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あーだCODA
CODAを見ました。
以前おすすめされていた「CODA あいのうた」という映画を見ました。
簡単に映画のストーリーを。
・歌うことが好きな主人公ルビーは、家族の中で唯一耳が聞こえる。
・漁で生計を立てる家族を通訳としても支えている。
・合唱部に入ったルビーは才能を伸ばして、先生から音楽大学への道を進められるが。。
みたいな感じです。ルビーさん役の「エミリア・ジョーンズ」さん素敵でした。。
CODAについて
映画のタイトルにもなっているCODA。
炭酸で美味しいやつ。それコーラ。
芸能人から出るやつ。それオーラ。
ピラミッドにあるやつ。それミイラ。
てな茶番は程々に、しいや。
「Children of Deaf Adults」
直訳すると、耳が聞こえない大人の子どもたち。
つまり、耳が聞こえない親と暮らす子ども、となります。
映画を見るまでは、この言葉はもちろん、このような家庭を意識すらしていませんでした。
ちなみに、、、「CODA」には上記のコーダと、音楽用語での終結部を意味するダブルミーニングになっているそんな気がします。
ケイコ 目を澄ませて
この映画も、耳の聞こえない女性ボクサーの日々を描いた作品となります。主演の岸井さんは本作品で日本アカデミー賞主演女優賞みたいなのを取っておられました。
途中、主人公であるケイコがコンビニに買い物に行くシーンがあります。
そこで店員さんに「袋いりますか?」と聞かれますが、ケイコは耳が聞こえないため、当然(これを当然として良いのか)ケイコには伝わりません。ケイコ自身も店員さんに耳が聞こえないということを伝えず(彼女の人生経験として諦めにも似たようなもの、それが普通?)にその場を立ち去ります。残された店員さんは「なにあの人返事もないのかよ」という表情をみせます。
中学校の担任の先生
確か道徳か何かの授業でした。障害か何かについて学ぶといったよくありがちなものだったように思います。
先生が「私にも障害があります」「それは目です」。
クラスが一瞬ぽかんとなったのを覚えています。
なぜ目だったかというと、目が悪いからということでした。確かに文明の機器であるメガネがなければ、先生は車に乗れず、もちろん学校に来ることさえできません。
メガネをかければ良くなる(?)ような視覚的な障害は、一般に想像しうる、誰もが目に見えて分かる「障害」ではないと思います。しかしそのような事もあるのだなと心に残るエピソードの一つです。
障害と私
当事者にはなってみなきゃ分からない。それはその通りだとは思います。それでも尚、障害を持つ方はいます。そして今現在自分だってそうかもしれず、未来でいつなるかは分かりません、そして少なからず障害を持つはずです。
映画というのはエンタメの一種であり、そこには物語性があったほうが商業的にはきっと儲かるはずです。一方で、障害というのを扱ってよいのか、それは国によっても異なる考え方でしょうし、これで正解!というのは言えないでしょう。
ただ「知る」という側面においては良いものだと思っています。むしろそうあってほしいという願望ですが。もちろん何か病名一つとっても、それはその人を簡単に示したほんの一部であり、その人全体を示すものではないということも覚えておかなければいけないですけど。
終わりに。。
書き始めは「これを書いて、あれを書いて、、」みたいなのが頭に浮かんでいるのだけれど、書いているうちにだんだんわけが分からなくなってくる。悲しいなぁ。もっと綺麗で分かりやすい文を書きたかったはずなのに。残さないよりは残すほうが良いと自分自身に言い聞かせて。。
CODAの最後の方で、主人公ルビーの発表会のシーンがあります。
ルビーは練習の成果、映画で起きた家族・学校での色々、映画には映らない日常の良かったこと、悪かったこと、それら全てを歌に乗せます。
しかし、歌声それ自体は家族には届きません。なぜなら彼らは耳が聞こえないから。
でも家族はルビーの歌の素晴らしさを知ることが出来ます。それはなぜでしょうか。なぞなぞみたいになってしまいました。
それ自体を感じることは出来なくても、別な何かによってそれの素晴らしさを感じることは出来る。いつか自分も耳が聞こえなくなったら、あるいは聞こえづらくなったら、この方法を覚えておこうと思える素敵なシーンでした。
今回のノートで取り上げた映画
コーダ あいのうた
ケイコ 目を澄ませて