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不快だと思う閾値が低く、長期的な関係を築くのが難しい

私は不快と感じる閾値が低いのか

相手の言動から察する心の内がなんとなくわかる。そこに少しでも悪意が含まれているととても不快になる。友達間であっても、言葉の中に含まれる悪意にいらいらしてしまう。友達からしたらそれは冗談のようなものだろう。こんな敏感な自分は社会の中で生きるにはなかなか困難が多いのかもしれない。とはいえ、持って生まれた性質に近く、矯正しようとしてもそれはさらなる苦痛を運ばざるをえない。


悪意らしいものが嫌い

本当は悪意がなかったとしても、悪意が含まれていると私自身が感じれば相手を即座に敵だと見なしてしまう。心の「敵アラート」が大音量で警報音を鳴らす。離れてください、という声とともにアラートが聞こえる。まったくもって幻聴ではないが、心の音がする。

繊細すぎるという弱みと強み

これは一般的には弱みである。しかしこれは一般的な人には気づかない快不快を考えることができ、細部にまでこだわった配慮のできるサービスを提供できるのではないかと思う。とはいえ、私のような人間が活躍できる分野というのは少ないだろう。いわゆるエリートには、繊細さを求められていないと思う。繊細さは折れやすさだ。強く強く太い根のある者が世間的なエリートに向いている。社畜とも言うのだろうか。とにかく、不快感の閾値が人より低いのか疲れる。

長期的な人間関係を築くのが困難

私は多くの人と長期的に仲良くしていたい。しかし、警報アラートが途中で鳴ってしまう。悪意センサーが反応してしまう。これは良いことなのか悪いことなのかいまいちわからない。社会的にはどちらかといえば悪いことだろう。そうはいっても、また新たな友人を探す機会ができ、結果として多くの人と関わることができる。長期的な関係を築けない弱さには相手に申し訳なくなる。社会性の低い人間で申し訳ない。とはいえ、私のこの性質を変えるのは不可能に近い。離れるべきという声が聞こえてしまう。そういえば、こんな私にも長年の友人が1人いる。今はお互いのために距離を置いているのだが、明確な日程を決めて数年後に再会を予定している。今はその人はどうしているのだろう。距離を置いているということからこれもまた結局は社会性の低さが露呈したかもしれないことに苦笑する。

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