オリンパスブルーの憂鬱〜カメラ事業売却に思う理想と現実(1)⑮
私は2002〜2010年にカメラ販売員(後半2年は量販店のネット通販事業部のバイヤー)だったので、このニュースは悲しいと悔しいと同時に遂に来るべき時が来てしまった…という気持ちです。
多分、あと数年もすればスタンフォード大学やハーバード大学のビジネススクールの高名な方々が分析した詳細な敗戦の姿が載るかもしれませんが、これは何処の業界でも姿形を変えて現れる話のように思えます。
日経新聞は記事の中でオリンパスを”カメラ大衆化の旗手”と呼び、かつてのその栄光と挫折を記事にしました。
何故、オリンパスはカメラ事業の身売りをする状況にまで陥ったのか。
理由はいくつか考えられますが、ここではカメラオタクの私なりの視点で解説をしていきたいと思います。
カメラ事業の売却であって、ロードマップにあるレンズ等は作り続けるとか、カメラのメンテナンスは存続会社が引き継ぐとか…そんな希望的観測は今なんの慰めにもなりません。
何度も転換点はあったのに、変わる覚悟・変える勇気がオリンパスにはなかった。私がもし今でも販売員を続けていたらオリンパスがどんなに好きでも、もはや勧められないでしょう。(ペンタックスやニコンでさえも同様)
「好きです、オリンパスのカメラが」という私みたいなカメラオタクかカメラマニアか、メンテナンスもサポートもなくてもそれでもオリンパスのカメラが良い人以外は手を出すことは憚られます。
宮崎あおいが好きで買うくらい(このネタ、たぶんもう通じない?)ならソニーかキヤノン買っておけばいい。どうしてもマニアックなのが欲しいなら富士フイルムもまぁ検討してもいい。あとは厳しい…正直いばらの道だと思う。
オリンパスのカメラ事業売却は、今のところペンタックスがリコーになりましたって話ではなく、コニカミノルタがソニーに事業を譲渡したのに近い。けれどあの時とは状況がまるで違うんです。同じ業界で第二のソニーのような奇跡は起きないでしょう。
未来は不確かだけれど希望があるから我々はそれを手にできるんです。お金を支払って買うという決意ができるんです。
決して安いとは言えない金額のレンズ交換式のカメラを買うというのは画家が表現の筆を選ぶに等しいのです。レンズラインナップや今後の開発ロードマップ、そしてシステムに注ぎ込まれたメーカーの設計思想への先行投資でもあります。
事業売却はオリンパスのカメラが好き、オリンパスのカメラを使っているというユーザーへの背任行為であり、敗戦宣言でもあります。
今、オリンパスのカメラのファインダーを覗いて希望が見えますか?
私は経営者やファンドマネージャーたちが「今は苦しいけど、大丈夫です」という発言をした時ほどヤバい時はないだろうなと思いますが。
オリンパスという企業とカメラ事業の歴史
フィルムカメラの時代、写真を撮るというのはとてもお金のかかる趣味でした。1940年頃、小学校教員の初任給が60円だった時代に18枚撮りの35㎜フィルム1本が約10円…しかもフィルム代だけでなく、現像代・プリント代も二重三重にかかりました。
そしてカメラ本体・レンズのほとんどは当時ドイツなど海外からの輸入品でとても高価でした。1937年のカメラはContax―III*が2000円、Leica―III a が1500円(共に中古)だったそうですから、月給60円だと給与の25ヶ月分…結婚指輪は月給の3ヶ月分なんて可愛いものです。たまちゃん(ちびまる子ちゃんの友達)のパパがライカを大切にする気持ちがよくわかります。
オリンパスは大正時代に顕微鏡や体温計*など医科学向けに作られた会社が祖業です。そこでのノウハウを駆使して、当時は輸入品で高価だったドイツ製のライカやカールツァイスなどに負けない国産のカメラ・レンズを作ることを目指します。
フィルムカメラの時代から同社は小型カメラを作るのが得意でした。1959年代に発売されたハーフカメラ”オリンパスPEN”は「月給*の半分の金額で買える」カメラがコンセプトでした。
それまでのオリンパスのカメラは安いものでも2万円以上。当時は駆け出しのカメラ設計者だった|米谷美久《まいたによしひさ》氏(1933-2009)はこれを安かろう悪かろうではなく、品質を確保したまま機能を厳選して6千円まで下げようと挑んだのです。
そしてオリンパスPENは小型・軽量なだけでなく、36枚撮りフィルムを入れれば2倍の枚数が撮影でき、お財布にも優しい設計で多くのユーザーに支持されました。日経新聞が”カメラ大衆化の旗手”と評したのはこの点を指しています。
また終戦間もない1949年には東京大学分院から持ち込まれた光の届かない胃の中で内部を鮮明に撮影する胃カメラの開発に成功し、内視鏡シェアでオリンパス・富士フイルム・ペンタックスの3社で世界シェアの9割。オリンパスは7割を占め、世界トップシェア企業として確固たる地位を確立しました。
デジタル一眼レフ市場への挑戦と勝算
白いレンズのキヤノン、黒レンズのニコン…プロスポーツのカメラマンたちがベストショットを競うシーンでの覇権争いがエンドユーザー向けの市場へもかつては大きな影響を与えてきました。
キヤノン・ニコンのようにフィルム時代に大量のユーザーがいる場合、レンズの互換性を確保しながら新しいシステム(デジタル化)へ移行する必要がありました。
(この問題でかつてキヤノンはオートフォーカスへの移行時にレンズ規格を変えて高速AFの速度を手に入れたが同時に大量のユーザーの信頼を失い、ニコンはFマウントを変えないことを宣言して大量のユーザーを確保したが、その足かせに長年苦しむことになる)
フィルムは光の入射角が多少厳しくても、フィルムに当たれば化学反応を起こして像や色を表現できました。
しかしデジタルの場合にはCCDなどのセンサーに直進してきた光でないと像を結べない・色をセンサーがしっかりキャッチできないなどの問題がありました。
フィルム時代のレンズはそんなことを意識する必要がなかったため、フィルムからの移行期にフィルム時代からのユーザーの多くはデジタル一眼レフにレンズの規格が合えば使えるのではと安易に考えていました。
しかし性能は前述の通り不十分。結果、フルサイズだと画角の端に行くほど光量が落ちてしまう問題などを周囲を切り捨てる事で乗り切ろうとしたのがかなり小さいAPS-Cセンサー(またはAPS-H)を使わざるを得なかった実情があります。1/2.3型は小型デジカメによく使われるサイズ、1.0型は高級デジカメに使われることが多いサイズ。(以下はセンサーサイズのイメージ図)
※キヤノンが初のフルサイズのデジタル一眼レフEOS 1Dsを発売したのは黎明期の2002年。しかもプロフェッショナル向けで、写真スタジオなどで使う前提なのでライティングで光量をかなりカバーできる環境で、持ち歩く事をあまり想定していない機種でした。(最も多くの消費者にとってこのような問題は二大巨頭のメーカーから大っぴらに指摘されることがなく、多くの消費者が気づかないようにAPS-Cが事実上のデジタル一眼レフの普及価格帯モデルの標準規格として売り出され、かつ多くのユーザーは大手メーカーの言い分を妄信した)
デジタル一眼レフの黎明期、この点に勝機を見出したのがオリンパスが立ち上げたレンズフォーマットのオープンライセンス「フォーサーズ」でした。
センサーサイズが小さいことはデメリットもあれば、メリットもあります。
デメリットはセンサーサイズが大きいほど取り込める光の量(やデータ量)が多くなるので、色調・階調など色データが豊富になります。またセンサーサイズが大きいと一眼レフ特有のボケ味(遠近感)を楽しむ事ができ、暗所撮影にも有利です。
ISO感度を高い感度(数値の大きい方)にするほど画像にノイズが入ること、暗所でISO感度を比較すると写真全体が暗くなるためメーカーは機種ごとにISO100/200/400と設定やリミッターをつけています。
一方でメリットは小さなレンズシステムで遠くのものが大きく撮影できる事。小型デジカメやレンズ一体型デジカメで驚くような光学倍率の機種が存在するの原理は同じです。
ユーザーの「カメラは大きくて重い」…という不満を解消するのには小型デジカメやレンズ一体型デジカメよりセンサーサイズは大きく、レンズ交換が出来る事で撮影の幅を広げられる新しいシステムの構築という最適解を描いたのがオリンパスだったのです。
「小型デジカメと一眼レフの間を取ろう!」
これは実に良いところに目をつけたマーケティングだったと思います。何故なら小型デジカメ市場には多くの消費者がいて、レンズ交換式のデジタル一眼レフ市場にはまだアーリーアダプターたちごく一部の人しかいませんでした。この深い溝を超えると一気に普及し始めます。
全てのユーザーが移行することは有り得ない中で、小型デジカメでは飽きたらない表現を求める消費者やフィルムからデジタルへ今後どんどん移行してくるユーザーを取り込むのに、小型デジカメとレンズ交換式、そしてデジタル一眼レフの良いとこ取りを目論みました。
自社の強みを最大限に活かす戦略USP(Unique Selling Proposition)と合致したオリンパスのデジタル一眼レフは市場シェアの囲い込み(対キヤノン・ニコンの二大巨塔包囲網)を早期に築くため自社のレンズ交換フォーマットを持たないパナソニックや富士フイルム、廉価で高性能なサードパーティーレンズを作れるシグマやタムロンなどをオープンライセンスに参画させる事に成功しました。(2020年のパンフレット下部に最近の協賛企業が載っている※画像は後編で触れるマイクロフォーサーズのもの。フォーサーズのものではない)
レンズフォーマットは各社のユーザー囲い込み戦略であると同時に、ユーザーの流動性やメーカー間の開発競争の弊害でもあります。
元々、フィルムカメラの時代からの交換レンズユーザーがキヤノン・ニコンなどのようにいるわけではなかったフィルムの一眼レフ後期(90年代後半~2000年代初頭)のオリンパスにとってはデジタルに最適化されたレンズ・センサーフォーマットを刷新して、軽量・小型で使いやすいカメラシステムを構築することは挑戦であり、またデジタルという新市場においてのシェア拡大の好機でもあったでしょう。
そして元々カメラ業界に身を置いていたわけではないメーカー(例えばパナソニック)にとってはデジタルカメラ市場の拡大と可能性に挑戦することや、同社が持つ映像技術(ビデオカメラやテレビなど)を活かす投資でもありました。また富士フイルムのような一眼レフでは大きなシェアを持っていないながらも写真をはじめとしたフォトイメージングの業界において現像・プリントノウハウやフィルムを開発してきた基礎研究はこのまま捨て置くには惜しい技術と特許の山です。もしシェア拡大の機会が得られるならと参入する企業は一定数ありました。
フォーサーズには大きく次の3つの設計思想がありました。
①デジタルに最適化したデジタル専用設計
②フィルム互換のメーカーより小型・軽量
③レンズマウントのオープン規格
実現すればフィルム時代から圧倒的な世界シェアを握るキヤノン・ニコンのマーケットをひっくり返すことも不可能ではないユーザーの利便性とメーカー双方にメリットのある構想でした。
そして市場についにフォーサーズ対応のモデルが2003年10月10日に投入されました。
フォーサーズ、妥協できなかったフラグシップ機投入の悲劇
オリンパスがレンズ交換式のデジタル一眼レフとしてオープンライセンス規格「フォーサーズ」とそのフラグシップE-1を市場に投入したのが2003年10月10日、キヤノンもニコンも含めまだまだ”カメラは大きくて重たい機械”でした。
E-1(ボディ実売価格22万円前後)はマグネシウム合金による本体の堅牢性に加え防塵防滴、そして世界で初めてCCDダストリダクション(レンズ交換時のチリやゴミを振るい落とす機能)を搭載したプロ機(ボディ重量660g)として投入されました。
同年3月にカメラ業界の巨人キヤノンがミドルクラス機EOS10D(ボディ重量790g)を初めてボディ実売価格20万円以下で投入していましたので、プロ機としてはリーズナブルで軽量なモデルとしての投入でしたが、一般ユーザーにとってこの重量はレンズやバッテリーまで含めたらほぼノートパソコン1台とほとんど変わらない重量感になってきます。
センサーサイズ4/3インチから名付けられたフォーサーズ・システムですが、後に入門機など小型・軽量化を進めていきますがこの船出は最初に妥協しないフラグシップ機を投入…(。´・ω・)ん?なんだこの違和感は。
大きくて重いのはフィルムからデジタルに移行する際にアナログなままの様々なカメラとしての機能を引きずらなければ成り立たなかったから事情もあります。フィルムに代わりCCD(のちにCMOSが主流となったが)センサーや液晶画面などが搭載された結果、それを駆動させるためのバッテリーがフィルム時代よりも大きく重いものを搭載せざるを得ませんでした。
軽量・小型を目指したフォーサーズシステムですが、デジタル化の技術が今日ほど十分に成熟する前の時代であり、様々なパーツの軽量・小型化が追い付かずセンサーサイズの小型化という理想の一歩目は理想からはまだ遠い、けれどオープンマウントで、誰もやったことがない新しいデジタル一眼レフシステムの登場にきっと多くのユーザーが期待をした門出でした。
遅れた”挑戦的な入門機”投入と大手の”横綱”入門機マーケティング
キヤノンはフィルム時代からの成功体験を元にEOS Kissシリーズのデジタル版EOS Kiss DIGITAL(ボディ実売価格12万円、レンズキット14万円、本体質量560g、画素数630万画素)を2003年9月に発売しました。
ここでは比較しやすいように発売時点での実勢価格と本体質量、あと時代感を表すために画素数を表記しています。
Kissというシリーズはフィルムカメラ時代、ママが子どもにキスをするように気軽に愛情をこめて…というシリーズで、いわゆる初心者向けのエントリーモデルです。
フィルムカメラ時代のEFレンズ互換もありますが、デジタル一眼レフ向けにキヤノンが作ったEF-Sマウントという新しい設計がされ、レンズキットなどではこちらがセットになっています。35㎜換算で画角は1.6倍(24㎜のレンズだと38.4mm)となるAPS-Cサイズのセンサーが搭載されました。
2004年3月にはニコンが初心者~中級者までをカバーするD70(ボディ実売価格12万円、本体質量595g、画素数610万画素、月生産予定台数10万台)を発売しました。
ニコンもキヤノン同様にデジタル仕様のレンズを投入。レンズマウントは「不変のFマウント」。フィルム時代から共通です。画角は35㎜換算時には1.5倍。
裾野が拡大するデジタル一眼レフのエントリー向け市場で二大メーカーが先行してシェア拡大をしている中で、オリンパスが最も取り組むべきこの裾野にエントリー機を投入したのは2004年11月のE-300(レンズキット実売価格99,800円、本体質量580g)になってからでした。
オリンパスの入門機E-300は2004年11月にこの二大巨頭のエントリー機に挟まれる時期に発売されました。しかも小型・軽量が売りなのにキヤノンのほうが軽いという…(>_<)
さらに2005年3月にはキヤノンEOS Kiss DIGITALの後継機「EOS Kiss DIGITAL N」(ボディ実売価格99,800円、本体質量485g*、画素数800万画素、月生産台数13万台)で投入。
* ペンタックスの銘機*istDsを抜いて本体質量で発売当時世界最軽量。
ペンタックスについても書きたいけど、内容がブレブレになる可能性があるので本記事では割愛します(涙)
ニコンもD70発売から1年後2005年4月に後継機「D70s」(ボディ実売価格99,800円、本体質量600g、画素数610万画素、月生産予定台数当初14万台)を投入し、旧型を両メーカー共に実質的には7万円前後で販売していました。
圧倒的に互換レンズを持っているユーザー数の多いキヤノン・ニコンはプロ機やプロユースの高額なレンズで粗利を稼ぎ、入門機は赤字とは言いませんがカツカツでも本体を売りまくり、ユーザーがレンズ交換の楽しさを覚えればレンズが売れて利益を確保できる…こういう戦い方を仕掛けました。
これ、何かに似ていないでしょうか?
そうキヤノンがコンシューマー市場でやっているインクジェットプリンタの本体を安く売って、インクで稼ぐマーケティングとそっくりなんです。(またはジレットなどの替え刃や電気シェイバーのビジネス)
まぁ、交換レンズは必須なものではないのでそんなポンポン売れないのですがユーザーが多いとメーカーはそれなりの収益になるんですよね。
レンズフォーマットを自社独自のものにすることで、ユーザーにとっては不便ですが、大量の既存ユーザーを活かした戦い方を大手はしました。(メーカーの言い分は自社センサーに”最適化”するためと言い張る)また資本力に物を言わせてキャッシュバックキャンペーンなる実質的な値下げも度々投入しました。(まぁオリンパスも追随したけど)
そしてもう一つ、十分に初心者向けとしながら響かなかった理由…それは独特なデザインです。(私個人的には好きなんですがね…)
なんと独自機構でレフを横から迂回させる構造(ポロプリズム)を取り入れ、ペンタプリズムの出っ張りがない独特な形に…。これ、今でこそミラーレス機が出てきて馴染みつつありますが、フィルムカメラの時代からのカメラのイメージと乖離する違和感を持ったユーザーも少なくなかったのではないでしょうか。
カメラ本体のデザインで良い写真が撮れるわけではないのですが、形って大事なんですよ。アップルがAir Pod(ワイヤレスイヤホン)の形を「うどんが耳から垂れている」と揶揄されても、多くのユーザーに認知してもらうために昔ながらのイヤホンの形にこだわっている理由と似ていますよね…
挑戦するというのはとても大切ですが、それによって既存のイメージや利用している様子が想像しづらいものは避けるというのも立派な戦略です。
奇抜ゆえにその性能や真価を世の中に認められなかった工業製品って無数にあるんです…(この後、2006年2月に発売のE-330で奇しくもこのポロプリズムはライブビューの先駆けを実現する布石となったわけですが)
またE-300の時にもオリンパスは大きな失敗をしました。キヤノン・ニコンを意識するあまりレンズキットを14-45(35㎜換算焦点距離28-90㎜)にしてしまいました。
標準レンズは単焦点(パンケーキレンズ)に割り切るべきだったのです…
PENの時にはやれたのに…フォーサーズの使命と目指しているのは何だったのでしょう。
そしてそれに気づくのはもっとずっと後になってから。
(余談)携帯電話とデジタルカメラ市場の地殻変動
少し寄り道をしたいと思います。この後で触れる2005年という時代背景についてです。
2000年にJ-Phone(後にボーダフォン、現ソフトバンク)からJ-SH04(SHはSHARPの略称)という機種が背面カメラ搭載をして、写メールという携帯電話で写真(11万画素)が撮れるようになってからわずか5年後です。
2005年当時の携帯電話はカメラ機能の充実やデコメール、テレビ電話、ワンセグなどの機能を各社が競っていました。
2005年は携帯電話市場では上位機にカメラ性能200万画素クラスが登場して、ようやくL判~ハガキ印刷くらいならなんとか印刷してもギザギザ感が極端には目立ちにくい感じに到達しました。
デジタル一眼レフは現在もその傾向がありますが、小型デジカメよりも画素数が少し多い傾向にあります。別に画素数は画質ではないんですけどね。
ちなみに2005年の店頭で販売されていた小型デジタルカメラは400~500万画素くらいが標準になりつつあった時代です。ほぼ1年で売れ筋のモデルが100万画素ずつ上がっていったイメージです。
小型デジタルカメラの価格もピンキリでした。2~3万円が中心でしたが、1~2万円台でも1年くらい前の性能で十分というユーザーが多かったです。携帯電話のカメラ機能と比べれば格段にきれいに撮れました。
多くのユーザーが写真を撮る楽しさに気づき始め、またフィルムの時代と異なって買う時のコストくらいで、何枚でもメモリーカードの容量が許す限り撮れる時代…今日のFacebookやインスタグラムなどに写真を載せる気持ちの走りの時代でした。もっときれいに写真が撮れるようになりたいという欲求が大きく花開いた時代です。
なお、殆どのユーザーは写真の構図や様々な設定の仕方を自ら学び、自分の表現したい写真を撮れるようになるという努力の方向へは殆ど進まず、簡単にきれいに撮れる機能を求めました。結果、2005年春にパナソニックが小型デジカメに光学式手振れ補正機能を搭載。
富士フイルムの高感度ISO対応のF10や後継機F11で誕生日のキャンドルショットやディズニーのナイトパレードがフラッシュなしで手持ちでも綺麗に撮れると話題になり、2005年暮れにはソニーが現在のデジタルカメラやスマートフォンで好評の暗所撮影に圧倒的に強い裏面照射型センサーのモデル(DSC-TX1とDSC-WX1)を発表しました。このモデルは前述の光学式手振れ補正と高感度の両方を組み合わせた当時オーバースペックなモデルでした。これらもカメラ市場においてはかなりエポックメイキングな出来事ですが…またいつか詳しく書くことができればと思います。
フォーサーズが本領発揮をし始めたのは2005年末。そして…
そしてこんな時代にオリンパスが800万画素のE-500(ボディ実売価格89,800円、質量435g)というエントリー機を投入したのが2005年11月でした。
やっと、やっと小型・軽量のフォーサーズの理念に基づいたモデル(しかもペンタ部分があるタイプ)が市場に投入されました。発売当時ボディは世界最軽量のデジタル一眼レフでした。
さて2005年の年末にかけて、キヤノン・ニコンは先ほどのEOS Kiss DIGITAL NやD70sが発売から半年以上経って価格がこなれてきていました。
レンズキットで10万円を切り、ポイント還元等も加味すればほぼ8万円後半くらい…
E-500は確かに(これまでのモデルやライバル機)軽い!また使いやすさという点でもよく工夫された機種でした。しかもE-1、E-300と脈々と受け継がれてきたダストリダクションがついています。まだ当時のキヤノン・ニコンにはこの機能は搭載されていませんでした。
よって入門機としては初心者にこそ手に取って比べてみれば分かる機種でした。ほどほど売れました。…が、ブランド力の前に散りました。
そしてこのE-500の販売終了をもってE-1、E-300と受け継がれてきた最初のオリンパス・デジタル一眼レフの時代が終わりました。
それはオリンパスへCCDセンサーを供給していたメーカーコダックの撤退です。
フォトイメージング界の巨人イーストマン・コダックの凋落と破綻
イーストマン・コダック(通称コダック)といえば、世界のフィルムメーカーの中で圧倒的なシェアを確立した巨人でした。
一説には1990年当時、世界のフィルム市場のシェア約60%近くをコダックが握っており、富士フイルムは15~18%ほど、コニカ(現コニカミノルタ)も5~7%ほどのシェアでした。
しかしコダックのシェアは90年代以降ひたすら下がり続け、2000年代に入ると富士フイルムに逆転をされてしまいます。
1975年にコダックによって世界で最初のデジタルカメラが作られ、1995年にカシオが液晶画面を搭載したデジタルカメラQV-10(20万画素、実売価格6万円)の民生化を実現すると、雪崩を打ったようにアナログからデジタルへのシフトが起きました。(このグラフを見るだけで経営者は震え上がる…)
1998年にオリンパスがCAMEDIA C-840Lで民生用小型デジカメとして初の100万画素超えを達成し、以降次々と日本の電機メーカー・カメラメーカーがデジタルカメラ市場へ本格参入を始めました。
この激動の時代に富士フイルムは写真フイルム事業だけでは生き残れないとして大改革を行い、自社の持てる強みを徹底的に洗い出し、フィルム研究(化学)の特許とノウハウの蓄積から化粧品、そして医薬品・医療機器への大転換を行う奇跡の改革を断行しました。
この構造転換は現在では世界中のビジネススクールで参考例として学ぶ希少な成功事例です。
他方、デジタルカメラを世に送り出した巨人コダックはというと写真・フィルムなどのフォトイメージング事業以外の収益の柱を生み出せず、市場の急激な縮小という波にあらがえず、2012年1月に破綻をしました。
圧倒的な巨人として君臨していたコダックが市場の縮小に抗えず、デジタル化という転換期に大きすぎて変化に対応できなかった…
いよいよ厳しいとなったのがまさに2006年。E-500にセンサー供給をしたまさに直後でした。そして2007年に米国でサブプライム・ショック、2008年にリーマン・ショックがそれを加速させたという面は否定できないのではないでしょうか。
”オリンパス・ブルー”と呼ばれた青の階調の豊かさ
E-1~E-500シリーズまではコダックがCCDセンサーの供給をしてくれていました。コダックCCDの特徴は晴れた日の青空などを撮影するとまるでPLフィルターを介したかのようなグラデーション豊かな空をノーフィルターで描写できる点にありました。カメラマニアの間では「コダック・クローム」と呼ばれる現象です。
この時代はオリンパスのロゴにも使われている背景色または文字色の濃い青にちなんで「オリンパスブルー」などと呼ばれることもあった独特なもので、これに憧れてオリンパスのデジタル一眼レフを買った人も多分少なくないでしょう。(私もその一人です)
これはフォーサーズのレンズ設計技術によって光をセンサーにまっすぐ届けることに加えて、センサーがしっかりと光を受け取ってくれる(フルフレーム)、かつ映像エンジンでその階調を再現してくれるという3重の技術が重なることで実現していました。(画質はレンズ×センサー×映像エンジンで構成されている)
フィルム時代からの技術や経験・蓄積を用いたコダックならではのセンサーづくり…しかしコダックの経営が傾き、センサー供給がままならず以降のモデルからは非搭載。そしてセンサー供給に名乗りを上げたのがフォーサーズ陣営の盟友:富士フイルムだったらよかったのになぁ…パナソニックでした(涙)
そしてここからオリンパス、フォーサーズの迷走が始まりました。
次回に続く?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?