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あいまい日記 3 ─書くことは“重み”の付加

文章化するということについて考えてみる。書くことの目的を決めてnoteを始めたわけじゃない。むしろ書き始めて気づいてことだが、書くことは、自分の中にある思いやイメージに“重み”を付加していく作業なのかもしれない。他人の頭の中がどうなっているかは知りようもないが、私の頭の中では思いやイメージというのは宙を舞う薄片のようなものだ。すこし強い風が吹けば、つまり何か注意が引かれるようなことがあったとき、簡単にどこかへ飛んでいってしまう。それらは書かれて情報になることで“重み”を得て地に着く。今こうして書いていることがまさにそうだ。思いやイメージというものが、自分の頭の中にどのような在り方をしているのかよくわからない。シナプスの発火、その連合としての電気的なサーキットが絶えず生起することで意識や思考がこうして実行されているというような話を聞いても、本質的にはピンとこない。ペンで書かれた文字ならそこに明白に実在しているし、デジタルな情報は2進数の連なりで確定されている。では私の頭の中はどうなのか?いや、調べてみれば脳における思考やイメージの保存形式について客観的な情報が見つかるのだろうが、ここではあくまで主観的な経験について考えている。私の主観的な経験として、頭の中で明確な思考が並列して走っており、そして個別に同時にそれらを意識できる、というわけではない。むしろ一度に明確な形で考え得るのは1つのことだけだし、1つですら明確に考えていないことも多い。とにかく頭の中ではほとんどのことがあいまいで、スープのように混ざり合っている感覚だ。そして時折、思いやイメージの薄片がスープの中から浮かび上がる。いや、スープの例えは正確ではない気がする。空間があり、地面があり、そこに私が立っている。広さは不明。一見何もないように見えるが、空間にはポテンシャルがある。なんらかの刺激を受けると、あるいは特に刺激が無かったとしても理由はわからないままに、空間に薄片(思いやイメージ)が生じる。そのままにしておけばどこかへ飛んでいってしまう。風向きによっては戻ってくることもあるが、それは運任せだ。それを手に握っておこうにも、そこにいる私も手は2本しかなく保持しておける数はそう多くない。だから書くことで“重み”を付加する。そこに置いておけるようにする。「そこに置いておく」というのには二重の意味があると言える。一つはこうしてここに文章として存在しているのでいつでも読むことができる。もう一つは、重みを得たそれが私の内的空間において実体になるということ。薄片のままでは半実体。ちゃんと実体にすることで、それを好きなときにひろって眺めることができる。もしかすると、そんな実体をあつめて組み立てて、建物を建てたり街をつくることもできるのかもしれない。それはちょっと、いや、かなり楽しい想像だ。






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