限りなく皆既に近い部分月食と感性の関係について
日食と月食は、両者とも年に1回程度発生し地球上のどこかで観測されているが、実は日食の方が起こる頻度がやや高いと言うのは意外なことであろう。しかし、日食は昼間に月と太陽がピタリと重なって起こり、これが見られる地域は地球上で非常に限られるため、観測するためにはその地点に移動する必要がある。これに対して月食は、月が地球の影に入ることであるから、月が出ている時はどこからでも観測できる。また、地球の影は月の約2〜3倍の大きさがあるので、簡単に「皆既」になりやすい。
19日夕方には、「限りなく皆既に近い部分月食」が観測されたが、これが報道では、「140年ぶりで、次回は2086年」と書かれる。これはつまり、このような部分月食が起こるのは珍しいと言うことらしいが、部分日食の時にその欠け方の特殊性が〜年ぶりとはまず書かれない。また今回の月食が、月がやや遠い遠地点前の現象であることも書かれない。ひねくれ者の筆者は、「限りなく事実ではあるが、大袈裟な印象を狙う部分報道姿勢」にやや不快感を覚えてしまう。
夕方東京女子大西の側道を自転車で走っていると、あちらこちらに立ち止まって、大学敷地の東天に広がった空の月食をスマホで撮影している人たちを観測する。この人たちはなんのために撮影しているのか。個人の思い出のためなのか、それとも友人とこれを共有するためなのか。
これより先、17日の夕方、ブイネット前の道で、トコトコと母親の前を歩く3歳くらいの男の子が、東天に早く上った満月前の月を見て立ち止まり、「あっ、まん丸お月さん!」と叫ぶ。すると、すかさず母親が、「本当だ。キレイだねぇ!」と応じた。商売柄、つい思わずこの母親は「合格!」などと思ってしまったが、美しいものは誰かと同時共有するとその印象感覚が深まる。周囲の共感があってこそ子どもの感性は伸びる。
「本当だ」と認識するだけでは足りない。「キレイ」と自らの印象を伝えることで確認と印象が深まって定着する。
ここには色々な反応の仕方がある。
アタマが忙しいのかそれとも面倒くさいのか無視するのは最低だが、「あっそ」とだけ言うのでは失格である。強い共感を得られなかった子どもはやがてそうしたことをあまり口にしなくなるであろうし、さらにはそうしたことを「美しい」と認識することもなくなるだろう。感性の伸長が阻害されることになる。
子どもの反応に共感するだけでは足りない。そこで親は、心から自分もそう感じ、それを自分の感覚として伝える言葉を口にする必要がある。
味覚、聴覚、嗅覚、触覚、そして視覚、これらの感覚を通じて、子どもは美しいものや気持ち良いものへの認識を覚え、それがそのものの感性として育って行く。
美しい景色や美味しい物、心地よい風、快い音に敏感であることは、どのような世の中になっても幸福の元になるはずだと思う。