元カメラバイヤー(現FP/IFA)が初めてのデジカメを買った日から就職までの話
こんにちは。東京を中心とした首都圏でFP・IFAをしているポッターです。
日経新聞(電子版)がカメラ大手のニコンの不調を報道している記事が出ていましたが、皆さんはどうお感じになられているでしょうか。
1人のカメラファン、写真の業界に携わった者として非常に残念な気持ちであると同時になるべくしてなった感が私にはあります。
誤解がないように断っておきますが私はカメラという機械が好きなのであって、別に写真を撮影する技術が秀でているわけではありません(笑)
今回はそんな私がデジカメを初めて買った時の話から、カメラ販売員として就職をするまでのことを徒然に書いていきたいと思います。
1996年、高校時代の持ち歩きカメラ
私は今年40歳になる世代です。私がカメラを持ち歩くようになった本当のきっかけはまたいつか気が向いたら書きたいと思いますが、私が中学1年の時にサッカーのJリーグが開幕。ポケベルが流行し、まだ殆どの人が携帯電話を持っていなかった時代、写真はフィルムカメラで撮影という時代でした。
当時は通学用のカバンに女子高生なら写ルンですなどのインスタントカメラが常に入っていた時代です。
高校時代の私のカバンには雑貨屋で見つけたキーホルダー型のフィルムカメラがぶら下がっていました。(クローゼットで今も保管している※現在セットされているフィルムは現像はしないことにしている)
ちなみにフィルムは110フィルム。多分、今の若い子たちは知らないんだろうなぁ(苦笑)すでに富士フイルムでは販売停止されています(どこかでもしかしてまだ生産している?)
1998年、高校の修学旅行のため初のデジカメ購入
サッカー日本代表がフランスW杯に初出場した1998年。世の中ではようやく100万画素クラスのデジタルカメラが1年ほど前から発売されたばかりの年に私は高校の修学旅行を控えていました。
「一生に一度、最後の修学旅行!撮り直しがきかないし、その場で画像が確認できる液晶画面付きのデジカメが欲しい」
私はその年のお年玉や月々のお小遣いをコツコツ貯めて、また中間・期末考査・実力テストで90点以上の科目数でお小遣いアップの約束を親と交渉して勝ち取りました。(教育的にはあまり宜しくないですね…)
目標金額だった4万円が貯まった修学旅行直前の9月下旬、下校時にほぼ毎日のように立ち寄っていた電気屋さんに母親と買いに行くとCLIP IT80という新製品が展示されていたんです。
富士フイルムの小型デジカメブランドFINEPIXは有名ですが、実はCLIP ITシリーズは同社のデジカメブランディングの中では廉価版に位置付けられていたシリーズです。(SONYにおけるAIWAみたいな?)
本体背面には当時まだ少なかった液晶画面が小さなプリクラサイズながら搭載されており、撮影したその場で画像を確認することができます。
光学ファインダーも搭載している結構いい所を突いたモデルでした。
(藤原紀香がイメージキャラクターだったんだ…この記事を書くにあたり調べて初めて気づいた)
デジカメ本体価格49,800円、本体質量200g、総画素数85万画素
「少し予算オーバーだけど、折角だし気に入った機種を買いたい」
店員さんに簡単な説明を受け、いざ買う段階になると
「お客様はスマートメディアはお持ちですか?」と質問されました。
私「すま?」
店員「撮った写真を記録する媒体です。フィルムカメラで言えばネガフィルムみたいなものです」
私「え?付いてこないんですか?」
店員「一応お試し用のスマートメディアが2MBついていますが高画質(ファイン)モードで撮影すると撮れる枚数が少ないんですよね」
私「何枚くらい撮れるんですか?」
店員「えーと…(パンフレットを確認しながら)最高画素数で高画質(ファイン)モードだと約6枚ですね」
私「( ゚Д゚)え?デジカメって何枚でも撮影できるんじゃないの!?」
店員「撮った画像は液晶画面で確認して、要らない画像はその場で消せますけど修学旅行に持っていくんですよね?もっと容量の大きいメディアも一緒に買った方が良いですよ」
私「そりゃそうですね…いくらですか?(既に予算オーバーで結構ドキドキしている)」
店員「今、在庫があるのが4MB(6,800円)と8MB(8,800円)ですね。4MBはノーマルの画質なら約26枚、8MBなら約54枚記録できますね」
私「…8MBお得!」(母の方をチラリと見ておねだり、期末テストと模試も頑張る約束を取り付け予算を引き出す)
私「じゃあ8MBで!」
店員「ちなみにお客様は撮った画像、パソコンに取り込んだりしますよね?」
私「はい…」
店員「パソコンに取り込むためのインターフェースセットが必要ですが、一緒に買っていかれますか?」
私「…おいくらですか?」
店員「7,000円です」
私「買います(>_<)」
店員「単三電池の繰り返し充電できる…」
私「買います( ;∀;)」
店員「カメラを入れて持ち運ぶソフトケースはいかがですか?」
私「買います~(+o+)」←もはや思考停止…(笑)
そうして私は当時まだ珍しかったデジタルカメラを手にして、修学旅行に出かけて行ったのでした。
予算をはるかにオーバーした買い物でしたが、撮影したその場でどんな風に撮れたかが確認できるデジタルカメラに私は未来を感じました。
デジタル機器に未来を感じた20世紀後半
撮ってはパソコンに取り込み、撮ってはパソコンに取り込み…
ICQ(これも多分知らない人多いんだろうな…)などのメッセンジャーで遠方のチャット友達に写真を送り合ったり。
国際電話かそれ以上のタイムラグのあるボイスチャットをしたり。
パソコンとインターネットも普及し始めていましたから、これからはこういったデジタル機器がかつての家電製品が3種の神器と呼ばれたように人々の生活を変えていくのだろうと漠然と多くの人々が感じていたのではないでしょうか。私もその一人でした。
その後もデジタルカメラは進化を続け、翌年には200万画素クラスの小型デジカメが登場し、高画素センサー開発競争の時代が始まりました。
その翌年、1999年にNTTドコモから世界初のインターネット接続ができる携帯電話サービス「iモード」がスタートして、学生たちはポケベル・PHSから携帯電話へ一気に移行していきました。
2000年にはシャープからJ-PHONEの携帯電話にカメラ機能搭載のJ-SH04(11万画素)が登場。写メールなんて言葉も流行し、その後携帯電話には当然のようにデジタルカメラ機能が搭載され、小型デジカメと同じくどんどんと高画素化が追求されていきました。
2002年、アルバイトでデジカメ売場の販売員になる
2002年、日本では日韓ワールドカップ開催の年。首都圏に上京して大学生をしていた私は、自宅の近くに新たにオープンした家電量販店でオープニングスタッフの一人としてアルバイトを始めました。
当初はデジタルガジェットが大好きなのでパソコン売場に配属されましたが、オープン直前になって新店舗に配属された社員たちが誰もデジカメを持っていないことで急遽アルバイトの中からデジカメを持っている私と主婦ら数名がデジタルカメラ売場を兼任することになりました。
大学生でしたから夕方からの時間や土日などは働くことが楽しかったのを覚えています。
高校生までは親から与えられるお小遣いやお年玉など、お金のやりくりをコントロールするしかありません。
自分の時間を労働することでお金に換えられることに私は多くの学生が初めてアルバイトする時に覚えた感動と恐らく近いものを感じていました。
しかも仕事は自分が好きなデジタルカメラですから、まさに寝食を忘れるほどのめり込んだと言っても過言ではないでしょう。
メーカーの営業マンがお店に足を運んで接客の合間に自社のデジカメのPRポイントを説明してくれました。閉店後にもメーカーの方が来てくれ勉強会をみんなでしたりもしました。
新しい店舗というだけでなく、デジタルカメラがフィルムカメラにまさに取って変わりつつあった時代。
売場に並ぶデジタルカメラは300万画素が主流。価格の比較的安いものでも200万画素クラスでした。
土日だけでなく平日の夕方も、日中もお客様が来店しては皆興味津々にデジカメ売場で足を止めていました。
接客販売は初めてでしたが、社員さんやメーカーの営業マンが教えてくれたことを自分なりにメモをして、自宅に帰ってからはノートにまとめ、それを売場での接客に反映させました。
私のアルバイトしていたお店はその量販店(当時70店舗くらい)の中で、他のパートさんたちの協力もあって上位に入る販売台数を毎月叩き出しました。
自分の”したい仕事”との出会い
デジカメ売場の販売員になって2か月、夏休みで朝からアルバイトで売場に入りました。8月の初旬に1人のおばあちゃんがデジカメ売場で足を止めていました。
私が声をかけると初孫が生まれて、もうすぐ娘たちと遊びに来ると言います。
「機械は苦手なのよ、でも撮ったその場で見れるなら失敗もすぐにわかるでしょ?」
私はそのおばあちゃんのカメラ選びを手伝いました。
「乾電池が使えた方が、充電切れの時でもすぐに電池交換できますよ」
「ファインダーを覗きながらの方が手振れしにくいので失敗しづらいですよ」
「ニコンのCOOLPIXならダイヤルを目的の撮影シーンに合わせでシャッターを押すだけなのでカンタンですよ」
私がおばあちゃんに提案したのは握りやすくて、操作も簡単な320万画素のニコンCOOLPIX3100(そういえばイメージキャラクターは当時、松嶋菜々子さんでしたね…)でした。
200万画素クラスのデジカメ(COOLPIX2100)もありましたが、私は300万画素クラスを勧めました。
「画素数はこれからまだまだ高くなっていきます。そんなにすぐに買い替えるものではないのだから予算が許すなら少しいいものを買った方が長く使えますよ」
画素数≠画質であることはカメラ売場ではまず最初に説明することでした。
すぐ通路を挟んだところにある携帯電話コーナーではもはや私が修学旅行で買ったCLIP IT80に匹敵する画素数のカメラ機能を搭載した最新機種として売られていました。
おばあちゃんに話していることは自分自身のデジカメ購入経験からの本心でした。
「そうね、折角だしお兄さんが勧めてくれるこっちのにするわ」
おばあさんは300万画素クラスのCOOLPIX3100を買うことを決めました。
「写真を記録するメモリーカードはどうしますか?」
「ついてこないの?」
(以下略)
夏休みのお盆明けにアルバイトを再開した日、シフトに入るや相談カウンターにお客様が来ていると呼ばれました。
インカム(無線)をつけながらカウンターに行くとあのおばあちゃんが来ていました。
買っていったデジカメを手に、画面を見せながら嬉しそうにお孫さんが遊びに来た時の写真を見せてくれたのです。
「お兄さんが勧めてくれて本当に良かったわ。途中で電池が切れちゃって…乾電池なら常備がいつもあるからすぐに交換していっぱい写真が撮れたの」
その後、おばあちゃんはプリンターを購入して小さな画面だけでなく撮影した写真を印刷するところまで私は担当をさせてもらいました。
このアルバイトでの接客を経験して、私は仕事をするとはどういうことなのかを始めて理解した気がしました。
2003年、デジタル一眼レフ研修へ参加
2003年に小型デジカメの販売は400万画素クラスを主力としていました。
同年秋、お店では相変わらず好調だったデジカメの販売実績から推薦されて、私は発売された直後のキヤノンEOS KISS DIGITALを始めとしたレンズ交換式デジタル一眼レフの販売研修(1泊2日)に参加していました。
既に売場では実際に機種が展示されていましたが、私の中ではレンズが交換できるすごく本格的なカメラという認識でした。
カメラそのものの説明や機能紹介ならメーカーの営業担当者がやって来た時に教えてくれるので私は一眼レフという市場そのものに大した興味がありませんでした。
それよりも関心があったのが他のお店の販売成績が優秀な販売員が集まる研修という点でした。
「〇〇店から来ました〇〇ですー」
自己紹介で販売ランキングの常に上位に名前を連ねる面々に、イチアルバイトの自分が泊りがけの研修に招かれる。周りはスーツ姿で社員さんたちばかり。
ここで初めて私は自分がビデオカメラから派生し、その中の一コマを切り出しているものを販売していたことを知りました。
そして「フィルムからデジタルへ」というカメラ業界の地殻変動の本丸がレンズ交換式デジタル一眼レフの普及であることを知ります。
研修では一眼レフの基本的な構造や仕組み、露出やシャッター速度・絞りなどの設定の意味や使い方を学びました。
「じゃあ実際に撮ってみましょう」
ファインダーをのぞき込むとペアになった女性社員さんとレンズ越しに目が合った気がして、私は驚いたのをよく覚えています。(恋に落ちるかと思った)
キヤノンの担当者はフィルム一眼レフ時代の販売台数からデジタル一眼レフの市場がこれから大きくなること、カメラ本体を買ってくれたお店で、次はレンズを買ってくれて御社にとっても弊社にとっても市場の健全な拡大のためにはきちんと説明できる販売員を育てることが不可欠なのだと鼻息荒く説明しました。
実際、1997年に100万画素クラスが発売開始されたのを境にフィルムカメラは急速に出荷台数を減らし続け、デジタルカメラは増え続けていました。
2002年には既にフィルムカメラ時代のピークを越える国内6000万台が出荷され、その後も数年間にわたって純増が続きました。
2004年、就活。氷河期で心を病む人が続出
2004年1月、ついに私たちの世代も就職活動が解禁されました。
大学の同期の中には解禁と同時に既に来年の卒業と同時の就職をあきらめ、大学院へ進学をすることを考えている人もいました。
先輩たちの中には就活で心が病んで引きこもりや鬱などで入院をしてしまう人もいると聞き、私は戦々恐々としていました。
私はこの時、高校と大学で1年ずつ浪人・留年をしていましたので流石にこれ以上親の脛をかじるわけにはいかないと考えており、大学のあった首都圏を中心に就職活動をしました。
(地元に帰らなかったのは地元の求人が少なく魅力も低かったことに加えて、
大学1年の頃から当時おつきあいしていた彼女と離れたくなかったから)
しかし時代は就職氷河期です。50通のエントリーシートを出しても一次面接にさえたどり着けず、100通出した頃にようやく2社だけ面接にこぎつけました。
が、この二社も一次面接であえなく撃沈…落ち込んでお店にアルバイトで久しぶりに出ると職場のパソコンに役員が変わったとか、組織変更があったとかのメールが届いていました。
何ともなしに自分の働いている会社の組織表を見ていると見たことがある名前が人事部にいました。私が半年前、オープニングスタッフとしての面接をした担当者は新卒採用担当に彼の肩書は変わっていたのです。
連絡をすると彼は快く会う時間をくれました。
「就活が全然うまくいかないんです( ;∀;)」と伝えると…
「そっかー。〇〇君はデジカメの販売成績もいいし、いっそウチに就職したら?」
それを溺れる者は藁をもつかむと呼ぶのか、それとも地獄を見たお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らしてくれたのか…
「え?いいんですか?( *´艸`)」
「面接は普通にあるけどね。販売実績があるから推薦してあげるよ」
その後、他の人事の人の面接を受け、役員面接、社長面接を経て夏が来る頃には内定をもらいました。
内定者同士で旅行をしたり、飲み会をしたり、恐らく大学生活の中で彼女と過ごした時間以外では最も楽しかった思い出です。
2005年、卒業そして就職
私はそのまま内定をもらった家電量販店に就職をすることにしました。
3月、大学の卒業式の翌々日には就職先での新入社員研修が始まるスケジュールでした。
卒業式の夜、教授らを交えての謝恩会に出席をして、メーカーから借りたデジタル一眼レフEOS20D(ミドルクラスの結構いいカメラ)でカメラマンをしました。
謝恩会を終えると彼女を家まで一旦は車で送り届け、彼女に再び夜中に家を抜け出させて迎えに行き、二人で卒業祝いをしました。(私の部屋で)
翌日、昼過ぎに起きて二人で昨日の謝恩会の写真をフォトブック(当時まだサービスが殆ど認知されていなかった)にしました。出来上がったら大学に持っていこうとオーダーを出して、彼女を家の近くまで車で送り届けました。
私は次の日が来れば研修が始まります。
研修が終われば、そのまま入社式。そして配属されたお店で働くことになります。まだどこに配属になるかはわかりませんが、現在の住所から引っ越しが不要な範囲と人事からは言われていました。
彼女にしばらく会えないねとキスをしようとした時、彼女は助手席でそのキスを制止しました。
「ごめん、お別れしよう…」
卒業式の次の日にフラれて、翌朝、新入社員研修会場に向かう集合場所でやる気に満ち溢れている新社会人の集団の中で私は一人、こんな状態でした。
就職したばっかりなのに、既に真っ白に燃え尽きた…(笑)
さて、次はいよいよ?カメラ業界が衰退をした理由に今度こそ触れられたらいいなぁ(*´з`)
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