香りについてのエスキース
夜、ベランダに出て音楽を聴くのが昔から大好きだった。
その度に自分は、頬に当たるぬるい風を感じながら、ああこの季節がやってきたなと目を瞑っていた。
春夏秋冬の夜、どの季節にもその季節の「におい」がある。
夏の夜の匂い。ちょっとせつなくて寂しい匂い。冬の夜の匂い。透き通って、つんとして爽やかな香り。気温も相まって、すこし鼻の奥がいたくなる。それはたくさん泣いたあとの感覚に少し似ている。
空気?空気に匂いがあるのかも。なんだろう。どこから来ているんだろう。辺りを見回しても見つけられなくて、後日やっと、こんなところにこの花が、なんてこともしばしばある。
金木犀の匂いとか、沈丁花の匂いとか、いつもいつでも季節は香りとともにやってきたことを確信する。
自分は香水が好きで、おうちにたくさんの香水がある。たかいもの、やすいもの、甘ったるいやつから爽やかなやつまで。その時々の気分だったり季節にあった香水をつかう。だいたいが寝香水だったり、朝自分のモチベーションを上げるための魔法みたいに使ったりする。状態バフをかける……みたいな。へたくそで情緒も何もない比喩を許してほしい。
香りっていうものは、五感の中でもとくに取捨選択できないものだ。目は瞑らなくても逸らせば情報をシャットアウトできるし、味は口にしなければいい。でも嗅覚はそうはいかない。苦手な香りで気分が悪くなることも往々にしてあるものだ。(最近では 香害、ということばがあるらしい)それでも、だからこそ無意識下に刷り込まれやすい。あの日あのときの香り。あの花の香り。あの場所の香り。あのひとの香り。
保健室の香りが好きだった。独特の匂いがして、なんとなく落ち着く匂い。ベッドの上で罪悪感と一緒にとろとろと眠りに落ちる時の白い天井。あれの匂いの香水があったらいいのに、と思って探したことがあるけど、どうやら無謀だった。クレゾールとエタノールを頭から被る他ない。死ぬ。そもそもそんなことを考えるやつが稀有らしい。そんなあ。
おひさまの香りが好きだった。干したてのおふとんを取り込んですぐ、陽の光が当たる窓の下でゆっくり微睡むあの日曜日の匂い。外では車が走る音と子供の遊ぶ声が聞こえて、まだ昼下がりなのに、なんとなく休日の終わりについて考える。幸せは、終わりを強く感じて時折悲しくなる。
友達に、ねむちゃんはときどきクレープ屋さんの匂いがするねと言われたことがある。冬の寒い教室では女の子はこぞってお互いの体温を分け合っていて、その日も友達の膝の上にちょんと座りながら背中から感じる温もりに心地好さを感じていた。心当たりがひとつあった。毎晩お風呂上がりに使っていたボディクリームがアンバーバニラという香りで、それがまるでお菓子みたいに甘い匂いだったのだ。きっと、次の日になってもちょっぴり残っていたのだとおもう。ぴったりとくっつくと気付く程度。冬になると甘い香りが使いたくなるから、今でも自分にとっては冬の香りだ。
ねむちゃん近くにいるとクレープ食べたくなる。学校帰りに食べいこうよ。いいよおと間延びした返事を返したら、私の首元に顔を埋めてお腹空いたあと呻いていた。
久しぶりに会ったあのともだちは、髪を切って服の好みも変わっていたけれど、クレープのお店の近くを通ると今もねむちゃんを思い出すんだよねなんて変わらない顔で笑っていた。
この話をするといつも、川端康成の小説の一節を思い出す。「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます」
陳腐な感想だけれど、とってもかわいい呪いだと、思った。無意識に刷り込まれた記憶は、何かがこころをくすぐるたびに想起されるのだ。
香りだって呪いだ。夏祭りのサイダーの香りは、あの日友達と固くて開けられないねなんて笑って花火を見た記憶を思い出させる。結局近くのカップルに開けてもらったのだったっけ。
いじらしくて、かわいい呪い。
特定の匂いを嗅いだ時に、それと結びつく記憶や感情が呼び起こされる現象のことを、プルースト効果という。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という作品の中で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸しながら食べた際に、その香りで幼少時代を思い出す…といった描写からこの名前がついているらしい。
かくいう自分は『失われた時を求めて』は2冊ほどしか読めていないが(なにせ世界最長の小説としてギネスに認定されているほど長いので、言い訳です)、それでもこの描写は特徴的に記憶として残っている。
真似をしてマドレーヌを紅茶に浸したら、バターが紅茶に浮いてしまってちょっとあんまりな感じになってしまった。皆様におかれましてはどうか、ミルクティなどの類で勘弁した方がよろしいと思われる。これはtipsです。
意図しない形で、ふとした時に気がつくこと。想起されるもの。
お友達と会うとき。お屋敷に出向くとき。みんなの中のわたしはただの大勢のなかのひとり。きっといつか忘れる、思い出の中に埋もれていく。それでいい。いつか氷川ねむりの名前を忘れたっていい。顔も声も忘れたっていい。どこかですれ違った人がこの香りを纏っていたとき、わたしを思いだしてしまえばいい。