で1億4千万人以上(アメリカの当時の就労人口に匹敵する規模)が購入をしていたことでしょう。

来年だけでも、100万人以上がそれを理解すると我々は予測しています。

今後10年間、パーソナルコンピュータ市場の成長は指数関数的に続くでしょう。

私たちは、アメリカのこの技術力を世界に広めるための大規模な努力における責任ある競争を楽しみにしています。

そして私たちはあなた方の参入の決意がそれを後押ししてくれることを感謝します。

私たちがしているのは、個人の生産性を高めることによって社会資本を増やすことだからです。

その課題へよく取り組もうと思いましたね。今更ですが。


この挑発的な宣言は、余裕をかましていた訳ではなく牽制的な意味合いや参入が大きく遅れたIT業界の巨人IBMに対する最大級の皮肉でもあったのかもしれません。

個人向けコンピュータ(ホームコンピュータ)市場における先行的立場における既に利用しているユーザーに対する安心感を与える事も狙っていたのかもしれません。


そして翌1982年、IBMはもう一人の1955年生まれの天才、マイクロソフト創業者の一人であるビル・ゲイツと共に個人向けコンピュータ市場に参入をしてきます。

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続く


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