【教育論】日本最大の教育課題~主体性とアクティブ・ラーニングと日本語の確立
過去にも書いたことがありますが、私は「全ての人が教育の機会を得られる」ということには賛成ですが、「全ての人が大学に進学する必要性はない」とも考えています。
何故なら勉強がどうしようもなく苦手・嫌いな人というのが世の中にいることを知っていますし、義務教育を終えたらそこから先は”主体性”がない勉強は時間の浪費*であると考えているからです。
*消費・浪費・投資はお金の考え方にも通じる価値観。私は”浪費は人生の愉しみ”でもあると考えています。だからこの事をネガティブな意味では捉えてほしくないのですが、経済的にそれを許さない家庭環境が世の中にはあることも理解しています。
また人によって理解度というのがどうしようもなく生じるというのも義務教育が終わる頃にはいい加減、誰もが気づくでしょう。
大人や教師が1つのことを伝えると、それを10にも100にも理解できる児童・生徒がいる一方で、1つのことを何度伝えてもせいぜい0.5や0.3程度しか理解できない人がいるというのもまた避けようのない現実です。
あまり良い表現ではないと思いますが、前者を頭の良い人、後者を頭の悪い人とした場合に後者に合わせて世の中を動かそうとすると社会は間違いなく衰退します。
私の両親は小学校の教師でしたが、大学を卒業して赴任してから定年退職まで公立小学校しか経験をしていませんでした。(確か二人とも中学教諭の免許は持っていたはず)
公立校というのは良し悪しではなく仕組みとして、学区の子どもたちが基本的に入ってくるので、地域の所得差というのは多少あるにせよある程度裕福な家の子もいれば、あまり裕福ではない家の子も集まってきます。
裕福な家の子は習いごとや塾・予備校、家庭教師、または通信教育(進研ゼミとか)をかなり早い時期から与えられ、授業の予習・復習という反復効果も得られて学習の仕方がある程度早い時期から蓄積されていきます。
※子どもの成長度合いによるが小学生中学年頃までは子どもの勉強や宿題の習慣形成において保護者の介入はとても重要。
保護者が子供の勉強に付き添えきちんと教えられる場合、偏差値60前後までは多くのケースで十分に引き上げられる。
参考書・問題集など教材の力はこの手助けでしかない。
言い換えると子どもに関わらない放置主義、関われない家庭は子供が自発的に勉強をするような子どもでもない限りは自然に偏差値50以下まで引きずり落ちやすい。
一方であまり経済的に余裕のない家庭の場合には遅れて習い事などを始める傾向にあり、勉強の仕方が身についていない、お仕事などで付き添えない、与えてもやらない(やる習慣が身についていない)ために時間をかけても学習の仕方の定着が分からなかったり、遅い傾向にあります。
こうした場合、折角どんなに良い教材を与えても子どもたちがそれを活用しなければ宝の持ち腐れです。
大学受験までの所謂主要科目の勉強の大部分*はその科目における自分に合った勉強の仕方を如何に早く身につけられるか、経験の蓄積が大きな要因となっておりこの点に塾や予備校は一日の長があります。
*物理や数III・Cなど一部の科目は思考力と蓄積、興味関心、本人の適正などの総合力が問われると個人的には思っている。
子どもに様々な習い事を経験させられるという経済的なゆとりは、子どもの脳内で知る・理解する・出来るようになるという学習ステップを様々な形で体験させてくれますので、一つの習い事で学んだことが別なジャンルの学習に活きるという効果も期待できます。
また所謂ガリ勉タイプよりも体を動かす人の方が思考力や考察の瞬発力などに秀でて文武両道となることも相関性が多いといえるのではないでしょうか。
こうしたそれぞれの家庭の経済力や親の教育への関心度などの背景があると義務教育の中で理解度の低い児童・生徒が同じ教室で授業を受けるとなると、教師はそのクラスの平均的な学力に照準を合わせて授業を展開しなくてはならなくなります。
理解度の高い児童・生徒にとってはこうした授業は簡単すぎて退屈ですし、理解度の低い児童・生徒にとってはこの授業は難しすぎて退屈です。
これをクラスなどの環境要因を含めて工夫するのは教師の腕の見せ所でもあるのですが、結果、私の両親が定年退職までに至った結論は「子どもの基礎は小学校入学前までにおよそ決まってしまう」でした。(身もふたもない話ですが…)
学校・教室の中で上位と下位に位置する理解度の児童・生徒が平均という引力によって、非凡な能力を持った人間までもが凡庸な人間に留まってしまうというのが教育現場では度々起こることを私たちは知っています。
一方で教師に”優秀な児童・生徒だけを選りすぐったクラス”として与えると、実際には平均的な学力の児童・生徒たちがより子供たちの能力が引き出されるピグマリオン効果(教師期待効果)や、またそのクラスの中でもパレートの法則(働きアリの法則)が生まれ、一部は堕落するという実験結果が物語っています。
ここで私のように空気の読めないマイペースな人間、または自己肯定力の高い人間、周囲の環境に振り回されず我が道を行くことのできる児童・生徒というのはかなり稀です。
人間が社会的な生き物であるという事を考えると、これに同調して引きずられてしまうというよくある問題を解決するには親・保護者などが環境要因(通う学校や塾・予備校・家庭教師・アフタースクールなど)を整える、自学自習をする習慣を身に着けさせる、学力に合わせてた学校に通わせるなどの必要性が出てきます。
時に転校という方法は一見すると問題の解決策として環境を大きく変える最適解のように思えますが、子どもの社会性の成長という側面においては人間関係を既存の関係性から切り離し、また乗り越えるべき問題が起きた時に外的環境のせいにしてしまうことを子供に与えてしまうという意味で必ずしも親が取る選択として良いとは言えない場合もあります。
(だから一度入学させたら転校させるというのは悪手にもなり得るし、状況を変える上での好手にもなり得る。イジメなど命に関わる場合などには取らざるを得ないこともあるが)
事例:渋谷教育学園幕張中学・高等学校
千葉県美浜区幕張にある渋谷教育学園幕張中学校・高等学校(通称:渋幕、上記画像)は、元々は1924年(大正13年)に渋谷区で定時制を中心とした渋谷女子高等学校(渋谷教育学園)でしたが千葉県ならびに県私立中学高等学校協会からの要請を受けて1983年に開校した新興の中高一貫校です。
1996年に渋谷校(通称:渋渋、上記画像)でも渋幕での実践教育が採用され、教育理念を一にしています。
開校から間もなく40年になろうという渋幕はグローバル人材と個性的な卒業生を次々に輩出してきました。
中学受験時の偏差値77。
(高校からの中途入学あり、カリキュラムが内部生と一部異なる)
近年では1学年約350名中東京大学合格者数が約70名…今では全国でもトップ10に入る進学校となり、筑波大学付属駒場高校・灘高校・開成高校など東大合格トップ3の40~50%には及ばないものの、海外大学(プリンストン大学、コロンビア大学、イェール大学など)への合格者では2016年に渋渋が39校、渋幕が28校へ合格など国内の高校から海外大学への進学率では圧倒的な実績を出し視線が集まっています。
有名な卒業生では俳優の田中圭さんや、アナウンサーの水卜麻美さん、元サッカー日本代表の田中マルクス闘莉王さん、落語家の立川志の春さんなど幅広い分野での活躍も目立ちます。
現役生たちはクイズ研究同好会が全国高等学校クイズ選手権(2020)で優勝、高校模擬国連国際大会に2009~2014年の6年連続出場、全国高校サッカー選手権や全国高校総体出場、水泳部・テニス部の全国大会などの実績もあり文武両道。
中高一貫校であることを活かした中学3年1学期からの高校授業開始(数学など)の授業展開にも注目が集まっていますが、受験勉強や偏差値の高い大学へ進学する進学校としての顔だけでなく、海外からの帰国子女や留学生、海外への進学を希望する生徒も多く、ちょっと中学では珍しい部活動などでも生徒たちの可能性の探求に多方面から取り組んでいます。
渋幕・渋渋の創始者で校長も兼任する田村哲夫氏は東大卒の元銀行マン(住友銀行)でした。
銀行を退職し、定時制が主体だった女子高の渋谷教育学園理事になったのが26歳の時。1970年(34歳)に同学園理事長(校長)となり、当時”全国で最も若い校長”と呼ばれます。
国内初の高等学校における情報処理学科を設立し、学校のレベルが徐々に上がっていく中でも思い描く理想の学校を作るのが難しく、都内には伝統校や名門校がひしめき合う中にありました。
1980年代に入ると団塊ジュニアの世代など第二次ベビーブームによる生徒の増加で首都圏に新設校を開校するチャンスが到来し、都市開発がスタートした千葉市湾岸部の幕張新都心で1983年に渋幕が開校しました。
渋幕の教育目標は次の3つだと言います。
そしてこれを実現するために「シラバス」を配布しました。
シラバスは大学などでは配布されますが、日本の中学・高校でシラバスを配布したのは同校が初めだったとされています。
配布されたシラバスは中高6年間の授業計画を詳細に示し、中学2年の1学期に何を学ぶのか、何処に学ぶ意味があり、どう発展させていくのかが詳しく書き込まれているもので、生徒はそれを参考に自分で考え、主体的(能動的)に学習プランを構築していきます。
これが教育目標の一つに掲げている「自調自考」、英語ではアクティブ・ラーニングと呼ばれる領域です。
また生徒の自主性を尊重するために、授業前後にチャイムが鳴らないのも同校の特徴の一つです。
田村校長は教育について次のように語っています。
渋幕・渋渋の躍進は単に教科書のお勉強ができる子どもたちを集めて授業をするのではなく、教育において”主体性”がいかに重要であるかを物語っているのではないでしょうか。
千葉県にはその他、幕張総合高校*など特色ある新興の高校が近年次々にその評価を高めており教育業界に大きな衝撃を与えています。またそれらは実は首都近郊の他の都県の教育改革からも多大な影響を受けているのも特徴です。
*1996年に千葉県立幕張北高等学校と千葉県立幕張西高等学校、千葉県立幕張東高等学校の3校が統合されて誕生。2004年には千葉県立若葉看護高等学校も合併され、在校生約2,300名+教師200名の全国屈指のマンモス校。
特に吹奏楽部は全国学校合奏コンクール全国大会に9年連続出場、内8回は最優秀全国第一位に輝く名門校でもあります。
※漫画『青のオーケストラ』のモデルになった高校。
【前振り】国家百年の計は教育〜日本語がいつ確立したのか
日本では高齢者などが全人口比で約3割となり、経済を直接動かす現役世代(約6,868 万人、全人口比約60%)はこの国から年々減っています。
現役世代が非生産年齢である未成年や高齢者を含めた国を底上げ(1.0以上にするためには1.5以上あることが望ましい)をできなければその国は衰退していくことが避けられません。
平成以降の日本はまさに1.0以下に陥っている状況というのが私の個人的な見方です。(国語ができない人が約3割近くいる感覚、例えば現代文70点は3割理解していないということ)
繰り返しますが私は、全ての人が大学に行く必要性はないけれど、多くの人が主体的に大学で学ぶ事には大きな意義があると考えています。
次のことは私が大学に何をやりたいでもなく進学をしたおかげで、得られたことの一つで、私自身の受験勉強の中では少なくとも得られなかったことです。
つまりどのような変革をもたらすにしても、予測不能な変化の時代(VUCA)だとしても問題認識と現状把握、現状認識というのはほぼあらゆる物事の探究において起点であるというのが私の見解です。
過去の記事でも触れたとおり私が意識世界について元々関心があったというのもありますが、大学受験までの知識を用いるのであれば歴史が少しずつ現在の社会を構築してきたということは一面において正しいのですが、一面においては正しくはないことに大学生活の2年目あたりで気づきました。
(私は高校4年、大学5年間通っているので、実質的に二十歳、大学3年生としての年度ということになりますが。)
ここではややわき道にそれますが、次回以降とつながる話なのでできれば読んでいただきたいのですが、「私たちが現在当たり前のように使っている日本語が日本語として確立したのは果たしていつだったのか」について触れたいと思います。
これが今日において教育を考える上でのとても重要な楔なのです。
何故なら言語というのは人々の意思疎通においての根幹であり、これが確立されなければ近代においての教育は成り立たないからです。
(どんな問いか分からなければ問題を解けないという意味において)
私たちは学生時代に古典(古文・漢文)を学びますが、同時に現代文も学びます。
日本語とは現在我々が使っている言語一つを指しているのではなく、古典と現代文の少なくとも2種類(漢文を含めると3種類)があると私たちは知っています。
言わずもがな古文は昔使われていた言葉で、現代文は現在使われている言葉に近いものです。
古文(古語)が使われていたのはおよそ江戸時代頃までで、明治以降に徐々に言語として現代文(現代語)に近づいていくのですが、この意味で学校の授業で学ぶように歴史は積み重ねられ少しずつ変化をしてきて現在の形になるというのは決して間違った認識ではないのです。
しかし日本語にはもう一つの見方があります。
それが文語(書き言葉)と口語(話し言葉)です。
明治の日本語大変革期に入ると、古典から現代文へ、そして文語と口語による言文一致が様々な文学者たちの呼びかけから教育に取り入れられ浸透していきました。
大多数の国民が現代語としての日本語を使う様に普及したのは、実は日本が戦争(日清・日露・日中・太平洋戦争)に向かっていく明治後期以降ということになります。
私からすれば祖父母くらいの世代が生まれた時代(100年以内)ということになります。これって私の中ではかなり最近の話という感覚ですが、皆さんにとっては遥か遠い昔の話でしょうか。
やや穏やかではない表現ですが、約260年近くに渡って鎖国をしてきた日本において、遅れて西洋の文化を取り入れ始めた明治時代の日本。
帝国主義の手がアジアに進出しつつある中で、これらの列強に対抗していくために何よりも欠かせないのが国民の意思統一・言語統一であり、教育における効率性を追求したためと、まとめることが出来るのではないでしょうか。
言われてみると過去にも別な記事で触れたようにドイツやフランスなど当時の欧米諸国においても同じ歴史を見つけることが出来ます。
(国の存亡をかけて国民が一丸とならなければならなかった経験が言語統一と近代教育の始まりにあたる)
しかし、歴史的出来事などを覚えることが点数として評価される大学受験においては、この側面は語られることが殆どありませんし、また現代文と古典(古文・漢文)の2種類(3種)を学ぶ目的も高校では教えられることが殆どありません。
何が言いたいのかと言えば、繰り返しますが結論だけを取り出せば少しずつの変化が積み重なって現在の形になったは一面で間違っていないのです。
しかし、それがどういう周囲からの影響によってそうなっていったのかという側面(プロセス)を見落としてしまうと物事の本質*にはたどり着けないという意味では正しくないのです。
*問題が起きた時にどこで間違えたのかに自力では気づけない依存状態に陥る
これはビジネスや経済、資産形成の世界などでも全く同じ現象が起きていると私は危惧しています。
(例:アクティブファンドよりインデックス運用が資産形成では良いみたいな都市伝説とか)
誰かが言った結論だけを切り出して、それを論じるというのは一見すると合理的で効率の良いように思えますが、きちんと理論として組み立てられていないという致命的な問題を抱えています。
現代語としての日本語が明治後期〜大正期にかけて確立され親子、そして祖父母のおよそ3世代(100年)を経るとようやくその変化はその国の文化、生活レベルに幅広く浸透して日本語が今日の形で確立しました。
つまり国家100年の計は教育にあり*です。
*一日の計は朝にあり、一月の計は朔日にあり、一年の計は元旦にあり…。
現代語というその国の基礎となる言語が統一されてから日本はまだ100年弱しか経っていません。
戦後復興や戦争特需、労働人口が経済力を押し上げた人口ボーナス期などが運よく重なった高度経済成長期と国策によるバブル経済…
しかし日本の地力は、100年が経とうというこれから真に問われることになります。
そして今の時代を生きる大人たちが本気で取り組む教育の成果が出てくるのはおよそ100年後になるでしょう。
これを読んでいるほぼ全ての人は多分誰もその成果を観ることはできないでしょう。
(コールドスリープとかが実用化されたりしない限り。)
しかし私たちの子や孫たちは、私たちが礎となったその未来を生きていくことになります。
教育とは、途方もない国家計画です。
それが何十年も経ってみなければ、その人の人生が終わってみなければ果たしてどうだったのかさえ分からないほど途方もないものです。
しかし、それでも教育には挑戦をする価値と意義があります。
大分前置きが長くなりましたが、次回は教育が社会情勢にどう振り回されて変化してきたのかを大きなトピックスをいくつか参考にしながら振り返っていきましょう。
(気が向いた時に更新予定)
とある女子高の昔話
能動性(主体性)とアクティブ・ラーニング
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