フランス革命と民主主義を広めたナポレオンによる財政・教育改革とその半生⑱
セミナー受講生・顧客の皆様に先行して記事をお届けしていますので、一般の方がこの記事を目にする時にはフランス大統領選挙2022は決着をしていることでしょう。
マクロン大統領が掲げる『革命』(2017年出版の著書)は、皇帝ナポレオンのそれと重なります。
現代のフランスが他国を侵略するという意味ではなく、ナポレオンが「フランス革命の理念を欧州へ広めた」ように、という意味です。
彼は著書の中で次のように述べています。
マクロンの根底にある政治観・教育観は、少子化・人口減少という先進国に共通し直面している課題を打ち破る大きな可能性を秘めています。
エマニュエル・マクロンは世界の国家元首の中でも若い44歳(2022年4月時点)。今やヨーロッパを代表するリーダーの一人ですが、彼が目指すのはフランスの英雄、皇帝ナポレオンのような国を導くリーダー像かもしれません。
今回はナポレオン・ボナパルト、貧乏貴族から皇帝に駆けあがりフランスを世界の覇権国家に導いた男の半生とそれを支えた背骨でもある財政・教育改革についてです。
母親と教育が子どもの諦めない力を育てる?
フランス皇帝となったナポレオン・ボナパルトはこんな言葉を遺しています。
皇帝にまで駆け上がった彼にそこまで言わしめた母、そしてナポレオン・ボナパルトとはどんな人物だったのでしょうか。
ナポレオンの先祖はイタリア・トスカーナ州(州都フィレンツェ)の血統貴族*だったとされています。
近代イタリアがまだ統一される前の時代、ボナパルト家の先祖はジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡って16世紀頃にそのまま住み着いたとされています。
その後、1729年~1769年にコルシカ独立戦争*が勃発。
コルシカ島はジェノヴァとフランスがそれぞれに領有権を主張する緩衝地帯でした。
ナポレオン・ボナパルトの父カルロ・マリア・ディ・ブオナパルテはコルシカ島の外交官・法律家、母マリア・レティツィア・ブオナパルテ…18歳だったカルロと母レティツィアは14歳で結婚。
後の皇帝ナポレオン・ボナパルトはこうした二人…地方の貧乏貴族の両親のもとに、12人兄妹の四男として1769年に生を受けます。
父カルロはコルシカ独立派の副官でしたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後にフランス貴族と同等の扱いを受けます。
妻マリア・レティツィアとの出会いもコルシカ戦争の只中で、彼女は男顔負けの兵士として参加していたそうです。
幼い頃、母レティツィアはナポレオンへ毎日のようにこんな言葉を言って聞かせていたそうです。
挫折や壁にぶつかることなく、偉業を成し遂げることができる人などいません。
苦しい時、辛い時、諦めそうなとき、壁を乗り越えるための大きな心の支えであり、エネルギーとなるのが自分自身への"誇り"です。
母レティツィアは、ナポレオンが嘘をついたり、人の目を盗んだり約束を破ったりしたときには厳しく彼を導いたと言います。
1779年、三男ジョゼッペと共に10歳の頃にフランス本国で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学。
抜群の数学・歴史・地理の成績を修めたとされています。
ブリエンヌ校では学校の冬季の恒例行事としてクラス対抗の雪合戦が行われることになっていた際、ナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝し後の指揮官としての才能の片鱗が既に開花し始めていたとされています。
1785年2月24日、ナポレオンが16歳の時に父カルロが胃がんで亡くなります。母マリア・レティツィアはこの時まだ35歳。
ボナパルト家には10歳になったばかりの五男リュシアン、8歳になったばかりの四女エリザ、7歳になったばかりの六男ルイ、5歳の五女ポーリーヌ、3歳の六女カロリーヌ、生まれたばかりの七女ジェロームもいました。
ナポレオンは父を喪った時の母のことを振り返り、こう語っています。
事実、美しく聡明なレティツィアとの再婚を望む者は多かったと言います。
確かに養うべき子どもたちもまだ幼く、父カルロが遺した事業・財産を女性であるレティツィアが管理し、引き継ぐのは不可能だと思われていました。
しかしレティツィアは数々の求婚をすべて断り、再婚の話を聞こうともしなかったと言います。
母として、子どもたちのために生きていく事を彼女は決意していたのです。
後にナポレオンがコルシカ島へ帰った際に母レティツィアは一人前の成人した男性として対等に扱い、仕送りには手も付けず慎ましい生活をしていたといいます。
そして話し合う時には対等の立場となってナポレオンや兄妹たちと接したと言います。
ナポレオンが「俺はフランス皇帝になるぞ!」と叫べば、母レティツィアは「私はフランス皇帝の母になるぞ」と言い返し、この母にしてこの子ありを地で行く親子だったようです。
父カルロの亡くなった同年9月、ナポレオンは少尉任用試験に合格しパリ陸軍士官学校に入学。
学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3科がありましたが、ナポレオンは中世の花形であり人気のあった騎兵科ではなく砲兵科を志望し、後の大砲を用いた戦術が彼の運命を大きく変えたとされています。
通常4年かかると言われる士官学校を、家計のことを想い猛勉強の末に僅か11か月で卒業し、砲兵隊へ入隊。
しかし配属されたばかりの下っ端である彼の俸給はわずか800リーヴル(現在価値で約16万円)。自分が生活していくのもやっとのものしか得られませんでした。
加えて家族のためにと猛勉強をした反動で過労、そして健康状態も悪化。
旧体制*下のフランスの空の下で、ナポレオンは輝かしい未来を描くこともできず死を願う様にさえなり出していました。
彼は1786年春の日記にこう記しているとされています。
彼の祈りが神に通じたのか、1786年7月14日、王政を批判していた思想家・哲学者たちと共に武器を収容していたバスティーユ牢獄が陥落。
封建主義(王政、専制主義・権威主義)から民主主義(共和主義・自由主義)が台頭することになった歴史的な転換点、フランス革命が始まりました。
第二身分のナポレオンは当初、民衆(第三身分)の示威運動である革命に対して嫌悪感を抱いていたと言います。
しかし8月4日、「封建的諸特権の廃止」が発せられ、身分に関係なく士官への道、昇進の道に制限がなくなります。
ナポレオンはこれを「革命は、才気と勇気のある軍人にとって、またとない機会だ」と好機と捉え、革命について関心を持つようになったとされています。
イギリス産業革命とフランス革命後の混乱期
イギリスで先行して産業革命が本格的に始まった18世紀後半~19世紀中頃、フランスでも一応の手工業などの軽工業は徐々に王侯貴族たちによって始まっていて、パリなど都市へ人々が集まる傾向はロンドンなどと規模こそ違えど起きていました。
そしてこの直前の時代、欧州の片田舎だったイギリスが急速に工業化と豊かさを手にして人口も急増していった時代に、海を挟んだフランスでは貧富の格差が広がり人々の不満がたまっていました。
1700年、フランスの人口が2,200万人の時代、英国の人口は925万人。
GDPはフランス375億ドル*に対して英国202億ドルでした。
1750年にフランスの人口(推定)は2,400万人でしたが、英国は1,000万人。
フランスのGDP463億ドルに対して、英国407億ドル。
1800年にフランスの人口が2,900万人に到達した頃には、英国は1,600万人となりフランスを猛追。
フランスのGDP548億ドルに対して、英国は607億ドルと遂には逆転されます。
当時は正確な人口統計やGDPの測定などなかった時代ですが、フランスの人々はイギリスが急速に豊かになっていき、自分たちを追い越していくのをひしひしと感じていたことでしょう。
フランス人たちはそしてこう考えるようになります。
免税や年金などの既得権益を持つ特権階級の聖職者や王侯貴族たちに対して、飢えるほど食べ物も取り上げられてきた民衆が遂に決起しました。
民衆を支配する王たちを痛烈に批判した思想家・哲学者たちを武器と共に収容したバスティーユ牢獄などを市民が襲撃して、フランス革命は始まっていきます。
フランス革命によってもたらされた「フランス人権宣言」は、それに先立ってイギリスで起きた清教徒革命(市民革命)に端を発し、王による宗教的弾圧や経済格差への不満によって起きた清教徒たちの新大陸への大量移民が発生。
王政は倒れ、オリバー・クロムウェルによる共和政(独裁政治)が始まります。
そしてフランス人権宣言はアメリカの植民地時代を経てのアメリカ独立宣言の理念を下敷きとしており、こうした出来事の連続性やお互いに影響を与え合うダイナミズムは歴史の醍醐味でもあります。
バスティーユ牢獄襲撃に始まったフランス革命によってフランスの王政(第一王政)は窮状に追いやられフランスでも王権が停止。
翌年には国民の不満と貧困の責任を押し付けられルイ16世と皇后マリー・アントワネットはギロチンによる死刑*が執行されます。
そして選挙権が与えられた人々によって選ばれた人たち*によって政治が行われる共和制の時代(第一共和制)が始まります。
しかし人々が選んだとは言っても誰でも政治の舞台に上がれるわけではありませんでした。
やはり元王族や貴族、資本力のある人たちのものが自分たちの富を増やすための政治が横行し革命政府は1792-1795年までの国民公会(ロベスピエールによる恐怖政治)が行われます。
1795-1799年までの総裁政府は普通選挙廃止、職業選択の自由・信仰の自由を認める一方で集会の自由を認めないなどの改革を実施。
アジアとの交易の重要な中継地だった地中海~紅海経由のルートへ介入しようとイギリスはエジプトへ侵略を開始。
これを妨害するためにフランス総裁政府はナポレオンたちの軍をエジプトへ派兵していました。
しかしナポレオンら軍がエジプト遠征中に、周辺国イギリス・オーストリア・ロシアなどの対仏同盟に攻められたフランス本国は軍の多くをエジプトに振り分けており国家存亡の危機に陥っていました。
これに対してナポレオンは軍を戦地に残して遠征先のエジプト*からイギリスの包囲網を突破して、単独帰還。
フランス国民に自らの国を守るために武器を手にするよう呼びかけて総裁政府を倒し、自ら統領政府を設立(ブリュメール18日のクーデター)。
1799~1804年までのナポレオンが立ち上げた統領政府は権威主義化・専制化・中央集権化をしてフランスをまとめます。
そしてフランス救国の英雄となり、国民からの絶大な支持によって皇帝へと駆け上がっていきます。
中世の静寂を破った侵略、ナポレオン戦争
ヨーロッパはスペイン・神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)がそうであったように、政略結婚でそれぞれの王族たちは互いに親戚同士であり、お互いの国を侵略しようということを極力避けようとしながら中世の国家を築いてきました。
しかしこの静寂を破って、“民衆を苦しめている王政を倒す”というフランス革命の理念をヨーロッパ各国に広める大義名分*によってナポレオン戦争が勃発し、フランスは領土を拡大していきます。
調子づいた皇帝ナポレオン率いるフランス帝国を神聖ローマ帝国・ロシア帝国が「欧州の秩序は俺たちが守る」、「いっちょこらしめてやりますか」(超訳)と連携して迎え撃ちます。
1805年にアウステルリッツの戦い(三帝会戦)が開かれますが、古代ローマ帝国の流れをくむ大国だった神聖ローマ帝国は敗戦。
ナポレオンによって解体されてしまい、オーストリア帝国やプロイセン王国やドイツ諸邦39カ国へ分裂します。
この大勝利を祝って、今日もパリのランドマークの一つであるエトワール凱旋門が約30年かけて建設され、フランス帝国が大陸欧州のほぼ全域を支配する時代が到来しました。
ナポレオン戦争を支えた財政政策
しかしナポレオンがブュルメール18日のクーデター(1799)によって第一共和制の総裁となって間もない頃、フランスには戦争をするだけの財源もありませんでした。
国庫にはわずか17万₣*のみ、しかもこれはクーデターの前日に前借した30万₣の残金で、国庫に正味の財源がほとんどなかったことを意味していました。
お金がなければ戦争はおろか、国内の統治さえままなりません。そこで総裁政府はパリの資本家たちを味方にするため直接税ではなく間接税を導入しますが、これによって一般市民は一層の格差で苦しむことになります。
また総裁政府の当面の運転資金としてフランス革命以来つづく国有地を担保とした債券*を当面の資金を確保するために発行しますが、人々の窮状に対する政策の不一致と信用の不足**もあり債券価格は暴落。
市中ではモノの値段がどんどん上がるインフレが起き、市中に出回っている貨幣を回収してアッシニアをそのまま総裁政府紙幣として強制流通させて経済をなんとか回そうとしますが、発行すればするほど価格が下落。
ついに市中はハイパーインフレによって、経済が完全に麻痺してしまいます。
総裁政府はそれでも経済を回すために貨幣を作っている暇がほとんどないためにアッシニアを増刷に増刷を重ね、価値は完全に損なわれ、債務不履行*に陥ります。
ナポレオンはこうした状況を見て、国の財政と国内経済を安定させるために徴税を地方自治体に任せるのではなく国が直接行う形*へと改革の舵を切ります。
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