コンパクトシティの先駆者「青森市」の失敗と都市計画への再考(序章)
どうも。「ラジオもねぇ、テレビもねぇ…」ほどではないのですが、あの有名な自虐ネタの歌で有名な林檎県出身のポッターです。
最近は市内最大のシネマコンプレックス(8シアター)だったコロナワールドも撤退・閉館(2021年8月29日)してしまって「映画館*もねぇ」状態だったわけですが、イオンシネマが2024年3月にコロナワールド跡地に開業するということで久しぶりに青森市に明るい話題が…(涙)
あ、よく誤解されるので最初に断っておきたいのは、私は故郷が嫌いなわけではないのです。
むしろ好き…なのですが、祖父母が健在だった頃はお盆か正月のどちらかに帰る程度だったものが、いよいよ2~3年に1度父親と親戚に顔を出す程度になりつつあります。
帰るたびに実家周辺だけでなく青森市全体がさびれつつあることにとてつもない寂しさを覚え、ローカル紙である東奥日報のWeb版やFacebookコミュニティやTwitter(X)などで青森の投稿をしている人からの情報を元に青森の近況を把握しています。
地元にいる人ほどではないでしょうけれど、県知事が三村さんから変わったとか、新しい宮下県知事は私の1コ年上とか、青森県立中央病院と青森市民病院が統合され、新病院の移転・建設計画が検討されているとかの時事情報は把握しています。なんならYouTubeLiveで有識者会議を毎回見ています。
最終的にこのシリーズはこの青森市統合新病院整備について書いていくことになると思いますが、その前段階として青森市の置かれている状況を全国(?)の人口減少にさらされている人たちに向けて知ってほしいと考えています。
またこの記事は学術的なものではなく、私個人の限りなく主観に基づいて書かれている点も予め断っておきたいと思います。
青森の歴史
西日本などの人にとって遠く離れた青森県という土地は、親戚でも住んでいなければ分からないものでしょう。
弘前城の桜まつりや林檎が有名すぎて、県庁所在地は弘前市なのでは?という会話も自己紹介などの時に西日本出身の方と良くします(笑)
また太平洋側のイカ釣りやウミネコの繁殖地で有名な八戸市が県庁所在地だと誤解している人も時々いますが、青森県の県庁所在地は青森市です。
ざっくり知りたい方はこの動画を見ていただくと一目瞭然です。
青森県一帯を元々治めていたのは現在の岩手県盛岡市を含む太平洋側一帯を治めていた南部氏をお殿様とする南部藩でした。
しかし足利尊氏などの活躍した南北朝時代、南部氏を裏切った部下の大浦氏が八甲田山の向こう側で独立して津軽氏を名乗るようになります。
津軽氏は豊臣秀吉が天下を取ると豊臣方に、徳川家康が天下を取りそうとなれば徳川方に付きました。
こうした身の振り方で戦国時代、そして江戸時代を生き抜いた津軽氏。
明治維新が始まると津軽氏も南部氏も幕府側の佐幕派でしたが、風向きが維新側が有利と見るや津軽氏はあっさり寝返りました。
維新政府側に逆らったことから南部藩は現在の岩手県と青森県東南部とに分割されてしまい、元々仲の悪かった2つの藩が一緒の県となることになります。
しかしここで揉めるのはどこに県庁を置くのかという問題。
当初は弘前城のあった弘前市に県庁を置こうとして弘前県と名付けられますが、八戸の人たちは猛反発…
そこで2つの距離的な中間を取って小さな漁村だった青森村(善知鳥村)をいくつかの周辺の村と合併させて市に昇格させて1889(明治31)年に青森市が誕生しました。
2023年時点の人口は青森市26万人、弘前市16万人、八戸市23万人、五所川原市6万人…県庁所在地であり、県下最大の商業の街が青森市です。
しかしこの青森市は2000年以降ずっと危機的な状況にあります。
それが本記事で皆さんに共有したい事でもあります。
斗南藩って知ってる?
ちなみに余談ですが、明治維新で幕府側に加担したとして会津藩は冷遇され、藩はお取りつぶしとなり、松平容保の嫡男であった容大*に家名存続が許されて現在の下北半島一帯に斗南藩が作られます。
しかし冬は極寒豪雪の地であるこの場所で漁業の他にさしたる産業も根付かず、斗南藩は後に青森県と一体になります。
つまり青森県は大きく日本海側の文化圏を持つ津軽と、太平洋側の文化圏を持つ南部、更に独自の文化圏を持つ下北という3つの経済圏があります。
特に津軽地方と南部地方では言葉(方言)も違いますので、旅行する際にはご注意ください。(パスポートは不要です)
新幹線誘致、長すぎた38年
戦後の日本の経済史において大きなトピックスの一つが東京などの大都市圏と接続する新幹線の開業があります。
東北新幹線(大宮-盛岡間)が開業したのは1982(昭和57)年で、盛岡駅は東北新幹線の当時の終着駅として大いに栄えました。
それを垂涎の目で眺めていたのが青森県民でした。
盛岡市の当時の人口は23万人…失礼ながらも、青森市とそん色のない一地方都市でした。
しかし新幹線開業を機に周辺の村などの合併も加わり人口が跳ね上がり、新幹線の終着駅として隣接する青森県だけでなく秋田県からのアクセスも増え発展をしました。
私も幼い頃、仙台や東京などへ家族で出かけるときに青森駅から特急に乗って向かう訳ですが、盛岡で新幹線に乗り換えた時の感動は今も忘れません。
「東北新幹線早期着工フル規格で!」という看板が青森駅前のロータリーに掲げられていたことを地元の人なら覚えている方もいるかもしれません。
その看板には北海道新幹線との接続で、青函トンネルを走る新幹線が描かれていました。
その看板は水族館のトンネルのようなイラストによるイメージ図だったので、実際に青函トンネルが開通して海の中(外)の見えない海底を走行すると知った時のガッカリ感は半端じゃなかったです(笑)
新幹線が開業すれば自分たちの街はもっと発展する…きっとこの頃、全国の新幹線延伸を心待ちにしていた地方の人たちの気持ちは同じだったでしょう。この頃が日本のバブル絶頂期でした。
1971(昭和47)年に整備計画が示されてから20年が経っても新幹線は盛岡から八戸に向かう途中で工事が中断したままでした。
私は高校進学(1996)で宮城県に出たため、この盛岡の建設途中の高架を帰省のたびに見上げていました。
「青森に新幹線はいつやって来るのだろう」と期待に胸を膨らませていたのは私だけではないでしょう。
この間に青森を脇に、仙台からの分岐で1992年に山形新幹線がミニ新幹線として、盛岡からの分岐で秋田新幹線は1997年に開業が決定していました。
当時の青森県知事だった北村知事が大蔵省に交渉に行くと開口一番言われたのが、「青森まで伸ばして空気を運ぶのですか?」という冷たい一言を返されるだけでした。
しかし粘り強く交渉を続けた結果、1996年に盛岡以北である八戸までのフル規格での延伸が決定しました。
東北新幹線の新青森駅までの開業がやっと動き始めたのです。
そして5年の工期を経て八戸まで開業した2002年には、整備計画から既に29年の歳月が経っていました。
盛岡の時と同じく当座の終着駅である八戸市は発展を遂げていきます。
そして青森市ではこの頃既に人口のピークアウトに差し掛かっていました。
新幹線開業を前提とした都市計画
既に触れた通り青森市は県庁所在地として官庁や地方裁判所などを有し、人口でも県下最大の市です。
北に青森湾を臨み、官庁街のある中心部、そして西部と東部という平野に沿って横長に広がる街でした。
そして青森市は単なる県庁所在地としてだけでなく、北海道との玄関口として栄えてきた歴史があります。
1891(明治24)年に国鉄が開業した際には上図の青いルートでしたが、
1929(大正15)年に国鉄の路線が大きく南側に変更(赤色)になりました。
これが現在の旧線路通りや平和公園*(2代目浦町駅)にあたります。
その後、1968(昭和43)年に市街地の拡大や東北本線の電化に伴い緑色の現在の路線に修正され、東青森駅や小柳駅(どちらも現青い森鉄道の無人駅)が設置されます。
戦後に何故このような路線の修正が行われたかですが、青森駅は青森湾に突き出る形になっており、東西からの電車がスイッチバック方式で駅に進入する構造をしています。
これは湾に接続した青函連絡船に貨物を載せて輸送するためのものです。
そして北海道から本州へ、本州から北海道への大量の貨物列車を滞留させるために操車場を当時の市街地の外へ拡張する必要があったのでした。
青森駅で列車から跨線橋を使って青函連絡船に乗り換え、海を渡って函館へ…私が小学生の低学年くらいまで青函連絡船は運航されていました。
青函連絡船が往来していた頃、青森駅前は北海道から海を渡ってやってきた人々や北海道へ渡る人々でにぎわい、名物の林檎などが駅前の線路沿いの通りのあちこちで売られていました。
青森駅から約900mもまっすぐ伸びる新町商店街は市一番の繁華街でした。
雪の降る日でも買い物がしやすいようにとアーケードが設けられ、中三、カネ長武田、松木屋などの地元の百貨店も競い合っていて、映画館も東映や松竹など複数あり、青森市と新町商店街はいつも賑やかで北東北三県でもっとも栄えていた商業都市でもありました。
青森市は人口も増え、市街地が東西に徐々に広がっていきました。
しかし新幹線を誘致するとなると大きな問題を抱えていました。
それは青函連絡船とは異なり、青森駅のスイッチバック方式では新幹線駅として北海道新幹線へのアクセスが悪いことでした。1973(昭和48)年に整備計画が決定されると、国鉄から3案が示されていました。
現青森駅併設
ヤード地区(操車場跡地:現青い森セントラルパーク)
石江地区(現:新青森駅)
現青森駅併設は北海道新幹線との接続を考えると事実上不可能として早々に脱落しますが、青森市、市議会、商工会議所などはこれを譲りませんでした。
また住宅街やジャスコ・サンロード青森、スーパー亀屋やサンワ(現DCM)やサンデーなどの商業施設が次々に開業しており新たな中心地になりつつあった南側にアクセスの良いヤード地区への青森駅移設にも反対の声が上がります。
今でこそイオンモールなどの商業施設は地元商店街から顧客を奪うと呼ばれますが、この青森に開業したサンロード青森はジャスコをキーテナントとしながらも、有志の地元商店街振興組合による建設でした。
新幹線駅の誘致場所について1975~1979年まで5年間で計16回の三者協議が開催され、石江地区への設置もやむを得ないとして新青森駅が建設されることが1980年に決定。
青森県および青森市は新幹線駅として新青森駅を新幹線の発着性*が高い石江地区に設置することを決め、また市街地の計画的な発展を見据えて新青森駅周辺の西バイパス一帯を都市計画として開発制限区域に指定しました。
結果、青森駅と新青森駅は距離にして約4km。
電車でおよそ5分、車で10分ほどの離れた場所となります。
後述しますが、青森市はローカル線より内側を旧市街地、青森自動車道(外環道)より内側を住宅街、この外を郊外とする『コンパクトシティ構想』を掲げ、1970年代から計画的に郊外に間伸びしない都市設計作りが掲げられて来ました。
一見するとこれは都市計画、新幹線誘致として当たり前に考えられることかもしれません。
しかしここで青森市を悲劇が襲います。
新幹線がいつまで経っても青森市までやってこなかったのです。
1982(昭和57)年、国鉄の経営悪化を踏まえて整備新幹線建設計画の当面見合わせが閣議決定…。
青森市は西部の開発が規制されているため、東部と南部へ住宅街が広がっていきました。
青森県立中央病院も元々は国道4号(東京・日本橋)と国道7号(新潟市)の交差する青森県庁横の現在の青い森公園の場所にありました。
しかし人口増加で病院が手狭になったことを理由に住宅街の広がっていた東部の造道(現在地)に1981(昭和56)年に移転します。
西部の油川・沖館方面や函館などへ向かうフェリー埠頭から中心部や東部へのバイパスとして青森ベイブリッジが湾岸線を抜けるように建設されました。
青森市は人口20万人以上が暮らす都市としてはギネス記録にも載る世界有数の豪雪地帯です。
住宅街が郊外に広がれば広がるほど除雪というお金にならない費用が市の財政からどんどん湯水のように流出していってしまいます。
また青森駅によって栄えてきた新町をはじめとした中心地や商店街は、新青森駅が郊外に行ってしまうと集客力が落ちてしまいますから新青森駅への移転には絶対Noの立場です。
無茶だとしても新幹線を地下でもいいから青森駅に発着させてほしいと思ったことでしょう。
しかし新町商店街のあるあたりは元々は海で、埋め立て地です。
冬場になると道路からポンプでくみ上げた海水を路面に流すことで融雪をしているほどです。
この地盤でトンネルで掘って駅を作れというのは流石に無茶でしょう。
2010年12月4日、東北新幹線は当初の予定地であった郊外の新青森駅で開業。整備計画から38年の歳月が経っていました。
しかし開業の熱気とは裏腹に、僅か3か月後に東日本大震災で当面の運休を余儀なくされます。前途多難を伺わせる状況となり、2016年には北海道新幹線・函館北斗駅への延伸も決まっていました。
札幌延伸は2035年頃…ポジティブな要素があればいいですが、逆にストロー現象で更に青森県から人が仙台・東京だけでなく札幌にまで吸い上げられる可能性の方が…。
「まるで空港のような原野にできた新幹線駅」と揶揄され、青森市の思惑だった商業用地として区分してきたにもかかわらず、商業施設は数100m離れた幹線通り沿いにばかり行ってしまいました。
開業から10年経ってようやく駅東口周辺の空き地が少しずつ埋まり始めますが建てられたのは西口が新興住宅街として開発され、東口は空き地が目立ち、西口の方が発展している皮肉っぷり。
折角、宿泊客が駅前にできた東横インなどに泊まっても飲みにも食べにもこの周辺では行けない…素人目にも完全に都市計画の失敗となります。
全国の地方都市の新幹線開業でここまでの失敗事例はそうはないのではないでしょうか。
(ちなみに私は高校生の頃は建築家志望で都市計画が将来の夢だっ…)
アウガという希望
こんな未来が待っているとも知らず、青森市は新幹線が新青森駅に誘致されたことによって魅力の低下してしまう青森駅を有する新町商店街の活性化のために再開発の起爆剤として、駅前の一等地に大きな商業施設を建設することにしました。
集客力のある施設を作れば、青森駅が役割を新青森駅に移しても新町商店街に人はやって来るだろうと考えたのでしょうか。
青森駅前にあった林檎市場や魚市場などの土地を買収して撤退させ、複合施設アウガは1977(昭和52)年に青森商工会議所が策定した計画に基づき、1992年に第三セクター*「青森駅前再開発ビル株式会社」を設立。
1999年に着工し、2001年1月に「アウガ」として開業しました。
総事業費184.6億円だったそうです。
開業に合わせて地元のみならず全国の自治体から「コンパクトシティの象徴」として視察が押し寄せるほど注目を集めたアウガ。
しかし開業の1年前、キーテナントであった西武百貨店がアウガへの入居断念を発表。バブル崩壊以来の百貨店業界の経営不振が理由でしたが、キーテナントを開業直前で失った青森市と商工会議所は大混乱に陥っていました。
そして中央地にあった老朽化した青森市民図書館をアウガに移設し、年間来場者が600万人となったことが取り上げられますが、その裏では空いたスペースがなかなか埋まらず、お店を誘致して進出してもすぐに撤退してしまうという負の循環が続きます。
たまにしか帰らない私のような青森出身者から言わせてもらうと、第一にアウガ一帯は一方通行も多く駐車場に入れにくい上に、立体駐車場が急こう配でスペースも狭く駐車しづらい。これは車社会の地方都市において致命的です。
第二に地下に入った魚市場の臭いがエレベーターを通して上のフロアなどにまで充満し、ファッションや買い物を楽しむ空間ではない。
第三に郊外にあるサンロード青森(イオン)やイトーヨーカドーなどと代わり映えのしない店でどこに行っても同じ感じ。
アウガが開業した2001年の売上高は、計画を大幅に下回り23億円。2.5億円の赤字でした。そしてそこから坂を転がり落ちるようにアウガの経営は悪化していきます。
打開する手立てがないままの、箱モノを作れば活性化するという絵に描いた餅の開業は2008年、累積23億円の大赤字であることが市民の知るところとなります。青森市は金融機関に対してこの債権を8億円で買い取り事実上の債務放棄を金融機関は背負わされることになります。
更に悪い事は重なります。青森駅周辺から次々に百貨店、そして映画館といった集客力のある施設が次々と閉店していったのです。
青森市は2005年に平成の大合併で、隣接する浪岡町と合併し人口29万人の街になりました。しかしそこをピークに人口減少時代に突入します。
2009年の青森市長選ではコンパクトシティ構想を推進してきた佐々木誠造市長が1989年の初当選以来5期20年の盤石な状態から、新人(県議7期)だった鹿内博候補に敗れ6期目を逃しました。
私は宮城の高校を退学して地元の高校に再受験し、青森市内で高校生をしていた頃、鹿内氏が毎週決まった曜日に交通量の多い交差点にノボリを立て、マイクと拡声器を使って市民に自身の政策と県民の声を拾おうとしていたのを知っています。
信号待ちをしている数分間、当時は有権者でもない一学生でしたが、有権者一人一人が政策について考える街づくりを訴え、真面目で真剣に呼びかける姿は地元政治家の地道な努力であり、誠実さだと思っていました。
県議になってもこうした事を続けられる人はなかなかいません。
そうした意味でも鹿内氏のアウガ再建に期待をしていました。
(私は首都圏で就職したので青森市長選への選挙権がなかったが)
鹿内市長は次々にテナントの抜けていくアウガに対して、テコ入れとして2億円の助成金を交付し自らが青森駅前再開発ビル会長となり、副市長が社長となって経営再建を目指します。
しかしアウガの経営悪化は止まらず2015年に累積27億円の赤字に拡大。
2016年に資金を回収できなかった責任を取って引責辞任。
地元で暮らす父の話曰く鹿内氏を「真面目すぎる市長」とのことで、市議会や商工会など周囲との軋轢も少なからずあったようです。
2017年にはアウガの地下階に入る地権者の魚市場以外の商業施設すべてが撤退し、第三セクター青森駅前再開発ビルも経営破綻。
青森市では新たに総務省(愛知県総務部財政課長)を辞して、小野寺晃彦候補が他の候補者を破って当選。
アウガに市役所(約1.6km先)の一部機能移転を行い、駅前の一等地の町一番の立派な建物に市役所機能が入るというハコモノ行政の失敗例を象徴するような有様を見せます。
追い打ちをかける行政
さらに2019年には青森市役所の老朽化(築55年)を控え、青森市役所の立て替え計画が実行に移されようとしていました。
新しい青森市役所は地上10階建…(笑)
え?アウガの問題で金融機関に債務放棄させたのに、今度は市役所を10階建てで建て直そう???
この10階建構想には、被災時における防災拠点としての活用などが盛り込まれていますが、市民からの支持は全く得られませんでした。
結果、小野寺市長はこの案を廃案として地上4階建(地下1階)と建て替え前の庁舎とほぼ同じサイズの新庁舎を建設。
僅か1.6kmと近接する場所に位置する前述のアウガを駅前庁舎として一部併用しながら活用しています。
コンパクトシティ構想
ここで青森市が目指していた構想の下地を解説したいと思います。
コンパクトシティ構想は1970年代に欧米で都市のドーナツ化現象や近代都市特有の問題を解消する方法として考案された持続可能な都市計画(政策)を指します。
ヨーロッパでは1972年に『成長の限界』という環境問題に焦点が当てられ、「持続可能な開発」という考え方(環境負荷の軽減)が重要な政策目標となりました。いわゆる今日のSDGsなどにつながる考えの一つです。
脱クルマ社会を目指し、徒歩で生活ができるようにするため路面電車やライトレールなどの軌道系公共交通網の整備や延伸を行い、歴史や文化の保全、継承などを大切にした都市の景観維持などにも工夫がされています。
また日本においては都市部こそ中心地の地価が落ち着いてきたことで都心回帰の動きが起こりましたが、地方では郊外に住宅街が広がったままで中心部に回帰しない現象が発生しました。
特にクルマ社会である地方都市は、ロードサイドの巨大なショッピングセンターや店舗や家電量販店、ファミリーレストラン、ファストフード店などが進出し、大きな病院なども郊外に移転してしまい、クルマがなければ地方では暮らせないといった状況は一定以上の高齢期になっても運転免許の返納ができないなどの問題の一因にもなっています。
国全体で人口が減る時代の到来によって、郊外に散らばったままの居住地域などの道路や上下水道、電気、ガス、インターネット回線などを全国くまなく完備し続けることは困難で、これを都市部に回帰させるというのがコンパクトシティ構想の基本概念になります。
青森市のコンパクトシティ構想
1970年代の基本都市計画から西部の開発規制に加え、青森市では1999年に全国に先駆けて「コンパクトシティ構想」を発表しました。
市街区域をインナー、ミッド、アウターの3つに分けてアウターへの開発を制限。市街地がこれ以上に拡大していくことを防ぎ、官庁および中心市街地をインナーで維持し、住宅街などをミッドにとどめるというものでした。
これによって郊外への間延びした人口流出を食い止め、中心街の活性化とミッドの発展を刺激しようとする都市計画は青森市のような豪雪地帯に限らず現在でも多くの地方都市が抱える交通や医療、買い物などへのアクセスでも基本となっている考え方に近いと言えます。
これを体現したのが2006年に完成した青森駅前の真正面に建つミッドライフタワー青森駅前です。
総事業費50億円をかけ建設。ビル1階には市場、レストラン、寿司店がテナントとして入居。2~4階にはクリニック、訪問介護ステーション、ケアハウスが入っておりビルの大部分は高齢者対応型マンションとなっています。
高齢者の雪かき負担などもなく、病院も介護ケアも同じビルの中にあり、ビルの真裏はアウガ。そこから信号一つ渡れば地元百貨店などが軒を連ねる新町商店街です。まさに青森市の目指すコンパクトシティ構想を象徴する建物の一つです。
しかし青森市のコンパクトシティ構想は結果的に、現在では「コンパクトシティ構想の失敗事例」という文脈で用いられる有様です。
では何故、青森市のコンパクトシティ構想は失敗してしまったのでしょうか。富山市などの成功事例と異なり、何が巧く行かなかったのでしょうか。
次回は現在の青森市の状況を踏まえながらその原因を考えていきたいと思います。
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