椎乃味醂『デュレエ』所感・覚書
初音ミクは、「非実在」である。
「電子の歌姫」という代名詞は、その点において彼女を象徴している。彼女は0と1の連続でしかない。
であるにもかかわらず、我々は彼女に「実在感」を感じてしまう。我々は明確に、彼女に触れているし、彼女を使って曲を書けるし、限りなく「実在」に漸近した存在である。しかし彼女は「非実在」である。
我々は我々の意思を持って彼女に触れて、彼女を操作しているのは明確であるのに、彼女が非実在であるのも同様に明確である。
「実在と非実在のゆらぎ」は、2000年以降のデジタルコンテンツの重要なファクターである。ボーカロイド、2.5次元ミュージカル、VTuberなど。インターネットが無際限に現実へと拡張をするにつれ、我々は我々の手で、インターネットに直接介入できるようになった。逆に、インターネットは、我々の生活に介入してきている。もはや電子とか、バーチャルとか、実体とか、現実とか、夢とか、朝とか、ほとんど意味をなさない。我々に境界は無い。というより、全てが境界になってしまった、ということである。
我々は非実在のはずの初音ミクを、ほとんど実在として扱うことが出来る。逆に、まったく無存在として扱うことも出来る。そのゆらぎ、重なりが、彼女の曖昧な「初音ミク」という記号を、ますます不可視かのようにしていく。
ゆらいだ初音ミクは、誰と重なっているのだろうか?それはマージナル・マンたる、我々、というより、「わたし」自身である。「わたし」は「わたし」を「初音ミク」にプロジェクションしている。
それは同時に、「だれか」が「だれか」を「初音ミク」にプロジェクションしているということである。
「初音ミク」はキャラクターではない。ペルソナである。我々が我々自身を投影するペルソナというべき箱である。「初音ミク」というペルソナを介して、わたしはだれかと繋がっている。だれかの初音ミクと繋がっている。
動画を開けば開くたび、音楽を聴けば聴くたび、カルチャーに溶け込めば溶け込むたび、毎回毎回、誰かがつくりかえた、だれかの「初音ミク」を受容している。そしてまたわたしが、わたしの「初音ミク」を、だれかに届けている。そうして膨大に接続するためのある種の媒介変数のような、そういうペルソナである。
間違いなく非実在の存在たる「初音ミク」を、我々は「信仰」しているのかもしれない。ペルソナたる初音ミクを媒介して、表面的でないにもかかわらず同時多発的にたくさんのだれかと繋がれる装置として、このカルチャーは、初音ミクを「神」とした「信仰」に近いのかもしれない。しかしわたしはそうでないと確信する。初音ミクを初音ミクたらしめているのは、初音ミクに明確に触ることができるからだ。
私たちはたった1枚のインタフェースを介在して、彼女に極めて人間的な干渉を試みることができる。その、ごく人間的な、すなわち間違いなく「実在」している、我々人間の作用の連鎖が、初音ミクを初音ミクにしている。そうしてカルチャーが呼応連鎖するさまは、彼女を「実在」していると見まごうほどに生々しい。彼女に「生」を感じるのは、同時に彼女のペルソナを被っているだれかの「生」と、我々はいとも容易く共鳴できるからだ。だから初音ミクは「神」ではない。今生きているだれかの生が、彼女を生々しく「非実在」させているからこそ。