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【Lv.02】私たちが生きている世界は一つではない?精神と魂の成長を促せるか⑫

先日、こんな投稿が反響を呼んでいると報じられなるほどと思い見ていました。

双子の赤ちゃんを持つ母親が掃除をしようと部屋のドアを閉めたところ、まるでホラー映画のように磨りガラスに手や顔をくっつけて泣く子どもたち。

「掃除をしようとしただけなのに…」

私はAbemaヒルズでこの投稿について観ていたのですが、コメンテーター(確か藤井靖先生)の方がこんな解説をしていました。

司会の方が「お母さんが隣の部屋に行っただけで、赤ちゃんは何故こんなに泣くのでしょう?」と尋ねると、心理学者のコメンテーターは「赤ん坊は今目の前で起きていることが全てだと感じるため、母親が目の前にいないことでこのままいなくなってしまうと感じて泣いているのではないか」と解説しました。


第一世界、第二世界、第三世界…

以前の記事で「デジタルとアナログ」の模倣性について書きましたが、
これを今回の下敷きにして人の現実の世界観*とアニメなどの架空の世界における世界観の関係を考えてみたいと思います。

*世界の認識・捉え方

詳しくはまた別な機会に記事を書きたいと思いますが、人の心の働きパーソナリティーの一つである自己同一性アイデンティティの裏側には、自分と他人は別人格であると区別する能力があります。

やや専門的な言葉で言えば「境界性」と呼んだりするのですが、いわゆる自分の領域と他人の領域を区別する能力です。


身体的または心理的な距離感で現すならパーソナルスペースですし、アニメ的な表現で言えば「絶対領域ATフィールド」(エヴァンゲリオン用語)でしょう。

近しい家族や恋人が傍にいても不快には感じず、むしろ心地よさを感じるパーソナルスペースですが、それほど親密ではない人にその空間に入り込まれると人は不快感を示します。

※一般的に男性は立ち位置から観て前方に、女性は円形にパーソナルスペースが広がっていると言われていますが、細かな説明は割愛。

しかしこのパーソナルスペースというのは既に触れたとおり、単なる物理的な距離感だけではなく、心理的な距離感も反映します。
物理的と心理的の混在しているこのパーソナルスペースという概念を発展させたのが本記事で扱う「領域性」という考え方です。

領域という考え方は大きく2つ、自分の領域と他者の領域と一般的には説明されます。

恋人や夫婦など親しい関係においてパーソナルスペースは重なり合い相互に影響を及ぼす範囲は拡大する

以前、noteで「メタバース」についてのオンラインイベントが開催された際にパネリストの一人として参加したバーチャル美少女ねむさんのTwitterによると男性と女性で、パーソナルスペースの広がり方が異なり、また統合失調症の方のパーソナルスペースが狭いという傾向にあるという投稿がありました。


つまり健常な相手にとっては適切な距離感と踏み込んで伝えた意図やメッセージが届かなかったり、距離感が妙に近かったりということによるコミュニケーション不全が起こる可能性が高い事が示唆されていると私は捉えているのですが、これは冒頭で触れた赤ん坊と母親の関係性や心身の発育・発達にも関わるとても大切な部分だと考えています。

「とある科学の超電磁砲(レールガン)」は魔術と科学の混在した世界
作中には「自分だけの現実(パーソナルリアリティ)」を用いて世界に干渉することで超能力を説明している


一方でここからは私見になりますが自分で自分の責任を持つ領域と、他者が責任を持つ領域自分と他者と共存する領域少なくとも3つあると考えています。

自分の世界を「第一世界first universe」、他者の世界を「第二世界second universe」、
第一世界に隣接し、第二世界に触れるために経由しなければ到達できない、自分と他者を隔てていて共に過ごす領域を「第三世界third universe」と便宜上呼びたいと思います。

この考え方は最近注目の「メタバース(Meta+Universe)」などに観られる仮想世界にアバターを介して入り込む考え方と親和性が高く、我々一人一人は第三世界*を共に生きながらそれぞれの第一世界を持っている存在とも言えます。

※世界は現実の社会だけでなく、CG等によって作られたこうした仮想世界、仮想現実や創作物の中の世界も含む。このためVRやゲーム・小説・映画・アニメなどの世界も一つの第三世界と定義している。


第一世界は自分だけの世界なので、自分のある意味で思い通りに出来ます。
近年流行りというか、やや食傷気味の異世界転生系のライトノベルやアニメ・マンガなどもある意味で「俺TUEEE」という第一世界の欲求を満たしたい現代人の心の投影と呼べるかもしれません(知らんけど)

しかし我々が共に生きる現実世界、第三世界は様々な他者(第二世界)が影響しあって、協調し合って絶妙なバランスで構築されています。



社会で生きていくというのは第一世界の影響力を第二世界や第三世界などのルールにうまく働きかけることによって仕事で収入を得たり、自分以外の他者との人間関係などを円滑にすることにより広範囲に影響を発揮することも出来ます。

自分の認識している第一世界と第二世界や第三世界に大きな隔たりがあると人はストレスや不快感を感じます。

これが適当に出来ない、つまり第二世界または第三世界によって第一世界が侵食されると強く感じると人は精神疾患など*を発症する危険性が高まります。

*他者を殺傷するなどして第一世界を守り、浸食しようとするものを排除しようとする場合も。
実際に浸食されたか、干渉されたかは相手に問題がある場合も少なくないが、受け手の問題である場合も少なくない。つまり過敏性な受け手もいるという両面が考えられる。いじめにおけるいじめられた側といじめた側の認識の違いに近い。

そして精神疾患を発症する人の一部の人たちが強いストレスを人間関係や社会生活において感じる場合、自分の第一世界が何らかの理由で極端に小さくなっているか、第二世界または第三世界から浸食されている、またはそう感じているなどのケースが考えられます。

第二、第三世界は第一世界の自分のルール・理屈・理論で動いていませんので第一世界に世界の方が合わせろというのはかなり傲慢な、子どもの我儘のような考え方と言えるかもしれません。

言い換えればそれがうまくできないと第三世界から収入を得たり、人間関係(友情や愛情・親愛)などを思う様に得られなかったり、精神性の病気に陥ったりします。


自分の経験からだけ学ぶ人の根底にある世界観の広がり

ここで冒頭の母親が観えなくて赤ん坊が泣くというシーンに戻りたいと思います。

"赤ん坊は今、目の前で起きていることが全てだと感じる"

この感覚は物心がついた人たちにとっては、赤ん坊は色々な事をまだ知らないから母親と切り離されたように感じるのだと説明します。

赤ん坊にとって母親は自分の身体の一部という感覚的に近く、母親の胎内にいる時から一体感を感じています。

この一体感は強力なもので、みなさんが明け方に目を覚ましたら自分の腕や足が喪失していたとしたらどう感じるでしょうか?

パニックになるような、ものすごい喪失感を感じるのではないでしょうか。

度々取り上げていますが井上雄彦『リアル』の高橋君

大きなケガや病気などでそうした切断を経験したことがなくても、身近で親しい人を亡くした場合、事故や災害、転校や引っ越し、失恋やケンカ、いじめなどをショックの大きさの差異こそあれ、途方もない絶望感に襲われる…これが赤ちゃんが母親がいないと感じた時の喪失感に近いと考えると「赤ちゃんはそんなことも分からない」ではなく、とてつもない絶望感と喪失感に晒されていると想像ができるでしょう。

しかし物心がつく頃には親が少し離れても、例えば今回のような隣の部屋にいるとか、少し離れた場所にいるけど少し後で会えることを理解するようになるとこんな風には泣いたりはしなくなります。

一度離れて、もう二度と会えないと思っていた母親と会えることを何度も経験すると離れてもまた会えるということを経験的に理解します。
そして生活の中で経験することや様々な人と出逢って経験をすることで、人と自分は違うことを「発見」します。
これを自我の芽生えと多くの人たちは呼んでいます。


また自分の家族と他の家族が異なる事などの分別も違うことを少しずつ経験して理解していきます。

友達の家で遊んだり、保育園や幼稚園などで色々な人と関わり、社会性を育みます。
お泊り保育や友達の家に泊まりに行くと更に普段は見えてこなかった他の家族が大きく異なる生活をしていることを経験し、理解します。

第一世界だけでなく、第二世界が全く同じではないことを認識します。
つまり自分と他人は異なる存在、同一ではないことを理解し、一つになる事を望む欲求に駆り立てられます。

(第二次性徴以降における性衝動や性交時における一体感は生殖行為であると同時に精神的に満たされなかった母子の分離を肉体と精神の両面で補おうとする代償行為の側面もある)

私たちの殆どは経験をして初めて、理解するという学習のプロセスを長い時間をかけて成長をしていきます。
学校などで学習する知識も、知っているが理解しているや身についた、生活や人生に活かせる段階とは大きく異なるし、そうしたステップアップのために予習・復習が大切であることは大人であれば多くの方が体感を持って理解していることの一つではないでしょうか。


子どもの成長段階で喩えるなら徒歩から自転車に一人で乗れるようになると行動範囲が劇的に広くなり、更に世界は広がります。
世界は最初から広い訳ではなく、本人に認識されていないと自分の知っている範囲だけが世界ですから、世界の広さを知ることはとても重要です。

高校生から社会人頃にバイク・自動車の免許を取得すると更にそれは加速的に広がり、また人間関係・交友関係も中高生の頃とは比べ物にならないほど広がります。

自分で目的地を決めて行きたい場所へ行くことができるようになります。
電車や飛行機を乗り継げば地球上の殆ど何処にでも行けることも徐々に理解できるようになります。

どんな人と関わる必要があるのか、どんな人を友人や知人、メンターやロールモデルにするのかもこの頃にその人格形成における最終段階として自分で選べるようになります。
職業選択の自由や居住の自由など成人すると得られる様々な経済活動も、こうした経験となりたい自分の姿を追求して行われる一つの選択と言えるでしょう。


社会人の実学と学習、婚活・恋愛市場における類似性への警鐘

人によって気づき・発見をするタイミングは様々ですが、自分の世界と他者の世界以外に、更に社会と呼ばれる世界(第三世界)があることに気づき、理解し、それを知覚できる段階になるとそれがどんな風な仕組みによってどう成り立っているのかに面白いほどの興味・関心を示します。

学校で散々長い時間をかけてやってきたはずの歴史や様々な教科の授業が、大人になってから再学習の機会を得ると驚異的な定着と発展を遂げることがあります。

普段、我々の周りに空気があることを特別意識しないように、社会という第三世界を認識することはこれまでの第一世界、第二世界を知覚した段階と大きく、決定的に異なります。

この段階に到達すると、人は自分が経験をしたことだけを糧に、第三世界を生きていくことがかなり難しいことにようやく気づきます。

自分が好きだから一緒にいるではなく、自分を成長させるために痛い話も嫌われる覚悟を持って言ってくれる人がどれだけありがたい存在かを思い知ります。
子どもであればそれは親や保護者、教師などの役割ですが、成人をした人に対してあれこれ言ってくれる人は殆どいません。
そして誰もあなたにそれを伝えても無駄だと知っていますので、誰も教えてもくれません。

「覆水盆に返らず」

時計の針は決して戻りません。

好き嫌いをせずバランスよく野菜もお肉も食べなきゃダメですよと親が言ったのに「うるさい!私はお肉だけ食べたいんだ」という子どもがいたらどうでしょうか?

我が子のために親は野菜を食べてもらうための努力をするでしょう。
口まで運んであげるかもしれません。甘く煮たり焼いたり、味付けや細切れにして食べやすく工夫するかもしれません。ジュースにしたりするかもしれません。

我儘なままに大人になった人に、他人が上げ膳下げ膳をしてくれるでしょうか?

一人の自立した人間として扱われると言うのは乳幼児のような人格の確立がされていない状態ではないのですから、自分と自分の大切な人の人生なのですから、いい大人なのですから食べやすくしてくれ、野菜を何故食べなければいけないのか説明して、説得して、理解できるようにあなたに無償で尽くす義理が他人にあるでしょうか。

第三世界の他、第四、第五…と世界の領域は更に外へ拡張されていく

また第一世界と第二世界が近づき、結びつく…いわゆる親しい人、親密な距離感である恋人同士の関係などは惑星同士が引力によって引き合う様に、より強い結びつきを持って関わる結婚などを経るとよりお互いの世界が影響し合い次の段階へ意識のシフトチェンジ(Lv0有料記事部分)が起こります。

身体的・経済的一体感を育む過程によって共有される新しい世界(夫婦関係という新たな第三世界)に新しい第二世界(赤ん坊個人の世界である第一世界)を生み出すという夫婦もいますし、婚姻をしても独身二人の共同生活のような生活を過ごす夫婦もいます。

一昔前の恋愛や結婚は親同士などが適齢期の男女を見合わせ、そして家同士の結びつきという意味での婚姻が主流でした。
しかし戦後少し経った頃には自由恋愛の傾向が高まり、婚姻はいわゆる好き同士の結婚をすることも増えてきました。
その一方で結婚は恋愛の延長ではなく生活という現実であることから恋愛結婚に懐疑的な意見も根強くあります。


婚姻をした人の多くは友人からの紹介や職場・学校などで出逢ったなど実生活の人間関係に根差したものであったものから、近年ではマッチングアプリなどで出逢う人の割合が急速に増え、恋人同士の類似性がことさら強調される傾向も観られます。

人の遺伝子が男性と女性から半々ずつ持ち寄ることで変化へ適応するための多様性を求めるように、趣味や嗜好に対しての理解があることは歓迎すべきですが思考や思想、人生観などが似ていると変化に対しての判断や理解が弱くなりやすい、自分の考え方と近いものしか受け入れることができない排他的傾向が強くなることで社会の変化への適用力が弱くなる点は十分に留意されるべき点ではないでしょうか。


人生と結婚と経済~責任は背負わされるではなく背負うもの

人生はまだ経験をしたことがない無数の出来事に向かって、時間が決して戻ることがなく進んでいきます。

また経済的な問題は人が資本主義経済で暮らしている以上は生涯ついて回る問題です。

まだ経験をしたことがない、他の他者の経験や声から社会的課題として提示された社会保障で補いきれない自助による備えが民間保険会社の提供する保障になります。

何故社会保障で一律に保障しないのかと言えば、暮らしや人生に掲げているもの、求めるものというのは一人一人異なるからです。


一人の人格(第一世界)として成人年齢に到達したことを認めている以上、実際の精神性が成人のそれに到達しているかどうかは兎も角として、第二世界(他者)や第三世界(社会)が第一世界の価値観にあれこれ言うのは本来的にはお門違いです。

ここで私の仕事の一つである、保険募集の事例を少し紹介したいと思います。
自分の人生(第一世界)や自分の大切な人(第二世界)は自分が責任を持って守りましょうと呼びかけるのは保険募集の担当者を除いてあり得ません。もしいたとすればかなりのお節介さんです。

保険募集人は自分自身の経験だけでなく、自身の顧客や同僚や先輩や後輩や保険会社から聴かされる様々な人の人生を知っています。
そして殆どの顧客は知りません。

こんなことをおっしゃる新婚さんが偶にいたりします。

「私の周りにそんな人は見たことも聞いたこともないし、起こるか起こらないか分からないリスクにお金を支払いたくない」

結婚に対する価値観は人それぞれ、夫婦それぞれです。
一方で結婚(婚姻)とは何でしょうか?

人は生まれる家は選べませんが、自らが選んだ人と家族になる事はできます。

夫婦として共に同じ世界を生きていく勇気と責任は、誰かに背負わされるものでは決してなく、自ら未来を切り拓いていくために自らの意思で本質的には主体的(能動的)に背負うものです。



それは自分で結婚という選択を自らの責任において行い、配偶者と共に歩む人生を背負ったということではないでしょうか。

キリスト教の牧師ではありませんが、

「病める時も健やかな時も…」

これはお決まりの定型文や形式だけの物ではなく、相手と相手の家族や親族・友人、自分の親や兄弟姉妹、上司・先輩・後輩、友人らの前で誓うのではなく、自らの魂(精神、第一世界)に誓う言葉です。


私の個人的な経験から言えば結婚式をしていない夫婦は離婚率が極めて高く、結婚式をした夫婦は離婚率が低い傾向にあります。(結婚した人たちの3割は離婚する時代ですが…)

これは結婚式を挙げられるだけの経済力があることが、その後の夫婦生活においての充足度への寄与という面も考えられますが、同時にお世話になった方々(親族や上司・後輩ら)への宣言をすることで主に夫としての責任の自覚を促している側面もあるのではないでしょうか。

結婚は経済力だけの話ではありません。二人の愛に基づきます。
しかしどんなに仲の良いカップルが夫婦になったとしても、経済的結びつきでもある婚姻において現実問題であるお金のトラブルや価値観の違いは夫婦関係の破綻理由の大きなウェイトを占めます。

人生の喜びや楽しみだけを求めて、悲しみや苦しみだけは放り投げ配偶者に押し付けることはフェアではありません。それはコインの表と裏の関係です。
夫婦・婚姻関係とはチームプレイで、思い描く未来にたどり着くためにどちらかが楽をしてどちらかが馬車馬のように働く場合、それは役割分担ではなく依存と呼びます。

完全に精神的にも経済的にも自立している人など世の中にいないとしても、極度に誰か身近な人に依存や重荷を背負わされていることに気づける人、このままではいけないと感じられる人はまだまともです。

人は自分で経験をしたことがないものも、共有して分かち合うことが出来るから他の人類(ネアンデルタール人など旧人類)と異なって進歩して生き残ることが出来ました。

そして人類の歴史は進歩の歩みを止めていません。

少しずつ、日頃の変化では目に見えないほどの微細な変化を積み重ねながら、他者の経験を糧に時間を進めています。

変化に適応できない人は誰かに依存するか、引きずり下ろされ、やがて淘汰されます。
一人の人生の経験と、世の中の大勢の人の経験のどちらが第三世界を生きていくためにより実情を示しているでしょうか。


より良い社会のために献身する生命保険エージェントという存在

福沢諭吉翁は「生命保険は人類の叡智の結晶」と日本に生命保険を初めて紹介しました。

生命保険は確かに経済的な保障を提供しています。
人類が発明してきた様々なものの中で人の精神、魂に安らぎと大切な人をいざという時に守れるという責任を肩代わりし、そして遺された人たちの経済的な側面だけでなく、心や魂までもを救済するものが他にどれくらいあるでしょうか。
また加入と同時に契約者に家族への責任を果たせる誇りをもたらしてくれるものがどれだけあるでしょうか。


眼に見えない加入者同士の助け合いの輪、大切な人にはそんな思いなどして欲しくないと願ってお金を少しずつ出し合うことで得られる一人では決して得られない相互扶助という考え方。

アメリカ大統領の中で、今でも多くの国民に慕われている人気の大統領の一人、ジョン・F・ケネディは生命保険募集人エージェントをこう表現しました。

I can think of no more effective agent in advancing our freedom to live as we choose than the insurance sales person.
This person knows the economic and human pulse of the country as few people may, for they walk all streets of American life and they sit down and talk with the youth and mature and the aged.
They know our wants.
They help in times of need.
They build, for they help others to build.
They insure the future.
They are respected, and they are our friends.
- John F. Kennedy.

邦訳:
生命保険のエージェントほど自由を求め、
自分の意志で生きている人を知らない。
彼らは、アメリカの多くの街を歩き、
若い人から年老いた人、
あらゆる人と話をすることによって、
国の経済と人の鼓動を知りつくしている。
彼らは人々が何を求めているのかを知っている。
彼らは自分の時間が許す限り、人々を助けようとする。
彼らは他の人々が築き上げるのを助けることによって、
自らを築くのである。
彼らは未来を保障する。
彼らは尊敬され、そして彼らは友人である。
-ジョン・F・ケネディ

学校という教えてもらう場を卒業した人は自分の人生において、学ぶ事を止めず、眼には見えない人間の精神と魂の成長を目指す事がこれからの時代にはより求められていないでしょうか。

これをスピリチュアルとか、オカルトとカテゴリーで分類するのではなく、自己啓発的に自分の苦手なこと、良く分からないことを学ぶ姿勢に変換して自分の人生の中に取り入れていくことが大切だと個人的には考えています。


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