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あいまい日記 7 ─アウトプットによる「意識空間」の拡張

皆さんは自分の頭の中の「意識空間」の広がりをどう感じているだろうか?「意識空間」というのは、たった今私が勝手に考えた言葉だが、単純に自分の意識や思考の能力を空間的にイメージしてみたときの感覚的な広がりを指している。
私は自分の意識空間がとても狭苦しいように感じている。一度にそこに出しておけるものが少ない。今こうして書いている間も、奥行きが見えない乳白の霧に、四方を1メートルほどの距離で囲まれてるイメージがあり、身動きが取りにくい中で目を凝らして、なんとか一つずつ言葉を釣り上げている感覚だ。

もっとスムーズに思考を動かそうと歩き回ってみたりして、そのとき何を思っているかといえば、どこで昼を食べようとか、帰ったら部屋を片付けようとか、Amazonであれを買おうとか、そんな目の前にある生活的な項目ばかりで、何か思索的な考えを進めているようなことは滅多にない。あるいは歩いている間に何か考えが起こったとしても、さあ書き出しておこうと腰を落ち着けると、それは霧の向こうにスッと後退してしまう。
日々、生活的なことを思うだけでも時間は速やかに流れていく。己を知るために、人生をもっと根本的に前に進めるために、何か考えるべきだという感情がいつも精神をつつき続けているが、意識は沈黙して座り込んでいる。どんな頭の出来がいい人間であっても、食事はするし部屋の片付けもするだろうし新しい服や家具を買うことも考えるだろうに、一体いつどうやって考えを進めているのだろう?そういう人物は、意識空間の霧が私よりずっと晴れていて、自由に動ける広い空間でさまざまな考えを自在に動かしているのだろうか?

もう一つ不思議なのは、映画や小説などで、過去の偉人や文学作品などの言葉を巧みに引用しながら会話するシーンを見るが、ああいう会話は現実にあるものなのだろうか?私自身はああいう会話シーンに出会ったことがないのでわからないが、自分の記憶の霧の向こうから、適切な引用をサッと引き出せる自信はほとんどない。会話どころか、自分のために引用のメモを作ろうと思ったとしても、きちんと記憶しているような言葉はほとんどないと気づくことになるだろう。サリンジャーのグラース家についての小説で、確かシーモアという人物がさまざまな古典から引用した言葉を刻んだボードをフラニーかゾーイーかが読むシーンがあった気がするが、そういうボードの制作過程を見てみたいものだ。優れた人物にとっては、広い意識空間に綺麗に並べた言葉たちからサッと選び取っていくような容易さなのだろうか?あるいは、単に私に学がないということで一蹴されてしまう話なのかもしれないが。

さて、こうして言葉を一つずつ釣り上げながらここまで書いてみて、やっとこさ、私は自分の考えの輪郭がおぼろげに見えてきたようだ。考えにかたちを与えるのは本当に難しい。私だけではなく人間一般が、もともと生活に直結しない物事を考えるようにはできていないと思いたくなる。少なくとも私自身について言えば、ホモ・サピエンス(賢い人間)などと名乗ることには気後れせずにいられない。

そこで「アウトプット」することの重要性が立ち上がってくる。アウトプットの価値には、他者に向けて考えを表現すること、そして自分自身のために考えを記録したり整理したりすることだが、後者はつまり、意識空間を外側に拡張することだと言えるだろうか。自分自身の容量が足りないなら外付けハードディスクを付ければ良い。私に刻み込める領域が小さいなら、私以外の場所にどんどん刻み込んでいけばいい。頭の中と外、私と世界、両輪で考えを進めていく。そうして少しでも自分の空間を広げて、新しい要素を検討できる広さを確保していく。

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