ⅱスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑧
マンガ「愛さえあれば」
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スティーブ・ジョブズの生い立ち~幼少期・少年期
第二次世界大戦が終わって10年が経とうという頃、1955年2月24日にスティーブ・ジョブズは生を受けました。
彼の母はジョアン・キャロル・シーブル、彼女は大学院に通う学生でした。
アメリカでは現在もそうですが、大学へ進学するには親の老後の生活資金を全て食い潰しても足りないと言われるほどの教育格差社会です。
日本とは異なり卒業した大学の名前よりも就職時に何を学んできたのか、それを就職先でどのように活かせるかが採用時において何よりも重視されます。
このため入学より卒業することの方が難しいと評価される事もあります。
大学院まで進学をしていたジョアンはまさに親からの援助、そして奨学金を借りてまだ学んでいる途中でした。ここで大学院での勉強を中断して子育てに移行する事は彼女には出来ない選択肢でした。
そしてジョアンの交際相手は、ジョアンの通う大学院でティーチングアシスタントを務めていたアブドゥルファタハ・ジョン・ジャンダリ。
ジョアンの両親はシリア系(ムスリム)移民のこの恋人の事を歓迎してはいませんでした。
またキリスト教が広く普及しているアメリカ社会では中絶は母胎の安全のため以外は厳しく咎められ、婚姻前の男女での姦通などまだ決して大らかではない時代でした。
2020年のアメリカ大統領選挙でも中絶反対派と容認派による世論の対立も大きな争点の一つでしたので、眼にした方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ジョアンはこれらの事から学校に通いながら出産をして、すぐに我が子を養子に出すことを決めていました。
そして養子を迎える親には「大学卒の両親である事」を条件としていました。
しかし実際に養子先候補としてその子に会いに来たのは大学を出ていない、子どもになかなか恵まれなかったポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻でした。
まだ生まれたばかりのこの子を観て、是非我が子に迎えたいと申し出る夫妻に大学卒でないからと一度は断ったジョアン。
しかし改めて養父母を探している間、我が子を抱き抱える事は離れ難くなってしまう事を危惧して、息子を大学に必ず行かせることを夫妻と約束して養子に出す事を決意します。
スティーブを家族として迎え入れた3年後、両親は養子で妹を一人設けると同時に婦人が懐妊が判明。三人兄妹の長男としてスティーブ・ジョブズは育ちます。
この複雑な家庭環境を幼いながらも、自身が両親の本当の子ではない事をスティーブは幼い頃、両親に問うたそうです。
クララは泣きじゃくる幼いスティーブを抱きしめ、ポールは彼に言い聞かせるように言いました。
後の彼を知る人たちは養子である過去がトラウマとなって彼の性格形成に影響を及ぼしたと解釈をしていますが、スティーブはポール、クララ、そして妹たち家族に愛されて育ちました。
ポールは中古車をレストア(修復)して販売するという仕事をしていました。
毎日営業から帰るとガレージに向かい、車の修理に勤しむ父親の側で過ごす事が、彼にとって最初のエレクトロニクスへの関心を育んだとされています。
スティーブが生まれ育ったカリフォルニア州にはその頃、軍事産業や技術系の企業が次々に集まり、後にシリコンバレーと呼ばれるようになっていく直前の時代でした。
生家の近所に暮らす人々もそういった企業に勤めるエンジニアたちで、大人たちが仕事として楽しそうに作り出す新しい機械を、彼は玩具が完成していくようにワクワクしながら観ていたとされています。
彼の仕事観はこうしたカリフォルニアの陽気さとそこに集うフロンティア精神のエンジニアたちによって形作られていったのかもしれません。
幼い頃から好奇心旺盛なスティーブでしたが、小学校に上がると彼は持ち前の賢さで悪戯をし放題。
教師の椅子の下に火薬(爆竹)を仕掛けて発破させたりと日に日にエスカレートしていき、遂には学校に父ポールが呼び出されてしまいます。
ポールはスティーブを叱る事なく、教師に向かってこう言ったのです。
今の日本だとポールの意見はモンスターペアレントとして問題になりそうな所ですが、言いたい事も分からないでもありません。
スティーブは父のこの説得のお陰もあって成績優秀な児童の集まる上級クラスへ移されました。
そして自分を特別に思ってくれる両親や先生たちを喜ばせるために懸命に勉強をした結果、小学4年生が終わる頃に実施された知能検査で高校2年生レベルの成績を残したとされ、1学年飛び級して中学へ一足先に進学したそうです。(ギフテッド教育)
写真は創業者ヒューレット氏とパッカード氏と創業のガレージ。この場所は「シリコンバレー発祥の地」としてカリフォルニア州歴史建造物に認定されています。
ジョブズは中学卒業の15歳で自動車免許を取り*自分の車を手に入れ乗り回し、シリコンバレー誕生のパイオニア的ベンチャー企業hp社(ヒューレット・パッカード)で働くエンジニアの所に遊びに行っては電子回路の機械造りを教わったり、hp社のエンジニアたちが学生たちに自身の研究や開発している機械の解説などをしてくれる「探究クラブ」にも参加したりしていました。
探求クラブで自分でも機械を作ってみようと部品を手に入れるためにhpのCEOに直接電話**をして交渉。
その結果、その部品工場でアルバイトをさせてもらうなどの便宜を図ってもらうなど若い頃から大胆な行動を取って講師たちを唖然とさせました。
*米国は州ごとに運転免許取得年齢や結婚年齢などが異なる。国土が広いため、カリフォルニア州は15歳から免許が取れる。
**コレクトコール…オペレーターを介して受信先につなぎ、通話料の全額負担を受信側が同意した場合にのみ通話ができる仕組み。日本では1980年から「106」発信で利用できたが、2015年にNTT東西共にサービス終了。
もう一人のスティーブとの出会い
探求クラブでそれらの部品を組み立てているところにhpでインターンとして働いていた5歳年上のスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出逢います。
彼もまた天才でした。そして彼の父親もまた大変優秀なエンジニア*でした。
*工学技術者。”工学士の学位を持つ技術者”。日本語で呼ぶエンジニアとは少しニュアンスが異なる
幼少期から週末は父の職場に行き、色々な電子部品を机の上に出してもらい、様々な機械いじりを行っていたウォズ。
彼は引っ込み思案な性格でした。人付き合いが苦手で、学生生活では孤立していましたが、小学6年の頃に行った知能指数でIQ200を超えていたそうです。
同じスティーブでも全く異なる性格の二人は、程なくしてプライベートでも一緒に遊ぶ事が増え、機械工学や共通で大好きだった音楽を通じて二人はどんどん仲良くなっていきました。
やがてウォズの天才的エンジニアリング技術に惚れ込んだジョブズは彼とテレビ電波を乗っとるイタズラをするための機械を作って友人の家のテレビを電波ジャックをして遊んだり、
ブルーボックスと呼ばれる電話交換機のトーン音を偽装するタダ電話の機械を一つ40ドルで作り、150ドルで学生たちに売るビジネスを始め荒稼ぎもしました。(後にギャングとのトラブルに巻き込まれてこの最初のビジネスを早期に畳む)
思春期~青年期、彼を形作ったモノたちとカリスマとの出逢い
スティーブたちが幼少期から青年期にかけて過ごした1960年代のアメリカでは、長引くベトナム戦争やアメリカの長期経済停滞の時期にありました。そして既存の社会の在り方に対する批判や不満によって、米国の社会は激しい分断の渦中にありました。
特に経済の面では日本が”東洋の奇跡”と呼ばれる復興と高度経済成長を遂げていた一方で、米国は世界大戦の戦勝国の立場にも関わらず、資本主義が始まって以来の戦争や恐慌でもないのに20年近くに及ぶ経済停滞期(インフレーションと景気後退期が重なった)の只中にあったのです。
*写真は1970年代の新宿東口、現在のアルタ前の様子。ビルなどこそ違えどほぼ現在の街並みや人出であることから戦後25年が経ち、日本が経済的には復興を遂げた一幕として観ることが出来る。
不景気の時代という閉塞感は学生たち若者の関心をこれまでとはまるで違うベクトルへ向けました。
社会では自己実現・自己啓発、スピリチュアリティー、菜食主義、ミニマリズム、ヒッピー文化、LSDなど既存の社会や伝統・制度・価値観などを懐疑的にみるサブカルチャーやそれを否定的に捉えるカウンターカルチャーが流行。
スティーブもまた論理的思考や分析よりも直感的理解や意識の重要性に傾倒していきます。
こう考えるとアップルコンピュータという技術を用いて成長をしていった企業とカウンターカルチャーというギャップを感じるかもしれません。
技術系(エンジニアリング)の人間と、カウンターカルチャー(ヒッピーなど)は元々仲が良くありませんでした。
ヒッピーたちはコンピュータを開発研究するよう促すペンタゴン(米国国防総省)や体制側に属するものと考えていました。
歴史家の中には”コンピュータは我々から自由を吸い取り、「人生を豊かにする価値」を破壊している”と警鐘を鳴らす意見もありました。
しかし分断していた技術系の人たちとカウンターカルチャーは1970年代が訪れる頃に結びつき始めていきます。
テクノロジー産業において数々のイノベーションのインキュベーター(孵化器)となるゼロックスのパロアルト研究所(通称PARC)で合成麻薬LSDの研究を行っていたスチュアート・ブランド(1938-)。
彼らの販売していた「ホールアースカタログ」は、まだGoogle検索やインターネットは存在しない時代。いやコンピュータさえ国防総省(ペンタゴン)や官庁・大企業でさえその開発と使い道を模索していた時代に、まさにそれらに代わる存在として世に送り出されたものでした。
彼が後にスタンフォード大学卒業講演で贈った有名な言葉の一つ、
これもこうした時代、こうした中で技術系でありながらサブカルチャーを愛した人たちによって世に送り出された一冊の教材(ホールアースカタログ)の最終号の裏表紙に書かれていたものでした。
若き日のスティーブにも、このカタログは多大な影響を与えました。
そしてこのカタログのコンセプトの一つ「技術は人間の友となり得る(Useful as a tool)」は同時代を生きたコンピュータ好きの人たち(技術系の人たち)の間でもこのカタログは愛好され、カウンターカルチャーとエンジニアリングは融合していき、そして混沌の中から新しい時代が創造されていきます。
1972年、17歳のスティーブは両親が勧めたスタンフォード大学ではなく、学費が高いアート系(日本で言う美術大学に近い)のリード大学へ両親と対立しながらも説得して進学をします。
「自分が行きたい大学じゃないなら大学なんて行かない」とか言ったのかもしれません。
両親としては彼を養子として迎え入れる条件が彼の大学進学だったのですからこれを切り出されては成す術がありません。
大学の寮ではダニエル・コトケ*などサブカルチャーに傾倒するルームメイトと出会います。
(*後にアップルコンピュータの12番目の社員となり、APPLEⅠ~Macintosh開発まで尽力する仲間の一人となる)
またボブ・ディラン(1941-)**などを好んだジョブズは寮に数少ない持ち物としてオープン・リール(カセットテープの前身)とコピーした音楽を大量に持ち込みました。
**2016年に「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手として初めてノーベル文学賞を受賞。
スティーブ(以下、ジョブズ)は大学在学中にコトケと彼のガールフレンド:エリザベスの三人でつるんで行動するようになります。
彼らの誘いで大学の周囲の禅や瞑想を行うカルチャースクールにも通い、ギリギリまでそぎ落とすミニマリスト。美的センスへの追求と驚くべき集中力を備えていきます。
キャンパスで流行っていた悟性を求めるサブカルチャーの様々な物が彼の中で混ざり合っていきます。
そして人生で最初に出逢ったカリスマで、生涯の友人となる一人ロバート・フリードランド(1950-)と出会います。
(学生にして2万4千錠のLSDを所持していたとして逮捕歴があった曰くつきの人物…)
彼は裕福な親戚が農場などを持っていて、そこを自由に使って良いとされていました。ジョブズたちは学生時代にこの農場によく出入りしていて、ボヘミアンな生活を過ごし、ここに植えられていたリンゴの樹に由来して社名も思いついたともされています。)
彼は後にアイバンホー・マインズという資源採掘会社を設立。カナダで上場させて資源採掘で世界最大級の実業家となり、「世界最後の山師」と呼ばれることになります。
普段は他人に無関心だったジョブズは彼のカリスマ性に強く影響され、人心掌握術やオーラを放つような立ち居振る舞い・仕草などを模倣していきます。
一方で肝心の大学の必須講義には殆ど関心を示しませんでした。ジョブズが大学で数少ない気に入って参加していたのがカリグラフィー(西洋書道)のクラスでした。
そこには若き日に触れて馴染みのあった科学やコンピュータ技術とは異なる感性を刺激するアートがありました。
これが後にマッキントッシュで世界初の美麗な複数のフォントやディスプレイ表示が搭載される種が彼の中に植えられた瞬間となりました。
しかし両親の願いも虚しく大学を18カ月で退学。ボヘミアンな暮らしを続けますが、やがて貯金も尽きて恋人とは喧嘩別れ。そして実家へ戻ってきます。
そして求人広告を見て面接に向かったのは、世界初の商業向けのビデオゲームPONG(ポン、電子卓球ゲーム)で当時世界中で大ブームを起こしていたATARI*でした。
*囲碁の用語「アタリ」に由来。会社のロゴも富士山をイメージしてデザインされている。
ジョブズはいつものボヘミアンな格好のまま、裸足で、ATARI社の面接へその日のうちに赴いたとされています。
続く