見出し画像

ありのままで生きてみたい

*本文での“理性”はルールやマナー、モラル、法律、常識などの総称


アナ雪の一節みたいな美しいものでは無い。

やられたらやり返す、何があっても自己責任、差別も排斥も格差もドンと来い、人間だって動物なんだから綺麗事みたいなルールはガン無視して生物としての本能と個々の人間の理性だけで生きてみたい!
という野生的を通り越してもはや獣みたいな思考回路の話だ。

だって作られた“理性”も、それに縛られる社会も面白くないじゃん。

確かに自分にもそれに守られてるところはあるだろうけど、それは自分が従わなきゃいけないっていう意識を共有してるから。
自分が“理性”を守るから自分も“理性”に守られているというだけ。

もし相手に“理性”がなかったら自分は一方的に被害を受けるだろう。
“理性”のない行動をすれば社会から罰せられる?それがどうした。
“理性”を無視できる奴は踏み込む前からリスクを覚悟してる。
犠牲を払うことを理解した上で動いた奴を罰してなんの意味があろう。
その罰は相手に一切損をさせず、自分にも救いをもたらさない。

つまらない。向こうは“理性”を無視してるのに我々は“理性”を保てと?
なぜ相手の判断に自分を委ねなければならない。
なぜ他人に相手の処理を任せなければならない。
どんな理由、立場、事情であっても所詮彼らは自分たちと直接の関係ない他人じゃないか。彼らに自分の気持ちは理解できない。
そんな状況で罰は与えたから大丈夫とか寝ぼけてるの?馬鹿馬鹿しい。

“理性”の概念がない社会に育っていたら自分も嬉々として危害を加える側にまわっていたかも知れない。そんな社会はきっと自己責任主義だ。
安全は存在しないかも知れないが、その代わり不条理も存在しない。
自分の行動が自分の運命を定める、ただそれだけ。
そんな理想と比べて今の社会はすごく生きにくく、善人に不親切だ。

そしてここに矛盾が存在する。
この善人に不親切な“理性”の概念が通常時は善人の武器や防具になる。
“理性”に縛られた社会ってのは言うなれば同調圧力が強い社会だ。
「タブー」「空気」「モラル」「社会の風潮」そんなものが重視される。
それは大多数の一般人にとっては問題なく守れるもので、ともすると秩序ある社会とさえ感じられるかもしれない。

でもそれは彼らの意識が“理性”によって無意識下で制限されてるから。
ある種の洗脳のように従うべきと信じ込まされた“理性”の働きで別のやり方を模索することを恐れてさせられているだけ。
その恐れは彼らが新しい世界を求め、踏み込むことを否定する。
自分に踏み込む勇気がないだけ、自分が盲目なだけなのに我々にやばいやつのレッテルを貼り付け、成功しようものなら異端と糾弾する。

今更そんなものを気にするような弱者ではないし人から理解されない自分ってのも気分がいいのだが、それでも面白くないものは面白くない。

我々は異端者ではなく開拓者だ。ただ後に続く人がいないだけ。
フロンティアの存在に気づき、リスクを覚悟で踏み込んで見せた。
その事実を無視して「ズルで得をしている」と評価されるのは心外だ。

自己責任、放任主義、差別に格差、上等じゃないか。
他人に及ぼす影響にも責任を取れ?他人を理解し受け入れろ?
他人に対して責任を負えるとか何様のつもりなのか。
他人を理解できるとか思い上がりすぎだろ。自分と他人は違うと知れ。

この現実世界は善人にも悪人にもなれない自分に厳しすぎる。



下書きが30の大台を超えてきたからせっせと供養してるけど、長いこと温めてた下書きって書けなかったやつだからやっぱ書けないわ。