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ボランティア活動を通じて学んだこと〜弱さの中にある力を信じて~

「ボランティア活動を始めて半年。
そこで気づいたのは、弱さこそが力となり、私自身が救われる瞬間があるということ。子どもたちや高齢者から教わった、隣にいることの大切さとは?」


今年、ボランティア活動を始めて約半年が経過しました。子ども食堂や高齢者施設、不登校の子どもの居場所支援、ひとり親世帯への食料配布、NPO活動への参加など、様々な機会を経験させていただいています。

これらの活動では、地域で生活する方々の実情を直接体験し、見て、聞いて、教えていただくこと、そして私を仲間として受け入れていただくことを大切にしています。

支援する側であってもされる側であっても、私たちは対等な人間同士です。頭では分かっていても、知らず知らずのうちに上下関係のような立場を作ってしまうことがあると感じました。

私のことを知らない高齢の女性が、「あなたは役所から調べに来た人ですか?」と尋ねてきました。
体に染みついた何かが、そう感じさせてしまっているのかもしれません。
このままでは、活動で大切にしている部分にたどり着けないと感じました。

仕事ではいつも、「○○から来ました○○です」と所属を仮面のように使い、自分を誇示してきたように思います。

でも、ボランティア活動は違います。
私がどこの誰で、どんな仕事をしているのか、どんな家族がいるのか、つまり「どんな人間なのか」を誰も知りません。資格や役職なども、誰も求めていません。

私は私として、その場で仲間として受け入れてもらえるか。
裸の状態で私自身を認めてもらえるのか。

仕事では、虐げられて、排除され、抑圧され、まるで罪人のように扱われている私を、受け入れてもらえるのだろうか。

私は、合わない組織や環境の中で長年苦しんできました。

「このような私に何ができるのか」いつも思います。

でも、ボランティア活動を通じていつも感じるのは、そんなことは誰にとっても重要ではなく、大切なのはただ隣にいることだということです。

むしろ、私自身が苦しいからこそ、その隣に座らせてもらっているのだと思います。無理に明るく振る舞う必要もなく、自然体のままでいられる中で、子どもたちや高齢者の方々からたくさんのことを教えてもらっています。

帰り際、子どもたちは手を振ってくれました。

彼らの小さな胸に抱える痛みや苦しみは、計り知れないものだと思います。

でも、そうやって一歩踏み出して、集いの場にまで来ることができています。みんなと同じ空間で楽しく過ごしています。
彼ららしさを誰も非難したり否定する人はいません。

そのような場に参加させてもらって、むしろ私の方が居場所をいただいているような気持ちになります。

「弱者」(ヘブライ語でダリム)というのは、権利や能力が不当に抑圧されたり奪われたりしているために立場が弱いということであって、人間として弱い人という意味ではないのです。
実際に福祉活動に長年たずさわっておられる方々は、きっと誰よりもこのことに気付いておられるに違いありません。弱い立場に置かれている人は、誰よりも耐える力、人の痛みを共感するやさしさを持ち、真橋を見抜く敏感さを備え、人を大切にする心がゆたかです。彼らに対しては、励ますことよりも励まされることの方が、教えることよりも学ぶことの方が多いということも実感しておられるはずです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Iコリ12・9)という主の言葉は真実だからです。1)

私は、理不尽に社会的立場を無理やり剥がされました。

しかし、その出来事があったからこそ、今こうしてこのような活動ができています。
教えてくださる皆さん、そしてこの学びの機会を与えてくださる皆さんと出会えて、私は少しずつ生きる力を取り戻しています。

最後に、文献から引用してこの記事を終わりにします。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害そして行き詰まりの状態にあることを、キリストのために満足しています。何故なら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(Iコリ12・9110)2)

ここまで読んでいただきありがとうございました。
私が目指しているのは孤立のない共生社会の実現です。

参考文献
1) 本田哲郎著『小さくされた者の側に立つ神』新世社 169頁、2003年
2) 同上 74頁

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