「理不尽の連鎖を断ち切り、自分と他者の尊厳を守る」
過去から受け継いだものと尊厳を守る大切さ
私が育った昭和の時代には、義理や根性が美徳とされ、理不尽な言動や暴力も「しつけ」の一部とされていました。
大人たちは「ゲンコツで頭をコツン」と叱ることも当たり前で、私の中学校でも教師が生徒の耳をつかんで引きずるようなことが起きていました。
それを見ていた私たちも、その理不尽に声を上げることができず、ただ耐えていました。
その光景は今も心の中で生々しく残っています。
時が経ち、社会は大きく変わりました。
いまや暴力や暴言は犯罪とされ、厳しく罰せられます。
当時耐えてきた理不尽な行為は、現在では許されないものです。
「あのとき私が受けた暴力や暴言は何だったのか?」と考えてしまうことがあります。
私が受けた辛い経験は果たして正当だったのか。そんな思いが心に浮かんでは消えます。
大人になった今、ふと自分を振り返ると、過去に受けた苦しみが、時に他人への否定的な言葉や態度として表れているのではないかと気づくことがあります。
理不尽なことに直面した時、あるいは満たされない思いが溢れたとき、自分がされたのと同じ態度を、無意識のうちに年下の人たちに向けてしまっていないか。
かつての自分が受けた言動を、自分も誰かに向けていないか、とふと疑問に思うのです。
ですが、私たちは誰もが尊厳を持つ、かけがえのない存在です。
誰からも犯されることのない権利を持っています。
そのためには、過去に受けた傷や苦しみを乗り越え、私たちはその理不尽の連鎖を断ち切ることが必要ではないでしょうか。
そして、自分自身の尊厳を守ることは、周りの人に対しても肯定的な態度で接し、良い関係を築くことから始まるのではないかと思っています。
自分を大切にし、他人にも温かいまなざしを
ふとした瞬間、「相変わらず馬鹿なことやってるな」「相変わらずズレてるな」「そんなことも分からないのか」と無意識に年下や立場の弱い人に投げかけてしまうことはないでしょうか?
かつて自分が理不尽に耐えた経験が、知らず知らずのうちに他者への厳しい言葉として現れているかもしれません。
また、厳しい言葉を相手に向けるとき、その言葉は実は自分に対して言っているのかもしれません。
そして、その否定的な言葉が自らを傷つけていませんか。
「自分にしてほしいように、他者にも敬意をもって接すること」。
これは、自分を大切にし、自分自身に敬意を示すことと同じことです。
そうして他者に向けた温かな言葉や態度は、いずれ自分への尊敬や敬意として返ってくるのです。
過去の連鎖を断ち切るために
「自分なんて」「馬鹿な奴だ」などと自分を否定する声が心に響いたとき、それは自分を責めるための声ではなく、尊重されたいという心の叫びかもしれません。
そして、自分に向けられた暴力や否定的な言葉を、他者に向けることをやめる時、その連鎖はそこで止まります。
私たちはそれぞれが尊厳を持ち、価値があり大切にされるべき存在です。
この理不尽の連鎖に気がついた時には、きっと未来を変える一歩になるのだと思います。
今、この記事を読んでくださっている方も、もしも心に否定的な声が響くときがあれば、どうかその声を「大切にして欲しい」というメッセージとして受け取ってみてください。
過去の自分を癒し、自分を許し、未来の自分のために、尊厳を取り戻す一歩を一緒に踏み出してみませんか。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
私が目指しているのは孤立のない共生社会の実現です。
この記事は、この経験を基にして書いています。ぜひご覧ください。