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前に、ずっと気になっていた展覧会、『翻訳できないわたしの言葉』展に赴いた。とても良かったし、ことばを扱うわたしたちにとって大切なもののように思えた。 翻訳できない わたしの言葉 展示場では、一室一室かなり時間をかけてまわった。なんだかそうすべきだと思った。ぐるぐる、ぐるぐる。途中に休憩スペースがあったり、再入場が可能だったり、座って体験できるスペースもあったりして、体力がないわたしでも端から端まで楽しめた。 布にくるまれた、袋に入った水にたぽたぽと触れて、身体感覚
大切な同僚が、わたしを置いて行ってしまったので、未練たらしく日記を書いている。 わたしは、バーチャルな存在の〝卒業〟は、リアルで言うところの〝死〟と近いかほぼ同義だと思っている。 世の中におけるアイドルや活動者など、同じ姿で違う名前/違う所属でもう一度出逢うことは往々にして在りうる。要するにもう一度逢うことは可能である。しかしバーチャルだとそうはいかない。(と、わたしは思っている。ここを突き詰めると顔貌姿だけがその人をその人たらしめるのかという、まあ魂の在処のような話
思いがけず誰かを加害してしまうことが怖い。自分の意図しない衝動で、言葉で、価値観で行動で誰かの心に傷を付けてしまう可能性にいつもどこか怯えながら息をしている。 夜更けにひとりで考えていた。かなしみを得ると決まって反芻することばがある。ひとに、同じことをしないようにしよう。幸か不幸か傷つきやすい自分の性質はこの学び方によく合っていた。心に少しでもひっかかったものを無くさずに書き留める。私はひとにこうしないように。誰かを傷つけないように。然して安寧を取り戻す。 それでも
最果タヒ,『死んでしまう系のぼくらに』という詩集の中に収録されているこの詩がすごく好きだから、ちょっと紹介したい。 『死んでしまう系のぼくらに』は、本書の為の書き下ろしを含む44篇の詩が入った本だ。中でも私がすきな詩「きみはかわいい」は書き下ろしではなく、以前より既にtumblrで公開されていたものの再録である。気軽に読めるものなので、よろしければいちど、上記URLから目を通して頂きたく思う。 まずもってこの詩の始まり方がとにかく好きだ。独り言のような、内緒話のよう
眠れない夜には決まって、イヤホンで耳を塞ぎながら、突拍子もないことを考える。 ──もしいつか死んだら、ひんやりしていてあんよが透けてて、ちょっぴり薄ぼんやり光るキュートなおばけになりたいな。 これは希死念慮だとかそういう重たいものではなく、純粋に、ふと、そう思った。キュートなおばけになって、夏場にみんなのことを冷やすのだ。暑くて寝ぐるしいひとの枕にそっと手をやって、ひんやり。熱中症になってしまったひとの首元に近付いて、ひんやり。うん、いい。ひんやり屋さんになりたい。直
雨が降ってきたから慌てて洗濯物を取り込んだ。降るなんて聞いていなかったと、空に嘘をつかれたような気になる。自然は何も悪くないのに。人間は勝手に期待して勝手に失望する。 雨に濡れるままのそれらを、そのまま放置していたらと、考えることがある。きっともう一度洗ってしまわないといけなくなるのだろう。せっかく綺麗になったそれが、ずんずん水を吸って重たくなって、惨めに汚れていくさまをぼんやりと眺めるだけでいることに、一瞬どうしようもなく惹かれてしまう。後ろめたさでちくりと自分の胸を
これはまだ自分が魔法の国にいた時のことで、もう随分と過去の話。 魔法の国の魔法学校には初等部とか中等部とか、こっちでいう小学校や中学校みたいなものがあって、その子とは中等部で出会った。なんで会ったんだっけなあ、たぶん最初は友達の友達って位置付けだった。 第一印象は互いに最悪だった。あ、こいつ合わなそうだな。私はその子に粗野な印象を受けたし、その子は後から聞いたら私のことをいい子ちゃんの八方美人だと思ったらしかった。仲良くなることは、まあ、ないだろうなあ。そんな感じの空気が
左耳のピアスのキャッチが無くなった。 理由は明白で、これは眠っているときの体勢にある。自分はよく左を下にして丸まって眠るので、おおかたその時なのだろう。しかしどうして、常に同じ体勢な訳もなく、寝返りもごろごろとしているはずなのに、何故かいつも左耳のキャッチだけ無くなりやすい。緩いのかしら。 ふと左耳に手をやって、あれキャッチが無いぞ、じゃあ今このピアスは自分の足のみで刺さっているのだとヒヤリとすることがままある。 はたしてこいつが根性でしがみついているのか、はたまた
底冷えのする夜だ。 変な時間に目が覚めて、することがないからカメラロールの整理をした。 アルバムってふしぎだ。つい最近の写真のような気がしても、ぜんぜん1か月前の写真だったりするし、あの時あれにはまってたなあとか、これが好きだったなあとかを手に取るように思い出せる。その時の感情、感覚まで。 人間は記憶を、機械にうつして定期的に見返す。サイボーグとおなじだと思う。義手や義足を使うように、人間は記憶を別媒体にうつして残す。外部媒体に手軽に記憶を移せるようになった1990年代後
夜、ベランダに出て音楽を聴くのが昔から大好きだった。 その度に自分は、頬に当たるぬるい風を感じながら、ああこの季節がやってきたなと目を瞑っていた。 春夏秋冬の夜、どの季節にもその季節の「におい」がある。 夏の夜の匂い。ちょっとせつなくて寂しい匂い。冬の夜の匂い。透き通って、つんとして爽やかな香り。気温も相まって、すこし鼻の奥がいたくなる。それはたくさん泣いたあとの感覚に少し似ている。 空気?空気に匂いがあるのかも。なんだろう。どこから来ているんだろう。辺りを見回して
ふとベランダに出て空を見上げたとき、なんとなく星がきれいだったり夜風が気持ちよかったりする時の言葉がほしい。 ギリシャ語で雨の匂いを示す言葉があることを知って、うれしくなった。正しくは雨が降った時の石畳の匂い。あの匂いと感覚をつたえたいと思った人間が他にもいたんだなあ。全くちがうところで生活している人間だったとしても、同じことを考える。それは幸せなことだと思う。 ことば、というものが好きだ。 とりわけなんの言葉が好きだとか、言語化が得意だとか、そういう明確な何かがあるか