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祖父は戦争神経症を患っていた

 一昨年の2023年10月23日から27日の朝日新聞夕刊に「戦争トラウマ」の記事が掲載されていました。従軍し帰還したはいいが、精神を病み、仕事に就かず、暴力・怒声・酒に溺れ、半ば廃人のような後半生を送った人たちが紹介されていました。これを読み、ああうちの祖父も「戦争トラウマ」を患っていたんだな、と思いました。その祖父の血は自分にも引き継がれているのです。
 明治生まれの祖父が従軍した戦争は1918年から22年にかけての「シベリア出兵」でした。ロシア革命の波及を恐れた列強諸国がロシアに出兵し、反革命組織を支援しようと企てたのです。18年8月にウラジオストクに上陸後、沿海州を制圧、その後西進しバイカル湖岸まで進出します。その間パルチザンとの戦闘が続き、村は焼き払われ、夥しい将兵の血が流れました。最終的な戦死者の数は3333人とも言われています。
 以前祖父と断片的に交わした戦争の話を思い出します。「ロシア語でこんばんはは『ドーブライ・ノーチ』と言うんだ」「戦闘で二度死に損なった」「浦塩(ウラジオストク)はいい所だぜ」「ハリネズミをバケツで捕まえて、食べたものだ」「煙草の味を覚えたのは兵隊の時だ(祖父は終生煙草吸いでした)」……
 本土帰還後の祖父は一応表向きは農林業従事者+内職者でしたが、それ以外のサラリーにはありつけず、子沢山で生活保護に頼る身でした。記事の方々のように暴力を振るった記憶はありません。また祖父は酒が一滴も飲めませんでした。ただ時には感情に任せて烈火のごとく怒りました。祖父の場合は、トラウマの捌け口を女に求めたのです。祖父は二度結婚し、十人の子供を作りました。
 祖父は昔田舎でよく見かけた、徘徊老人でした。用もないのに人様の家を訪れ、無駄話・茶飲み話をして帰っていく老人です。それはそれで田舎のことですし、歓迎してくれたでしょうが、中には煙たがっていた方もいたのではないでしょうか。祖父は昼夜、あちこち飛び歩き、何かのきっかけで奥さん以外の愛人を作っていったらしいのです。詳しくは知りませんが、その数はかなりに上るようです。入れ込んだ女性に金品なもちろん、さらに家まで与えていたようなのです。小作農にして日雇いのような人間にそれだけの金があったのでしょうか。実はあったようなのです。祖父は中国戦線で戦死した叔父さんの国からの死亡見舞金を丸々懐に入れた上に、田畑山林、果ては自らの軍務での勲章まで、金に換えられるものを次々と売り払っていたようなのです。あまりの無秩序な振る舞いに周囲の人もさすがに見るに見かねて、それなりの策を打ってくれたようなのです。それで家屋・宅地と田畑山林、生活に困らない分が残りました。それらは現在宅地を除き、すべて私の相続物件となっています。ただ厄介なことに、当時良かれと思って、実家住居の建っている宅地の登記を祖父名にしないための措置がとられたのです(祖父の父親の配偶者名義)。これがため相続はややこしくなり、相続分としての土地はどんどん細分化されたのです。私は少しでも相続分を集約しようと疎遠となっていた親戚一同と連絡をとりました。そこで発覚したのが祖父の行状でした。既に長女を宿していた第一夫人への卑劣な扱い……。離婚の無残な真実が暴かれたのです。結局長女の家系からは宅地の権利を譲り受けてもらうことはできませんでした。祖父の災いが孫の自分にまで及んでいることを痛感しました。その祖父の血は世代を超えて自分の中にも流れているのです。翻ると、戦争の犠牲者というものは単純に目に見える形で戦死傷者・罹災者と限定的に割り切れるものではないということです。祖父のように生き残った者も本土で腑抜けとなり、災いをまき散らし、孫の代まで累を及ぼす場合もあるのです。そのような人たちも歴とした戦争の犠牲者ではないでしょうか。その意味で、新聞記事に見られるような調査・研究が進むのは良い事であり、この方面から戦争に反対する・戦争を止める動きがあるべきだと強く思いました(日本においてこうなのですから、相手国のロシア(ソ連)の現状はどうなのでしょうか。満州国蹂躙の事実を見る限り、相当な数の戦争PTSDを生んだのではないでしょうか)。
 今でもコーデュロイの生地を見るたびに祖父の焦げ茶のズボンを思い出します。冬はそれに黒のジャンパー、黒の毛糸帽といった格好でした。靴は地下足袋でも履いていたのでしょうか。夏は長女の夫のお下がりのスーツや帽子を召していたようです。ポケットには鼻紙などなく、洟は手鼻で飛ばしていました。まあ、見方によっては衛生的ではあります。また山を走るのが速かった。幼少時山の中を担がれ、気づくと尾根の反対側に連れ出されたことがあります。祖父は男性では今時珍しい総入れ歯でした。何故そうなったのでしょうか。若い頃の殴り合いの喧嘩が原因だったのでしょうか。それとも尽きせぬ情欲の結果だったのでしょうか。
 そんな祖父も情欲の暴走に懲りた時もあったようで、落ち込み反省もしていました。「やっぱり夢中になっちゃ駄目なんだな。お前も○○に夢中になるな」「俺は死にてえよ」「俺を殺さないんか」……90半ばまで命の炎を灯した人の言葉とは思えません。母に言わせると、祖父は占いで孤独な人だと言われたそうです。また、巧みな画才があったとも。祖父は無趣味だったため、そうした才能を発揮することはありませんでした。度々の訪問を受けた長女宅家人の祖父へのイメージは「面白い人だった」。「彼女の写真をいつも持ち歩いていた」その彼女たちは祖父の葬式には一人として現れなかったと思います。
 祖父は元来、気が小さく、大人しく優しい人だったに違いありません。だからその人格を豹変させてしまった戦争を憎む。
 私が成人した時の祖父の言葉が忘れられません。「お前の人生はまだまだこれからだよ」説得力のある重い言葉でした。〈人は誰にでも仏が宿る〉祖父自身は無信仰でしたが、私はこのことを信じたい気持ちです。


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