勝手な死生観
人はいつか死ぬ。
思えば小学生くらいの頃からずっと、人を含めてすべての生物は、なぜ産まれて生きて死ぬのか、不思議だった。
結局死ぬのなら、生まれてくる意味はどこにあるのだろうか、と。
脱皮に失敗して死んだセミや蝶の幼虫。
人が歩いているときに気づかずに踏んでしまったり、車が走っているときにぶつかって死んでいく無数の生物。
人だって、どんな生き物であっても、産まれてきてすぐに亡くなることはある。
生きる時間に長短あれど、生命は生まれていつか死ぬ。
生まれる前に死ぬ場合だってある。
であれば、そのように、すぐに亡くなってしまったとしても、この世に生を与えられたことに、意味はあるのではないかと。
生きた時間の長短に関わらず。
生きることに意味はなく、人生は長い暇つぶしのようなものである
と考える人もいる。
確かにそれもそうだと納得する。
私もそう感じていた。
人生は長い暇つぶしだと。
だからこそ、いつ死んでしまうのかわからない人生、やりたいことをやり切ろうと思った。
やりたいこと、やりたかったことのほとんどは、やり切った気はするし、それで確かに、人生は充実した。
長い暇つぶしに、自分なりに、自分の人生に対する意味は見出せた。
しかし、それは、この世に命が存在する意味とは少し違うように思う。
命は、その存在した瞬間や、生きていたという事実そのものに、意味を持つのではないか。
だから、生きとし生けるもの全て、ただそこに存在するだけで完全で素晴らしいことなんだと。
過去、無数の奇跡が積み重なり、紡ぎあい、混ざり合い、命は繋がってきた。
そう、あなたの命だって間違いなく。
もしいつか、その命が終わったとしても、奇跡の連鎖が終わったとしても、命がそこに存在したという事実そのものが、完全であり、素晴らしいことなんだと。
生物の分類や生態、環境という複雑な事象を数値データを解析したり、予測してきた、これまでの科学的な視点からは大きく異なるけど。
今は確かにそう感じる。
歳をとった証かもしれない。
私は勝手に、驚くほど完全で、素晴らしいこの命を認識して生きていく。
あくまでも自分勝手に。