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七大柔道の日々~他ではできない体験~

 私は大学時代、体育会の柔道部に所属していました(もう20年以上前になりますが)。柔道部では、七大戦という国立の七大学で戦う夏の大会で優勝することが目標とされており、そのために日々稽古に励んでいました。

 七大戦の柔道大会ルールは当時の立ち技メイン時代ではかなり特殊で、立ち技から寝技に入っても勝敗がつくまで試合が中断されないというものでした。オリンピックの柔道をご覧の方はご存知かと思いますが、通常のルールでは立ち技から寝技に入った場合、両者に動きがあれば試合は継続しますが、いったん膠着すれば「待て」がかかり試合が中断され、また立ち技から再開します。

 それに対して七大ルールは「待ったなし」のルールであるがゆえ、いったん寝技に入ればずっと寝技を継続できること、また寝技のほうが立ち技よりも理論的な技術体系を構築しやすいこともあって、七大戦でも寝技主体で戦う大学が多く、私の所属していた柔道部でも普段の練習でも寝技に重きを置いた訓練がされていました。

 いまでこそ寝技を得意とする有名選手も多く存在し、寝技への注目度は高まっていますが、当時は寝技主体の七大柔道は相当異質な流派であり、特に私学の強豪選手たちにとっては異端扱いで、大会や練習で対戦したときにかなりウザがられていました……。

 本稿ではそんな柔道部時代に特に辛かった体験を述べたいと思います。

大原ランニング

 2月の極寒の時期に、朝6時に大学を出発し大原三千院まで13kmを走るという謎の儀式がありました。遠いのもありますがとにかく寒いのと暗いのが辛いです。嵐山、鞍馬山、大原三千院と年によってローテーションがありましたが、大原が一番遠かった印象です(でもgoogleマップで調べると不思議なことにそれぞれあまり距離は変わらないんですね)。帰りは電車です。膝が悪くて走れない部員もいたのですが、彼は4時に出発して3~4時間かけて三千院まで歩いていました。彼は怖がりだったので、暗いトンネルを通るときにひとり大声で歌を歌っていたそうです。

機動隊の皆さまの胸を借りる稽古

 師範が警察にご縁のある方で、夏には機動隊の皆さまに胸を借りにいく合宿をすることもありました。機動隊の皆さまには全国的に有名な選手だった方も多く、私たちは赤子の手をひねるように倒されました。この世には絶対に敵わない強者がいて、それでもどんなに相手が強くても立ち向かわなければならないことがある、という精神を学んだ気がします。

ヒコーキ

 名前の由来には諸説ありますが、特攻隊から取っているという物騒な説もあるそうです。一人が7回引き分け(1試合は6分)、または2連勝するまで何回でも試合をするというエンドレス稽古です。2連勝できるのはとてもお強い1-2人の先輩だけであり、他のメンバーは10連戦以上は当たり前で、苦闘は1時間以上に及ぶこともありズタボロになっていきました。たぶんこの稽古も意味があって、どんなに辛い状況でも何がしかのパワーを振り絞るための練習だったのかもしれません。知らんけど。

さいごに

 日本の柔道人口は15万人ですが、フランスの柔道人口は50万人と日本の3倍以上であることをご存知でしょうか?数百万人規模で競技人口がいるサッカーや野球に比べて柔道はマイナースポーツです。それでも柔道の精神と技術は学ぶに足る素晴らしいものですから、何か武道を始めてみようという方にはぜひおすすめしたいです。

 本稿ではちょっと特殊な環境を紹介しましたが、もう20年もたっていますので文化も相当現代的に様変わりしているでしょう。学生の方々もぜひ、大学に入った暁には体育会柔道部を覗いてみてください。

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