ペン画の神様と称された樺島勝一にとっての「正チャンの冒険」 【前編】
執筆:大橋博之(記事協力:マンバ)
ペン軸にペン先をセットし、ペン先にインクを浸して、紙に描く
パソコンやタブレット、スマートフォンが普及したことで、ペンやノートといった筆記用具を使うことがかなり減った。この原稿もノートパソコンで書いている。
同様にテクノロジーの進化によって漫画の描き方も大きく変化したと聞く。今ではiPadのようなタブレットを用いて描くのが主流で、なかにはスマートフォンで描く人もいるらしい。その前はパソコンと専用のペンタブレットで描くのが一般的だった。パソコンとペンタブレットは設置場所に固定して使用されていたが、タブレットやスマートフォンだと簡単に持ち運びでき、カフェなどでも描くことができる。なんとも便利な世の中になったものだ。
樺島勝一が「正チャンの冒険」を描いていた時代は当然、パソコンやタブレット、スマートフォンなんてものは存在しない。では、どのようにして描いたのかというと、ペン軸にペン先をセットし、ペン先にインクを浸して、紙に描いていた。
「ペン先にインクを浸す」が分からない人は、学校で習字をする際、筆に墨を染みさせて書く、あれと同じと思ってくれればいい。
「ペン軸」というのはペン先をアタッチメントする棒で「つけペン」ともいう。「ペン先」は金属でできた部品。丸ペン、Gペン、さじペンなどの種類がある。さまざまな種類があるのはどのペン先を使うかで描ける線が異なるため。丸ペンは硬く、細い線を描くのに適していて、Gペンは軟らかく、強弱のあるタッチを描くことができる。通常、漫画を描くときはGペンが用いられる。とはいえ、場面によって丸ペンとGペンを使い分けていた人もいて、そこは漫画家の好み。
「万年筆」というのが、ある。ペン軸とペン先とインクが一体化された筆記用具のことだ。一体化されているからいちいちペン先にインクを付ける必要はない。しかし、万年筆は字を書くには良いが、漫画を描くには適していなかった。そのため、専用のペンタブレットが登場するまで漫画家はペンとインクで紙に描いていたのだ。
ちなみに、「紙」にもいろいろあって、漫画ではケント紙を用いる。画用紙だとペン先が引っかかりスムーズな線が描けないからだ。
勝一はイギリスのメーカーであるウイリアム・ミッチェル社のジョセフ・ジロットのGペンや丸ペンを愛用していたらしい。紙はイギリスのワットマン社の高級図画用紙である熱圧のホット・ワットマン紙。ケント紙よりもペンの引っ掛かりが少ないことから好んで使っていたという。
雑誌の表紙や口絵、挿絵が認められて朝日新聞グラフ局編集部に入社する
勝一が初めて「絵」を描いたのは1892年(明治25年)、4歳の頃だと伝わる。ペン画と出会ったのは1895年(明治28年)のある日のこと。家の押し入れから英字新聞を見つけ、掲載されていたペン画に心奪われると、自分でも描いてみようと思い、ペンに墨を塗り付けて画用紙に描いてみた。それは汚いペン画だったらしい。技術が伴っていなかったこともあるが、インクやケント紙の存在を知らなかったためだ。
1902年(明治35年)に鹿児島商業学校を中退。長崎県佐世保の造船所で製図工を務め、ペン画をマスターしたといわれる。
1914年(大正2年)頃に上京。ある日、たまたま知り合った婦人画報社の広告主任、伊達豊四郎から「なにか特技はないか?」と訊ねられ、外国雑誌のあったペン画を手本に2~3枚描いて見せた。これが切っ掛けとなって画業で身を立てる決心をする。その後、看板や広告の絵を描く仕事を細々と続けた。
転機となったのは雑誌の仕事をすることになってからで、1914年(大正3年)頃から『飛行少年』『帝国少年』『国民飛行』『英語精習』『海国少年』『新趣味』などの表紙や口絵、挿絵を描くようになった。これらの仕事が認められて1922年(大正11年)、朝日新聞グラフ局編集部に入社することとなる。そして、1923年(大正12年)から『日刊アサヒグラフ』で「正チャンの冒険」の連載を開始するのだ。
大橋博之
インタビュー・ライター。著書に『心の流浪 挿絵画家・樺島勝一』(弦書房)/『SF挿絵画家の時代』(本の雑誌社)が、編集・執筆に『少年少女昭和SF美術館』(平凡社)/『日本万国博覧会 パビリオン制服図鑑』(河出書房新社)/『大阪万博』(小学館)などがある。Twitter 公式サイト『GARAMON』