
五・一五事件
1941年に始まった大東亜戦争に至る日本国内では、様々な要因が重なり、戦争へと向かっていったと思います。
そのなかでも、私が大きな原因の一つだと思っているのがシビリアン・コントロールを失ってしまった事だと考察しています。
今回は、その中で大きな出来事だった五一五事件を記事にします。
次回、二・二六事件を記事にしようと思いますので、よければフォロー、いいねお願いします。
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五一五事件とは何か
五一五事件(ごいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で発生した、軍部の政治的影響力を強化し、国益を最優先とする政策を推進する国家主義的な若手将校たちによるクーデター未遂事件です。
この事件は昭和初期の日本における政治的、社会的な不安定さを象徴する出来事として知られています。
若手の海軍士官を中心としたグループが、当時の首相である犬養毅を暗殺したことで、日本の政党政治が終焉を迎えました。
この事件により、軍部がシビリアン・コントロール(文民統制)を失い、政治への介入が本格化する契機となりました。
五一五事件はその後の日本の政治的転換点となり、軍部が国家運営の中心に立つ時代の始まりを告げました。
この事件の影響は、後の戦時体制へと繋がる歴史的な流れを生み出す大きな要因となりました。
この暴力的な手段が、当時の日本の社会と政治構造に与えた衝撃は計り知れませんでした。
事件後、軍部は政策決定の場で大きな影響力を持つようになり、内閣人事や外交政策にも介入を強めました。
また、日清日露戦争の経験から、一概に良いイメージばかりではない国民までもが軍部の主張に対して一定の支持を示し、これが戦時体制へと進む加速要因となりました。
こうした流れの中で、軍部の独裁的な性質がますます強調され、政党政治の弱体化が顕著となりました。
背景
経済的な混乱
昭和初期、日本は1929年に始まった世界恐慌の影響を受け、深刻な経済不況に見舞われていました。
この不況は、日本経済の輸出依存体質を直撃し、輸出品であった絹製品や生糸の需要が急激に減少しました。
その結果、日本の輸出総額は大幅に減少し、農村部での生産者は収入源を失いました。
特に生糸業に従事する農家では、生糸価格が半減したことで生活が困窮し、多くの農家が借金を抱える状況に陥りました。
さらに、輸出産業に関連する工場や職人の雇用も激減し、都市部では失業者が急増しました。このような輸出不振が日本全体の経済に連鎖的な影響を及ぼしました。
その結果、農村部では米価の下落と重なり、多くの農家が深刻な貧困に陥りました。
一方、都市部では工業生産の縮小により失業率が急上昇し、社会的不安が広がりました。
こうした経済状況が、国家主義的な思想の台頭を後押しする要因となりました。
失業者が増加し、農村部では貧困が深刻化していました。
このような状況は、社会的な不満を高め、国家主義的な思想が広がる土壌となりました。また、この経済的な混乱は都市部にも影響を及ぼし、労働争議や社会運動が活発化する一方で、政府の対応能力が限界を迎えていました。
経済的不安定が続く中、多くの国民は現状を打破する強い指導者を求めるようになりました。
こうした経済的な苦境が、社会的な不満を増幅させ、軍部の活動を正当化する基盤を作り上げたのです。
政治的不安定
当時の日本の政治は、政党政治が中心でしたが、その腐敗や無力さに対する批判が高まっていました。特に政党間の権力争いが激化し、国民の信頼を失う要因となっていました。
一部の軍人や国民は、強力なリーダーシップを求めるようになり、軍部の政治介入が徐々に正当化されるようになりました。
さらに、国際的な状況も日本の政治的不安定を助長しました。
満州事変が勃発し、それに対する国際連盟からの厳しい批判が高まる中、外交方針を巡る意見対立が国内で深刻化しました。
この結果、軍部が国益を守る唯一の力として台頭する構図が形成されました。国際社会で孤立を深めつつあった日本は、国内で国粋主義的な勢力の影響を強く受け、軍事的な行動をさらにエスカレートさせる道を歩みました。
青年将校の不満
若手の軍人たちは、自らの職務の中で目にする社会の問題や政治の腐敗に強い不満を抱いていました。彼らは、「昭和維新」を掲げ、軍部主導で日本を改革しようとする思想を共有していました。軍事訓練の中で培われた団結心や使命感が、彼らを過激な行動へと駆り立てました。
彼らが計画や打ち合わせを行っていたのは、主に軍の施設や私的な集会所でした。
海軍士官たちは秘密裏に接触を重ね、同士との信頼関係を深めながら計画を練っていきました。また、一部の会合は当時の右翼団体や同調する民間人の協力を得て行われ、資金や情報の提供を受ける場ともなりました。これらの場では、国の未来に対する熱い議論が交わされ、具体的な行動計画が策定されていきました。
五一五事件は、こうした青年将校たちの行動の一環として発生しました。
青年将校たちは、腐敗した政党政治や経済的不均衡を打破し、日本を再生させるという理想を掲げていました。しかし、その手段として暴力的なクーデターを選択したことが、日本全体に深刻な影響を及ぼす結果となったのです。
事件の概要
1932年5月15日、海軍士官を中心とする青年将校らが、当時の首相公邸を襲撃し、当時の首相であった犬養毅を射殺しました。
この襲撃には、陸軍の青年将校や民間の右翼団体も関与しており、複数の場所で同時多発的に襲撃が行われました。
実際には、首相公邸以外に警視庁、政友会本部、さらには日本銀行などの重要施設も攻撃対象となり、一部では物理的な被害が発生しました。
これらの行動は社会に大きな混乱を引き起こし、政府の対応能力への疑問を投げかけました。
襲撃の目的は、「昭和維新」を実現し、腐敗した政党政治を打破することにありましたが、その手段として暴力を選んだ結果、社会に大きな衝撃を与えました。
犬養首相の暗殺は、日本の政党政治の終焉を象徴する出来事とされます。ここでの『政党政治の終焉』とは、政党が主導する民主的な政治体制が崩れ、軍部が政策決定の中心的役割を担う体制への転換を意味します。
以後、政党は形式的に存続しましたが、実質的な権力は軍部に移行し、議会政治は形骸化していきました。彼が暗殺される際、「話せばわかる」と語ったとされる言葉は、未だに日本史の象徴的なフレーズとして知られています。
この事件は、当時の政府や国民に対して強烈なショックを与え、以後の日本の政治における軍部の優位性を確立する契機となりました。
事件の計画と実行には、当時の社会的不満が反映されており、それが暴力的な形で爆発したのです。
事件後の影響
政党政治の崩壊
五一五事件後、軍部の政治への影響力が大幅に強化されました。これにより、日本は軍国主義へと突き進む道を歩み始め、政党政治は実質的に機能を失いました。
これまでの政党政治が抱えていた問題点が解決されることなく、軍部の独走を許す結果となりました。
政党政治の崩壊は、日本の民主主義に深刻な影響を及ぼしました。政治家の発言力が低下し、軍部が政策決定において主導権を握る構造が形成されました。この結果、日本は戦時体制への移行を加速させました。
軍部の勢力拡大
事件に参加した青年将校らは、裁判で比較的軽い刑罰を受けました。例えば、主犯格の将校たちは数年から10年程度の懲役刑に処され、一部は服役中に恩赦を受けて釈放されました。この対応は、当時の軍部への社会的支持の拡大を助長する結果となりました。
恩赦が行われた背景には、軍部が掲げる「腐敗政治の打破」や「国益優先」といったスローガンが国民に一定の支持を得ていたことがありました。
このことは、社会全体に対して軍部の影響力がいかに強いかを示し、以後の二・二六事件など、さらなるクーデター未遂事件へと繋がっていきました。また、軍部の主導権を認める風潮が強まり、文民統制が完全に失われる状況が加速しました。
さらに、軍部は国家政策の主要な決定者となり、外交や経済政策にも直接介入するようになりました。
この軍部の台頭が、日本を国際的な孤立へと追い込み、戦争への道を進ませる要因となったのです。
国民感情の変化
事件後、多くの国民が青年将校らの行動に同情的であったとされています。
特に、彼らが掲げた理想主義的なスローガンや、「腐敗政治の打破」という訴えは、多くの市民に支持されました。
さらに、日清・日露戦争後の日本国内では軍属に対するイメージが必ずしも良いとは言えませんでしたが、1930年代の経済的・社会的混乱や政党政治への不信感が広がる中で、軍部が「昭和維新」や「国益を最優先とする改革」といったスローガンを掲げたことが希望として受け止められた可能性があります。
このような背景が、当時の軍部の行動を正当化する土壌となり、支持が広がる要因となりました。この同情心は、社会全体が軍部主導の政治に傾き始める土壌を整え、戦時体制への移行を加速させました。
国民の間では、「理想のための犠牲」という考え方が広まり、軍部による暴力的な手段が一定の支持を得る状況が生まれました。
この考え方は、当時の新聞やラジオといったメディアによって広められました。特に軍部に同調的な報道が多く、軍部の行動が『国民の利益を守るための正義』として描かれることがありました。
また、学校教育や地域の集会を通じて、国家への忠誠や犠牲の美徳が強調され、この風潮が広まる一因となりました。このような社会の動きが、軍部のさらなる行動を助長する結果となりました。
現代への教訓
五一五事件は、経済的不安定や政治的腐敗が国家主義的な行動を引き起こし、民主主義が脅かされる危険性を示しています。
現代においても、政治の透明性や社会の安定を保つことがいかに重要であるかを考えさせられる事件です。
また、軍部や一部の勢力が力を持ちすぎることで、民主的な統制が失われるリスクについても警鐘を鳴らす出来事です。
特に、リーダーシップの欠如や腐敗が続く状況下で、急進的な思想や行動が正当化される可能性があることを忘れてはなりません。
五一五事件の歴史を振り返ることは、現代社会においても権力の集中や透明性の欠如がいかに危険であるかを学ぶ機会となります。
持続可能な民主主義を守るためには、権力の分散、情報の公開、そして市民の積極的な参加が不可欠です。私たちはこの教訓を未来に生かす責任があります。
ある意味、現在の日本は似ている部分があるのではないでしょうか?
明確な軍属は存在しませんが、SNSなどで国民感情が一方向に急進する様は、まるで当時の日本のようです。
ではまた。