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あいまい日記 10 ─「幸福」について

「幸福」とは何か。それは結局のところ「幸福感」のことだと思っている。じゃあドラッグなどで手っ取り早く「幸福感」を得られるとしたらそれ良いかというと、そういう話でもない。「幸福」とはシンプルに「幸福感」だと仮定して、そこで重要になるのは幸福感への「感受性」を健全に高めて、緻密に把握していくことだ。そして「人生を通じての幸福」を理解することだ。

私が「幸福」について思うとき、いつも以下の言葉が響いている。

人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。

【引用】ジャン・クリストフ/著:ロマン・ロラン

この言葉は押井守監督の『イノセンス』で知ったのだが、これは一度聞いただけでスッと沁みて忘れられない言葉の一つだ。「幸福」についての、これ以上ない素晴らしい洞察。幸福を感じて浮ついているときには謙虚さを思い出させてくれるし、不幸に押さえつけられて下を向いてしまうときには見上げるべき方向を示してくれる言葉だ。

ドラッグをはじめとした端的に強い快楽を得られる手段に頼ることが、「人生を通しての幸福」には馴染まないことも上記の言葉から導くことができる気がする。

仮にヘロインのように圧倒的な快楽を得られ、それ自体には身体的な健康被害が全くないドラッグがあるとしよう。しかも誰でも欲しいだけ入手できる。さて、人はこれで「幸福」になるだろうか。実のところ、そう簡単には「NO」と言えない自分がいる。切らすことなく供給され続け、絶頂の快楽に浸り続けられるなら、それは「幸福」の一形態だと言っていいと思っている。快楽は「幸福感」だからだ。
だが一方で、生は本質的に複雑だ。また、「幸福感」ものっぺりとした一様な感覚ではなく、本来そこにはディテイールやレイヤーがある。
望んでいない人が、上記のようなドラッグで快楽による「幸福」に閉じ込められるとしたら、その種の「幸福」とは「牢獄」の一種でしかなく、「人生を通しての幸福」とは言えない。
また、そういうドラッグを望む人間すべてに限りなく供給し続けることが、現実として可能だとは考えにくい。供給が全く絶える人、断続的にしか得られない人が発生するだろう。そうなるとどうなるか。絶頂の快楽が一度刻まれてしまった人間がそれを絶たれたとしたら、どんなに身体的に健康体であったとしても、精神にとってその「快楽の刻印」は一生の呪いになるだろう。快と不快のコントラストが異常に強まってしまった精神で生きていくのは想像するに苦しいものになりそうだ。そういう精神依存さえ全くないドラッグを仮定すれば、あるいはドラッグを上手く運用して「幸福」に役立てる未来を想像することもできるかもしれないが、ここで掘り下げたいのはドラッグの話ではない。ドラッグを引き合いに出しているのは、「幸福感」を最も単純な形で「外部から受け取る」例として分かりやすいからだ。

世界は複雑で、予想もしない不都合が起こり得るということ。それを超えて「幸福」になるにはどうすればいいか。それが「人生を通じての幸福」というテーマで問うところだ。

思うに、「望んだり生きたりすることに飽きない」ようにするにはどうすればいいかを考えることが、この問いの指針となるだろう。

「望む」こと。「生きる」こと。これらには能動的な意味が込められているように思う。

「望む」こと…。叶えたい夢があるとか、完成させたい作品があるとか、あの店で食事がしたいとか、あの人に会いたいとか…。到達する過程には発見があり、理解があり、充実があり、高揚があり、それらは「幸福感」につながる。もちろん苦しみもあるだろうが。そして「望み」に到達し、大きな喜びを得る。必ずしもそういう結末ではないかもしれないが。
ともかく「望むことに飽きない」とは、こういうことを倦むことなく繰り返していくことだ。もっと簡単に言えば、趣味やライフワークを持とう、あるいは人間関係や仕事などに良い居場所を見つけ出そう、そんなところだ。誰もが聞き慣れた話。だがそれをちゃんと自分で発見し、自覚することが大切だ。
ここから得られる「幸福感」は、ドラッグで得られるものとはおそらく違う。ドラッグを「幸福」の基盤にする場合、「幸福感」の供給は外部の単一の手段にのみ頼ることになり、それはコントロールし難い複雑な世界を生きる私たちにとって大きなリスクとなる。供給が絶たれる可能性と常に隣合わせだ。
それに対して趣味やライフワークなどで得る「幸福感」の供給源は、自分自身の活動にある。もしある一つの活動が続けられない状況に陥ったとしても、やり方を変えて続けたり、別の活動に切り替えたり、その活動の記憶を反芻してみたり、柔軟に乗り越えていける余地がある。得られる「幸福感」の質感や強度も多様だ。多様であることは未知があるということであり、そこに次の「望み」を映し出すことができる。

「生きる」ことについてはシンプルだろう。生存するための行動を日々続けていくこと。暴飲暴食をしないとか、逆に食事や睡眠を疎かにしないとか、家の掃除を最低限はするとか、そういうこともおそらく含まれる。

人間一人ひとりの生というのは、予め「意義」が設定されてはいないし、本当に代わりの効かない人物というのもいない。生とは本質的に虚無だ。世界はカオスで、そこに生きる私たちは非力だ。それでも「望んだり生きたりすることに飽きない」ために活動を積んでいく。生には意義がなく虚無だということを、本当は誰もまだ確かめてはないのだから。

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