バレンシアの片隅からお届けするカリッカリのアイツ【Calamares a la romana】
父の血は半分ビールでできている。お正月や冬場の極寒の時期には熱燗を飲むことはあっても、風呂上りの一杯は冬でもやっぱりビールだったし、近所の酒屋から毎月ビール中瓶を1ケースずつ届けてもらっていた頃もあった。
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仕事から戻ってテーブルに着くなりビールの栓を抜く。「ビールは生温くても泡立ちが悪い」「冷え過ぎは歯に沁みて痛い」何か言わないと気が済まない父。
丸みのあるいつもの小さな栓抜き。ポシュッという爽快な音をたてて瓶から外れた王冠がテーブルの上に落ち、瓶口から冷気がスッーと抜け出る瞬間が、子どもながらに大好きだった。魔法のランプみたいだと思ったから。
そのまま父はトプトプとお気に入りグラスにビールを注ぐのだけれど、グラス八分目まで注ぎ入れてから、その三分の二くらいを一気に飲み干す。
「プハァ、美味しぃ~っ!」
そう言って上下の唇を満足そうにキュッと結ぶ。これが晩酌開始の合図。
デーブルにはすでに、茹でた枝豆、網で軽く焙ったスルメ、冷奴、母得意の筑前煮など、少しずついろんな物が並んでいる。どれも決して豪華なものではない。
カレーライスやオムライスといった子ども好みの洋食も登場することはあったけれど、カレーライスやオムライスでは酒は飲めんと父がいう。お陰でいつしか、父がいる夜はツマミ中心の食卓となっていた。
姉いわく、私たち姉妹が酒飲み人間になってしまったのはツマミで育ったせいらしい。
それが伏線になったかどうかは別として、大人になり結婚し、自分の家庭を持った私は今、タパスとピンチョスで有名なツマミの国住んでいる。
その昔、グラスの虫避けのために輪切りのパンで蓋(tapa)をしたことから名が付いたタパスと、手で取って食べやすいように串(pincho)に刺した食べ物ピンチョス。パンで蓋をしながら食べた文化こそないけれど、日本でもオカズを主食のゴハンの上に乗っけて食べたり、串焼きや串揚げにしたりすることを考えれば、全く別世界の話でもない。
そういう訳で、我が家の食卓にも晩酌のたびにツマミがズラリとテーブルに並ぶ。手の込んだものは要らない。オリーブの実、さっと揚げたアーモンド、チーズ数種と生ハムが数切もあればもう天国。けれど、絶好のビールのツマミと聞いて、1番に思い浮かべるのはアイツ。
最近、ようやく父の言葉が理解できるようになった。カレーライスやオムライスでは飲めん。そう、そうなのだ。
アイツを主役に今日の晩酌作りがスタートする。
本日の私の晩酌セット
一品目は『トマトとツナと卵のサラダ』。冷めても問題のない料理から順に作っていく。早めに作って冷蔵庫で休ませると、素材同士の味が丸みを増す。このサラダは、とある持ち寄りパーティーで出会った料理で、トマトの美味しい季節なら毎日でも食べたい一品。
トマトは肉厚のものを選ぶ。皮も厚くて舌ざわりが悪ければ、薄く剥き取って食べやすい角切りにする。茹で卵、オリーブの実も大きめにザクザク。これを、油を切って大きくほぐしたツナ缶の身と一緒に合わせる。ビネガーは加えない。トマトの優しい酸味を楽しむ。塩と上質のオリーブオイルがあればそれで充分。あとは勝手に美味しくなってくれる。
二品目の『ヒシコイワシのマリネ』は家庭料理の定番。新鮮なイワシを見つけたらまず冷凍して寄生虫対策。面白いのが、我が家では、夫が酢漬けにしたイワシを和風に箸を使ってわさび醤油で食べ、私がスペイン風にパセリとニンニクでマリネにしてフォークで食べる。
25年も一緒にいると、それまで相手が慣れ親しんだ食習慣までが自分の中に浸透していく。真ん丸の顔つきだったのに顎骨がツンとしてきたのは、米ではなくパンが主食の生活になったからではないかと母に指摘されたことがあった。いつか日本人の身ぐるみをつけたスペイン人になるだろうか。確かに血中ラテン濃度がグングン上昇しているのは自他共に認める 。
ようやくメインの料理に取り掛かる。『イカのリング揚げ・ローマ風』が本日の主役。
よく「フリット」と呼ばれることがあるけれど、フリットはイタリア語で、スペイン語ではフリート、もしくはフリトゥーラ。ただ、この『イカのリング揚げ』に関しては一般に、「カラマレス・ア・ラ・ロマーナ(イカのリング揚げローマ風)」とか「カラマレス・レボサダス(イカのリング衣揚げ)」と呼ばれている。
スペイン風じゃなくてローマ風。不思議に思うかもしれないけれど、歴史上、ローマ帝国の影響を強く受けたこの国では、ローマ風と名のつく料理や食材が結構ある。
卵白を泡立てたり、炭酸水を加えたり、様々な『イカのリング揚げ』レシピがある中、我が家のレシピは、義母の姉エンカルナおばさんのもの。いろいろ試してみたけれど、やっぱりこの作り方が一番。
先ず、よく冷えた缶ビールのプルタグをプシュっと引っ張り開けてビールをグラスに注ぐところから始まる。金色の液体と一緒に立ち上るふわりときめ細やかな泡。もう、これだけでゾクゾクしてくる。缶がグラスから離れるが早いか尖らせた唇をグラスにを近づけて、泡の口髭にもお構いなしにゴクッと豪快に喉元に送り込む。
「プハァ、美味しぃ~っ!」
そう言って上下の唇をキュッと結ぶ。これが、調理開始の合図。
ヤリイカ2杯を丁寧に洗って、7㎜.程度の輪切りにして水を切る。そして、さっきの残ったビールをボールに入れて、小麦粉を混ぜていく。ビールも小麦粉も目分量。「緩めのソースになるように」がおばさんのレシピ。ビールの泡を消してしまわないように衣を作る。
フライパンに新しい油を入れて火にかける。油の温度が上がるまでの間、軽く塩をしたイカに小麦粉を薄く丁寧にまぶし、余分な粉は落としておく。油の温度は175℃。用意した衣液にイカを潜らせて一つずつ油へ滑り込ませると、イカリングの淵に王冠のように金色の花が咲く。
揚げたてのアツアツ。少し揚げすぎた小さな欠片を口に入れると、大袈裟なくらいにサクッという音がする。残った揚げ玉まで本当にサックサクなのだ。サックサク、ポリッポリ、カリッカリといった食べ物は、食感をくすぐり、聴覚から味覚を刺激する。唾液栓は既に全開。
「あ、写真、写真!」
慌ててカメラを構えるも、普段でも写真が下手なもんだから、焦ると余計に上手く撮れない。納得のいかない時間が1枚、1枚と消えていく。
ふと思う。
揚げ物は、アツアツを食べなきゃ意味がない。
そう思って手を止めたところに、痺れを切らした夫がキッチンに急かしに来た。
『イカのリング揚げ』を急いでテーブルに運び、少し残っていたチーズとメンブリージョ(かりんのゼリー)もテーブルへ。見れば、待ち切れない様子で勝手にポテトチップスまで並んでいる。
料理を大皿からそれぞれの皿に取り分ける。ああだ、こうだの世間話は何より大切なツマミ。
「俺も一杯だけいいかな」
長男がグラスを引っ張り出してきた。
「試験中じゃないのか?」
「昨日、終わったよ」
「やらん!俺の分が減る!」
息子にビールを注ぎながら愚痴る夫の目尻が優しく緩む。すっかり成人した子どもたち。こうして一緒に家で晩酌できるのも今のうちかもしれない。
いつもなら、食べ終わるとさっさと部屋に入ってしまう次男も、今日は珍しくテーブルに残って大学リモート講義や彼女の話をしてくれた。ちなみに、今日の試験はイマイチを大きく越してイマサンだったらしい。
晩酌時の話のネタ選びというのは難しい。下手するとアルコールに引火する危険性を伴う。次男が今、この「ちなみ」ネタを持ち出すということは、全員がご機嫌な証拠。
用意したツマミはポテトチップスに至るまで完全制覇。『イカのリング揚げ』はちゃんと最後の一つまでカリッカリ。
夫がボソッと呟く。
「晩酌はウチがいいな」
晩酌は味わい方は人それぞれ。
酒と料理と人が、ええ塩梅に混和されて味わいのある晩酌になる。
キッチンに戻って、撮影用に用意してあった小皿や小道具をそっと棚に戻した。
【Calamares a la romana (イカのリング揚げローマ風)】
《材料》
ヤリイカ 400g
ビール 200ml.
小麦粉 150-200g
塩 適量
揚げ油 適量
小麦粉(まぶしつけ用)
注意:ビールと小麦粉の量は目安です。お好み調節してください。アリオリソースを添えれば気分はスペイン。
ヒシコイワシの酢漬けの作り方はこちら