満月通信ー余韻について
9日2:28に近地点を過ぎ、なおも波動が強い。
テンションが高くなる人もいれば、重く押さえつけられるように感じる人もいることだろう。
次の遠地点は25日0:28なので、およそ16日間でゆっくりと遠ざかることになる。
月の遠近周期は、公転周期とほぼ同じく約27、5日なので、朔望周期29、5日より約2日短い。
これは地球が太陽の周りを公転しているので、その動いた分のズレが生じるからである。
さらにその次の近地点は11月6日7:18なので、遠地点から近地点へはおよそ12日間で急速に近づくWAVEになる。
見えぬ新月を過越し、近地点が過ぎた後の「余韻」がそこに残る気がする。
昨夜、You-Tubeで、クラウディオ・アバード指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団による、マーラー交響曲第9番の演奏を視聴した。
この曲の終楽章には、マーラーによる「死に絶えるように」との記述があるが、あまりにささやかな音の演奏で終わるため、いつも聴く車の中でのCDではよく味わえない。
この収録は2010年で、アバードが亡くなる4年前のものであるが、当然と言えば当然なのであるが、演奏が終わった後も咳一つ聴こえない完全沈黙の状態が1分余り続き、まるで指揮者の「祈り」が終わったような仕草に至って会場から拍手が鳴り響き、これが次第に大きくなり、さらにこれが続くと観客が立ち上がって拍手を送るようになるというシーンになる。
気がつくと涙が出ていた。
自分は涙腺の弱い人間ではないが芸術的感動にはなぜか涙することがある。
しかし、これは演奏だけではなく、音楽の余韻を感じ味わう聴衆の姿への感動と共感でもあったのである。
もし演奏終了直後から、「ブラボー!」と拍手が始まれば、この世にも素晴らしい余韻を味わうことはできない。
マーラーしてやったりと言えばそれまでであるが、それを感じ取ることができる聴衆がそこにいる。
日本人は拍手が好きで、歌舞伎などの芸術でも拍手を前提に作られていることも多いが、「余韻」を味わうことができるものは少ない。
唯一筆者が知るところでは、能でシテが踊り終わった瞬間があるが、これはどういうわけか余韻を無視してすぐ大拍手になってまるでストリップショーが終わったような気分にさせられてしまう。「鑑賞」することよりも拍手をすることの方が主体で、観客が芸術の次元を低めてしまう。だが、ルツェルンコンサートホールの観客は違った。他者が味わう余韻の邪魔をしないで自分たちもその悦びに浸っていた。
「HSP」と言う言葉があるが、もしもそうした人間ならば、当然余韻を楽しむ力もあるはずである。
しかし、ADHDの自分ですら余韻を感知することができる。
つまり、誰でも余韻を味わうことができるはずであると言うことだ。
余韻を味わうことは怠惰ではない。
自分の心の余裕の確認と「エクスタシー」の存在を確信することである。
さて月は、その余韻を残して、ゆっくりと遠ざかり、同時にその間に満ちてくる。
我々はこのWAVEを避けられない。