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【カラヒージョに酔いしれる】

【眠らない街から】 

 睡眠不足の町があるとしたら、きっとマドリードの町をさす。薄闇の中で前夜を引きずったまま、早朝4時や5時まで静けさの中を彷徨う人がいるかと思えば、7時にもなれば、ちゃんと翌日の顔をしたバールからコーヒーの香りが漂っている。

 一夜明けて、やっと今から休息をとるために家に向かう人と、これから仕事に出かける人の双方が同じバールのカウンターで《カフェ・コン・レチェ》(ミルク・コーヒー)を胃の中に流し込む。慌しいマドリードの朝の独特の風景。

 与えられた24時間の使い方は人それぞれ異なる。全く違うタイムテーブルで生きている人たちが同じ場所で同じ物を飲んでいる。とっくに24時間を超してしまった長い昨日を終えるコーヒーと、新聞を広げながらゆっくりと体を目覚めさせる朝のコーヒー。カウンターの中ではすっきりとバーテンダーの服装をした男性が、ごく当たり前のように無言でコーヒーを用意している。

 コーヒーを注文する声と、新しくコーヒーをセットするため、古いコーヒー粕を捨てるゴンという鈍い音。ミルクを温めるシューという蒸気が吐き出る音。静かに丁寧に目の前に置かれるソーサーとカップがチッと小さく打ち合う音。

 音楽なんて必要ない。小さな店の中が、挽きたてのコーヒーの香りに包まれる。客も店員もきっと顔見知りなのだろう。それぞれのコーヒーを飲み干すと、代金を確認することもなく、皿の脇にコーヒー代を置いて去っていく。一連の流れが、一枚の絵の中にストンと収まっているようだ。

 ただ一杯のコーヒーを飲む、その一瞬の空間を共有する。きっと今までに何度も繰り返された空間。けれど、一度として同じではなかった空間。その空間に自分がいるのが場違いな気がして、そっと立ち去ることにした。

 コーヒーの代金を置いたことを声に出さず身振りだけで伝えると、カウンターの中の男性の目元が緩んだ気がした。

 

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【カラヒージョに酔いしれる】

 西部劇の映画の撮影にも使われたことのあるマドリード郊外のチンチョンは、アニス(ういきょう)とニンニクの産地。こじんまりした村も長閑な雰囲気はふらりと出掛けるのに打って付けで、観光名所にもなっている。

 行ってみようか。今日は別の町に行くつもりだったのだけれど、思いついた時に行動しないと、いつまで経ってもそのままになってしまうことが多い。「またいつか」というのは、来ない日のことをそう呼ぶ。棚から牡丹餅も、上手く牡丹餅を受け止めないことには無駄になってしまう。


***


 マドリードからは車で約1時間。町のいたるところで名物のニンニクに出くわすものの、不思議と匂いは気にならない。趣のある緑色のバルコニーが印象的なマヨール広場が、村のど真ん中にチョンと鎮座している。

 この村では、内陸地のカスティージャ地方ならではの炭焼き肉や豆の煮込み料理だけでなく、《ロスキージャス》や《ペスティーニョ》と呼ばれる揚げ菓子のように、昔ながらの味に触れることができる。

 いずれもバタ-ではなくラード、そして名物のアニス酒が使われている。古くから家庭で作られた伝統の味。ちなみに、こういったお菓子はスペインでは、パン屋で量り売りされている。さっそくパン屋探してみると、苦労することなく、広場のすぐ側にパン屋を見つけることができた。

 パンの焼ける香ばしい匂いに誘い込まれ、それに続いてラードやアニス、アーモンド、シナモン、砂糖がごっちゃになった独特なエスニックの匂いに捕まる。店の中では、いくつもの飾らない素朴なお菓子が出迎えてくれた。


 ようやく自分が注文する番になっても目移りしたままでいると、店のおばさんが、いろいろな種類のお菓子を少しずつ入れてくれるという。

 私が指をさす先にあるお菓子が、ビニール袋の中に一つずつ入れられていく。子供の頃に駄菓子屋でお菓子を買い占めた高揚感が蘇ってくる。あれもこれもと入れてもらっていると、ビニール袋はあっという間にパンパンになってしまった。

 支払いを済ませ、袋を受け取ろうとした時、おばさんが言った。

「一個、おまけしておくよ」

 個数じゃないし、値段じゃない。旅先で出会うこの優しさが、最高に嬉しい。自分の顔が見えないのが残念で仕方ないけれど、きっと溶けそうな笑顔で笑っている。
 
 どのお菓子もこってりと甘くて、二つも食べたらもう充分。ビニール袋の口をキュッと結んで崩れないようにそっとバッグの中に仕舞った。


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 アニスは主に、パンやお菓子に使用する香辛料としてヨーロッパに伝来したセリ科植物の種子で、古代エジプトや古代ギリシアで既に使用されていた歴史がある。日本ではあまり知られていないのだけれど、スペイン家庭では香辛料としてだけでなく、その薬用効果を利用できる身近な食材としてもよく使用されている。

 新生児、つまり、乳を飲んでいる頃の赤ちゃんは、空気をうまく逃すことが出来ないので、授乳の際には背中をトントンと叩いてやる必要があるのだが、アニスの実はゲップを出やすくする作用がある。そのまま数粒口に放り込んだり、そのまま薄目に煎じたり、カフェインの入っていないマンサニージャ(カモミール)茶に混ぜてやったりする。

 このお茶が日本でいう番茶のようなもので、この国の人が生まれて一番最初に口にするお茶なのだろう。それぞれが生まれた場所で、最初に口にするお茶。国籍やら人種に関係なく、そこに生れた者として自然に受け入れていく。私が懐かしい味として記憶しているお茶の味は、私の子どもたちにとっては苦くて変な味なのだ。どちらが正しいとか、そうでないとかいうものではない。ただ、懐かしい味として細胞に刻まれる。



 休憩がてらテラスに座っていると、おじさんたちが冷酒のオンザロックのようなものを飲んでいるのが気になった。聞けば、アニスを原料としたお酒らしい。水で割ると白濁するので、氷を入れて食後酒にクイっとひっかけるのが地元の飲み方だそうだ。

 アニス酒には甘口と辛口、超辛口があり、アルコール度数によって、40度以下がドゥルセ(甘口)、45度から50度がセコ(辛口)、それ以上74度までがエクストラ・セコ(超辛口)に分類される。消化促進の効果のあるアニス酒を食後酒として飲む。実に理にかなっている。

 とはいえ、74度のアニス酒を試すのには、かなり勇気がいる。この村に宿を探す羽目になりかねない。そこで、コーヒーに少しだけアニス酒を加えてもらうことにした。エスプレッソコーヒーにウイスキーやリキュールなどを加えた飲み物は《カラヒージョ》と呼ばれている。


本日、アニス酒入りのカラヒージョ。
《カラヒージョ・デ・アニス》

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(オマケ参考写真)

ただ、注意して欲しい。ポトポト程度のウイスキーしか入っていないしみったれた「ウイスキー入り紅茶」とはわけが違う。ドバッと気前よく入れられるアニス酒。分量配分からすると完全に「コーヒー入りアニス酒」になってしまうことがある。

《カラヒージョ》を注文した謎の東洋人を心配そうに見守るおじさんたち。脳ミソが麻痺しそうなくらい強烈な《カラヒージョ》は、コーヒーの味なんかしない全く別の飲み物だったけれど、おじさんたちをこのままにするわけにはいかない。

「Está muy bueno! (美味しいよ!)」

と言ってみる。おじさんたちは、そりゃ、そうだろう、とでも言うように肩をクイッと上げて、満足気にいつもの彼らの世界へ戻って行った。

私はというと、次の訪問地であるトレドの地図をチェックし、さてと、と立ち上がろうとした瞬間、この村での宿探しが決定した。


結局のところ、予定なんて未定でしかない。食と共に時間を綴る。

こうしてスペインの時間はゆっくりと流れていく。


黄色のティント 旅行 写真 Twitterヘッダー

お題『スペインの飲み物についての質問や体験談』

「気になる飲み物があるんです!」
「実は、大変な目にあいまして……」

などなど。前回同様、コメント欄に書き込んでください。Spacesで読ませていただきますが、来週水曜日のSpacesで生コメも大歓迎です。

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