あいまい日記 11 ─すべてが経験
生きている限り全てが経験だ。何もしていなくても「何もしていない」という経験を生きている。経験が途絶えるのは(おそらく)死んだときだけだ。
美味しいものを食べる。旅をする。いろいろな仕事をする。恋愛をする。成功をする。失敗をする。宝くじに当たる。破産する。大怪我をする。大病を患う。犯罪に巻き込まれる。etc...
いわゆる「人生経験」なるものの正体は「おもしろく語られやすい経験」のことだ。そういうことをしないと、その分だけ人生に占める無の領域が広がるというわけではない。例えば「1年間食べて寝る意外ほとんど何もしていない」としても、それはそれでそういう経験だ。その種の経験は社会生活には適応的でないというだけだ。
「豊かな人生」というのは基本的に「他人にとって豊かな人生」だ。自分の人生が他人にとって豊かに映っているのを見て、自分の人生が豊かだと納得する。他人とはまさに鏡だ。
ただしこれは事象の説明であって、「豊かな人生」を生きるためのHow toではない。そこを誤解して、自分の人生が他人にとって豊かに映るようにすることを目的化してしまうと歪みが生じる。現代社会では特に顕著かも知れないが、もともと人間はあらゆる他人をコンテンツ化しようとする病に罹っている。そういう視線を内面化し過ぎると自分の輪郭が掴めなくなっていく。自分のしたいこと、好きなこと、やり続けてしまうことがあるなら、なんであれそれを大事にすることだ。現実の状況とすり合わせながらということになるが。すり合わせつつ、あなたは生きられるだけ長く生きて、続けられるだけそれをやり続けるべきだ。継続は価値なり。
人間社会には、凶暴に経験を食らおうとする人々が多すぎる。彼らは他人への獰猛な関心に突き動かされるままに、人の心に牙を立て血を啜りつつ徘徊する獣だ。豊かな人生というものを呪術的な信仰によって達成しようとしているように見える。世界はまだまだ平和にはなり得ない。他人への無関心を正しく確立し、経験の豊かさを自分で規定できるようになればもう少し世界は平和になるだろうが、今の世界の延長上にそういう状況は望めないように思う。