きみはかわいい
最果タヒ,『死んでしまう系のぼくらに』という詩集の中に収録されているこの詩がすごく好きだから、ちょっと紹介したい。
『死んでしまう系のぼくらに』は、本書の為の書き下ろしを含む44篇の詩が入った本だ。中でも私がすきな詩「きみはかわいい」は書き下ろしではなく、以前より既にtumblrで公開されていたものの再録である。気軽に読めるものなので、よろしければいちど、上記URLから目を通して頂きたく思う。
まずもってこの詩の始まり方がとにかく好きだ。独り言のような、内緒話のような語り口。秘密の共有と言ってしまうとちょっと大袈裟かもしれないが、どこかそんなひっそりとした空気が流れているように思えてきて、ここにいるのは他の誰でもないわたしとあなたであると、なんとなくそう感じる響きがある。
しかし次の一節で、「きみ」との距離は急速に離れる。ひっそりと甘やかな空気は晴れ、さっきまで隣に居たあなたは記憶の中の笑顔になる。そうして今は、送られてきた手紙をゆっくりと、目と指でなぞっているような感覚に切り替わるのだ。
遠方の友人に送るもの、結婚式の招待状、今となっては減ってしまった年賀状。この世には様々な手紙がある。誰かに向けて書いた歌も、伝えたいことがあるならばそれは手紙といえるのだろう。
手紙、という概念が好き。中でも手書きのものは、抱いて眠るほどに好きだ。書くのも読むのも。もちろん、事務的な催促状や、悪意のあるものは含まれないだろうが、手紙の大半は祈りであるからだ。
祈り。宗教によって差はあるものの、他者への祈りは、それそのものが利他の精神からなる。他人の幸せを切に願い、かくあれがしと念ずること。それは優しさだと思う。誰しもに初めから備わっている、原初の優しさ。誰かのことを想い幾多のことばの中からそれを選んで紡ぐということ、そうやってできた手紙は糸ひとつひとつが優しさでできた織物であろう。贈り物だ。あなたの為だけに時間を使って、あなたの為だけにことばを選ぶ。なんて贅沢なことなんだろう!たとえそれがエゴだったとしても、かけがえのない時間を使ってことばを紡いでもらえることはこの上なくうれしいことだ。少なくとも私はそう思う。
『しんだり、くるしんだりするひとは、君の家の外ではたくさんおきるだろうけれど、きみだけにはそれが起きなければいいと思っています。』
なによりも、この一節が、いちばんの祈りだ。このひたすらな祈りが、ずっと私の中に残っている。だからこの詩が好きなのだと思う。
くるしい思いをすること、嫌になってしまうこと。負の感情から、その気はなくとも不意に誰かへと悪意を向けてしまうかもしれないこと。それらを全て、当たり前のことなのだと包み込んで、それでもあなたはかわいいですよと進む詩は、根底にきっとこの祈りがある。どうか、あなたには不幸が訪れませんように。周りではなにが起きていても構わないから、どうかあなただけは、温かいところに居ますように。かくあれがしと、祈る。祈る。
きっとこのような詩や文章などは、なにか答えを出そうとして読むものではないし、なにかを得て帰らねばなるまいというものでもない。かくいうわたしだって何かを綴ることであなたを啓蒙したいわけではないし、どのような想いを得て帰っていただいてもよい。それでもこの詩をなぞるたびに思うのだ。私に、このように祈ってくれている人間が必ず居るのだということ。誰しもきっと、心の内には誰かにこのような祈りを持っていること。そして、そのように思ってくれている人間のことを忘れてはいけないということ。目が霞んでひとりぼっちに思えてしまう時でも、この詩があること。
私は祈っている。私と話をしてくれる人や、過去現在私と縁を紡いでくれた人。それからその人の大切な人に、どうか幸せがあるように。私は万能ではないし、そのうえ聖人でもないから、他人がどうであれ強く心を痛めることはできない。知覚できない痛みを想像することは難しい。それでも、少しばかり祈ることくらい赦されたい。たいせつなひとに幸せであってほしいし、それに、私にやさしくしてくれた人に、ちょっとだけ世界がやさしくなればいい。あたたかいおふとんで、ゆっくりと眠ってほしい。次にあなたが起きたとき、しあわせな夢の話をしてくれたりしたら、どんなに素敵だろう。
人としての優しさは大人のずるさと一緒にしか成長しないとどこかで読んだ。あなただけはあたたかなところで居てほしいという想いはきっと、ずるいのだろう。その上無謀で、子供のように稚拙な祈りだ。
そして、ずるいことに私には、大人にならない魔法が備わっていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?