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ⅲスティーブ・ジョブズの誕生からアップル復活まで⑧
マンガ「1970年代のアメリカと二人のスティーブ」
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前回の記事>
マガジン>
裸足のエンジニア、ATARI時代
1960年代に入ってトランジスターやLSIなど半導体の量産が始まったこの時代、ビデオゲームで世界初の商用化に成功したのがATARI社のPONG(ポン)という電子卓球ゲーム機でした。
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1974年、ジョブズは求人広告を見てATARI社に面接で訪れますが、裸足でヨレヨレの服装、長髪で髭もじゃのヒッピー風の格好。
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あまりの風体に警備員に止められ、受付では門前払いをされてしまいます。
しかしそれでも雇ってくれるまで帰らないと言い張り、ATARI社の社員番号1番(副社長)だった電子工学エンジニア、アラン・アルコーン(1948-)を引きずり出します。
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アルコーン(下記画像)はPONGの設計を行ったATARI社の右腕ともいえるエンジニアでした。
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更にはビデオゲームの父、ATARI社の創業社長のノーラン・ブッシュネル(1943-)まで面接に引きずり出して交渉。
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「で、俺雇ってもらえるんですよね?雇ってもらえるまで帰りませんけど」
アルコーンとブッシュネルはジョブズの身なりよりも、その自信にあふれる姿にコイツは何かあると感じたのかもしれません。
ジョブズは結局、二人によってATARIの技術作業員として雇われます。
米国における最低賃金は当時、非農業従事者は約2ドル。しかしジョブズのATARI社での賃金は交渉によってテクニシャン(下級エンジニアの通称)として扱われ時給5ドル*だったとされています。
*1974年当時のドル/円為替レートは約280円。単純計算だと時給換算1,400円相当ですが、消費者物価指数(日本)を加味すると現在価値で時給2,800~3,000円相当にあたると考えられる。
しかしいくら頭が良くて仕事はできても、周囲に悪態を吐きながら、また自分は菜食主義だから臭くないと言い放ち風呂にも入らない、異臭を放つ彼に対して同僚たちの風当たりは強く、日勤から夜勤に変えられるなどしますが本人はお構いなし。
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「余計な雑音がなくて仕事にむしろ集中できる」と喜んだと言います。
周囲から変人として扱われながらも、その考え方や提案は上級社員(幹部)や経営者たちを度々驚かせます。
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僅か1年ほどしか働いていない頃にもジョブズは、大学時代から傾倒していたスピリチュアルを極めたくて聖地であるインドへ旅がしたいと上司のアルコーンに申し出ました。
そして更に「休暇のついでに旅費も出してほしい」と交渉。
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呆れたアルコーンでしたが、結局は憎めないジョブズに対して助け舟を出してしまいます。
ATARI社は当時、ヨーロッパに大量に輸出したPONGの基盤に致命的な不具合が発覚していました。最初に送り込んだエンジニアではまるで解決ができずにそのうち倉庫に姿を現すことなく失踪しており、卸先はカンカンでした。
そこで基盤が保管されているドイツ・ミュンヘンまでの往復の旅費とトラブル解決までの賃金をジョブズに支払うことを約束。
ジョブズはミュンヘンへ飛び、基盤の修理を早々に終える*とアルコーンに報告をしたのち、密約通りバックレてドイツ・イタリア・スイスなどを放浪の後にインドを目指します。
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*口だけでなく、ATARIの技術者として必要十分な能力を持っていたことを物語るエピソード。但し、神がかり的なエンジニアリング技術を持つスティーブ・ウォズニアックと比べられてしまうと見劣りした評価がされてしまいがち。
カリスマを形作った人たちと精神的支柱、禅僧:弘文との出逢い
インドを訪れたジョブズは西洋文化の合理主義と大きく異なる、東洋の直感に大きな衝撃を受けます。
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そして直感を磨くために禅や瞑想などのスピリチュアルなどをより深く探求するようになります。
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そして禅の師であり、自身の生涯における精神的支柱(メンター)となる曹洞宗の乙川弘文(1938-2002)と出逢います。
複雑な生い立ちや後の失意、絶望的な状態からジョブズが何度も立ち上がり、そして復活を遂げ、数々のイノベーションを起こす際に彼を支えたのは家族と仲間とファン(顧客)。そして弘文の存在が欠かせないとさえ言えます。
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また帰国後にはATARIのエンジニアとして復職。ATARIのCEOノーラン・ブッシュネルは一人プレイ用のPONGの開発をジョブズに託します。
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その頃、hpで正社員のエンジニアとして働き始めていたスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)はその才能に一層の磨きをかけており、ジョブズが持ちかけたATARIのゲーム機の部品を減らしたコスト削減分のボーナスを分け合う副業をしたりなど悪友を続けていました。
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通常は複数のエンジニアが数か月がかりで取り組む作業をウォズの天才的エンジニアリング技術によってたった4日で達成して、『ブレイクアウト』(ブロック崩し)を完成させます。
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しかしジョブズは会社から受け取ったボーナスはこの金額だったとウォズに嘘の金額を伝えて折半し、ウォズ本人が「ジョブズはあの頃、お金が必要だったんじゃないかな。僕は気にしていないよ」と温和な対応でその友情を保ちました。
東洋で感じた直感の重要性やスピリチュアルの形のない発想と、西洋の合理性を融合させる。
ジョブズにとってウォズは掛け替えのない友人であり、自分の中にある漠然としたものを実現するためのまさに右腕でした。
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またATARIのノーラン・ブッシュネルCEOからは経営者としての断固たる姿勢、仕事を前に進める力を学びます。
スティーブ・ジョブズ。
天才、奇人、変人、カリスマ、イノベーター、破壊者…彼を形容した言葉は無数にありますが、それは彼が生まれたカリフォルニアという風土や人々のおおらかさ、多くの人との関わりや1960年代・70年代の独特なカルチャーと混沌とした時代の中から少しずつ醸成されるように育まれていったのかもしれません。
1976年Apple Computer創業とAPPLEⅠ登場
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ジョブズものめり込んだホールアースカタログを発行するポートラ財団は、技術系の人たち(エンジニア)の間でそのカタログを普及させることに成功します。
エンジニアたちはそのうち一人一品ずつ持ち寄り、お互いの持っている技術情報を交換する小さなホームパーティーを定期的に催すようになるまでに発展していました。
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1975年3月5日、若干26歳のウォズはhpの同僚に誘われてこのコンピュータ愛好家の集まるホームパーティーに参加した際、MITS社が前年に発売したAltair8800(アルテア8800:組み立て済価格498ドル、ディスプレイ別売)の現物に触れ、そしてその仕様書・解説書を手にします。
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そして彼はその天才的な頭脳と独創的な発想で、パーソナルコンピュータの前身となるスタンドアローン(一台単独で入力から出力まで行える)のコンピュータAPPLEⅠの開発に独力で着手します。
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下記画像は1970年代のコンピュータですが、それまでのコンピュータはプログラムを打ち込む入力端末(手前)と、そのデータを読み込み処理する出力端末(奥の機械)がバラバラで場所も取る専門的な用途以外に使い道の想像できない代物でまだ国防総省(ペンタゴン)や大企業の一部でしか導入もされていない代物でした。
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しかもコンピュータとは大人数の操作できる人たちが共有して利用するものという位置づけでした。
だから操作の仕方やできる事というのは実に閉鎖的な市場だったのです。
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パーティーでAltair8800に触れてから僅か4か月と経たない同年6月29日、ウォズはこのAPPLEⅠの試作機を完成させ、ジョブズを家に呼び出します。
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そして、この試作機の完成を観たジョブズはコンピュータの未来を捉えます。
ジョブズは必要な部品(DRAMなど)を得意の交渉で格安で手に入れ、それを誰もがすぐに使えるように改良します。
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同年7月にカルフォルニア州パロアルトで開催されたコンピュータ愛好家のイベント”ホームブリュー・コンピュータ・クラブ”でAPPLE Iはお披露目となり、多くの愛好家からの注目を集めました。
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ジョブズが当時勤めていたATARIで仕様書(説明書など)作成担当だったロナルド・ウェイン****を巻き込みウォズと三名のパートナーシップ契約で1976年4月(諸説あり)アップルコンピュータを設立。
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ロナルド・ウェインは設立時に株式10%を保有。初期のアップルコンピュータのロゴ(ニュートンとリンゴの木)を作成。
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しかしジョブズは会社を立ち上げると方々から積極的に融資を受け、若者二人とシニア(年配者)のウェインでは万が一の債務や訴訟が起きた際に自身に火の粉が降りかかるのではと恐れ、僅か12日でパートナーシップを解除して退職。
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一方、強気で交渉上手なジョブズがAPPLE Iを様々なお店に営業を仕掛け、約200台を受注。その一方で友人や親からお金を借り部品を調達。
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納品可能な台数分だけコンピュータショップなど注文先に届け、資金を少しずつ回収しながらギリギリの資金繰りの中で、ジョブズは自身の唯一の足だったフォルクスワーゲンのバンまでも1,500ドルで売却(売却後すぐに故障してトラブルになる)。
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ウォズもまた自身の宝物だったhp製の世界初のプログラム可能ポケット電卓HP65(発売当時795ドル)を500ドルで売却するなど私財を投じて会社の設立・運転資金と部品調達を行います。
※バンを手放してしまったので自分たちで納品するお店まで運んでいた。
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そしてジョブズは大学時代の友人や妹たちにも手伝ってもらい家族総出でガレージで納品当日まで組み立て・梱包に追われて、外装も殆どない基盤むき出しのこのAPPLEⅠを完成品として最終的に170台の販売をしたとされています。
*展示会で見せられたものと異なる、ケースにさえ入っていない基盤だけの製品を完成品と言われた納品先は呆気に取られたとされています。
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下記の住居はスティーブ・ジョブズが幼少期に過ごした生家。このガレージでAPPLEⅠを製造出荷。現在はカリフォルニア州ロス・アルトス市によって歴史的建造物に指定されています。
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ホームコンピュータの夜明け~Altair8800とAPPLEⅠの決定的な違い
APPLEⅠは基盤剥き出しのキットでした。しかも個人がほぼ手作業で造っている製品にも関わらず多くの買い手がついた(購入後のサポートは当時ウォズ一人が窓口)のには、ジョブズの巧みな営業があっただけではなく商業的な理由がありました。
Altair8800(Intel CPU2MHz,メモリー256byte)は発売当初は組み立てキットで397ドル(約12万円)、組み立て済みで498ドル(約15万円)でしたが、安さに釣られて組み立てキットを購入した多くのユーザーは、決して電子工作に素養のある人たちばかりではなくはんだ付けなどして完成させる事が殆どできずメーカーにはクレームが殺到。
https://appletechlab.jp/blog-entry-272.html
また組み立て済み品はメーカー側にも作れる人が圧倒的に少なかったために受注に対して十分な量産体制を整える事ができず、納期は大幅な遅延。
しかも完成品であっても慢性的に何らかの不具合を抱えたまま納品されており、部品の不具合なのか自身の組み立てが原因なのかなど一般の消費者にとっては判断がつかないもの。
煩雑な作業を飛ばして実務的に使い始めたい多くのユーザーからもクレームの嵐となり対応に追われ、最初の3週間で4,000台もの注文が殺到したにも関わらず、最終的に半分しか納品出来ず価格も組み立てキット439ドル(13.2万円)と組み立て済み621ドル(約18.7万円)に値上げされました。
価格が乱高下した原因にはまだ量産体制が十分に確立されていない不安定な電子部品マイクロプロセッサやLSIの実売価格が多くの購入希望者が殺到した事で不足となったことも一因だったと考えられます。
こうした製造現場における部品調達の課題、組み立て面での技術的問題、企業としてのキャパシティを超える受注に対するサポート体制の構築が出来なかった点など期待が高かっただけにユーザーからの不満や失望も大きかったようです。
またAltair8800は操作性においても個人が利用するには大きな課題がありました。
プログラムを入力するには複数並ぶパイロットランプの明滅を確認しながらスイッチのオンオフを一つずつ入力していく必要がありました。
とても訓練を受けていない一般人が使えるものではなく、結局は拡張スロットなどでキーボードを備え付けてプログラムを入力するには更に追加費用を負担する必要もありました。
他方、二人が売り出したAPPLEⅠ(CPU1MHz、メモリー4KB)はむき出しの基盤だけとは言え、キーボードと家庭用のテレビを接続するだけで使い始めることが可能な完成品のみの提供でした。
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またわずか75ドル追加するとカセットテープインターフェイス(フロッピーディスク*の前身…*CD/DVD/BDやメモリーカードなど記録媒体の前身)を簡単に接続でき、カセットテープ**を入れて再生するだけでプログラムを走らせる事ができるというものでした。
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CPUの処理能力などでは大きく見劣りするのに、実用性と操作性において遥かに先進的な設計がされていたAPPLEⅠはコンピュータ同好家たちから高く評価されたのでした。
ジョブズとウォズはこのAPPLEⅠの販売で得た資金(約8,000ドル≒当時の為替レートで円に換算した場合、約240万円相当。物価を加味すると330万円相当)と手応えをすぐに次の製品化に再投資。
後継機でありコンピュータ業界の伝説となるAPPLEⅡの開発に着手します。
(ここまでハード、ソフトウェア共にウォズによるほぼ独力での開発。このため彼の名前から”ウォズの魔法使い”と呼ばれる所以となる。)
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しかし一見、順調そうだったAPPLEⅠの販売は営業時や他のクラブでのお披露目で、外装がケースに入っていないというだけで何度も断られ悔しい思いもしました。
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そこでAPPLEⅡはこのままではいけないと、打開策を模索します。
続き>