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それらしいテクストを目指して
明けましておめでとうございます。新年の挨拶に代えて、このnoteの所信表明のようなものを述べていきます。前振りが長いので結論は目次からお飛び下さい。
昨年の暮れにも似たようなことを書きましたが、このnoteは元々個人的なアウトプットとして始めたものです。それがいつしか心境が少し変化していて、今ではもう少し人様にご笑覧頂くことを意識して書くように心がけています。なんでかと言うと、ごくごく個人的な経験によるものなんですが。
私が短期養成という促成栽培で労働者としても人間としても今よりさらに未熟なままに支援現場に参入した当初、わたしはそれはまあ、うまくいっていませんでした。先輩上司からかなり散々に言われていて、その話を知人友人、恩師にすれば必ずといっていいほど「ブラックだ」と言われたものでした。ピーク時は始発から終電まで(18時間/日くらいでしょうか)職場にいて、しかもその成果物が翌朝のミーティングでゼロになる賽の河原のよう日々でした。あのときにわたしのこころは死んでいたと、今は遠い思い出のように感じます。まあでもそのくらい仕事が出来なかったし、仕事が出来るようにならなければ生きていけないと当時は思い詰めていたので、さもありなんというか。なのにわたしは生き延びてまだ社会福祉現業員として生計を立てていますから、不思議なものです。
最終的にわたしの苦境を解決したのは、才はあるが適応の悪い後輩が来たことでした。そこで先輩という役割がわたしの命を繋いだのですね。初任者の時は生きていられないほど苦しかったけど、後輩達にはなんとかつらい思いをさせずに適応し成長してほしいという、今思えば代償としか考えられないエネルギーがわたしの原動力でした。まあこれは半分正解で半分不正解だったのですが。
駆け出しの当時、わたしは特にどこの学会にも出入りしていなかったし、まともな卒後教育も受けていませんでした。わたしが縋ったのは本でした。学生時代から親しんでいた中井久夫や計見一雄をはじめ、結構いろいろ読んだものです。彼らは精神科医ですが、病気をただ病気として見るのではなく、ひろく人間存在を理解するものとして文章を書いているので、自分のお客さんをよく理解すれば仕事がうまくいくようになる、という浅慮で彼らの文物に縋っていました。大げさに言えば、わたしは人間理解を培うことによって支援者としてどうにか生き延びようとしたのです。そのとき、ソーシャルワーカーの書いたものやソーシャルワークについて書かれたものはわたしの手元にほとんどありませんでした。
社会システムや制度についての理解の甘さを痛感するようになったのはそれより少し後の話です。そこでは文化人類学、政治学、経済学などが役に立ちました。ただそれは、浅賀ふさが言うところの「クライエントを通して社会を見る」みたいなものであって、大前提としてクライエントという存在をきちんと深く理解しなければなりません。わたし達ソーシャルワーカーが社会について言及するとき、そこにはクライエントの具体的な利益不利益を含む生活を思い描いていなくてはならないと、わたしは強く思います。その意味で、社会的な働きかけは目的ではなくて手段です。
所信表明のようなもの
ソーシャルワーカーは個人的なことも社会的なことも理解しなくてはなりませんが、それは必ず個人から、という順序を守る必要があります。逆順はありません。そのために必要なテクストが、未熟で孤立した当時のわたしに精神医学や心理学しかなかったのは、今にして思えばかなり微妙だったな、と思います。いやもちろん、ちゃんとしたテクストがアカデミアには昔からあるとは思います。最近になってアメリカのソーシャルワーカーが書いたものを少しずつ読んでいると、こういうものをもっと早くから読むべきだったような気がしますね。理解できたかはわかりません。
きちんとしたものを書くのであれば学会やアカデミアで書くべきです。もちろんです。現業員もそういうものにお金を払って学ぶべきです。
ですが、その望ましさにもかかわらず、わたしの同輩、後輩の少なくない方々が、そういったきちんとした折り目正しいテクストにアクセスすることなく、悩み、苦しみ、そして辞めていってしまったのですよね。あるいはそうならなかった人たちは、個人を飛び越えて社会をものする人たちになっていったわけです。だからわたしは、全部ではないけれど、ソーシャルワーク現業員が気楽に読めるテクストらしきものを意識して書いてもいるのです。
社会について語るソーシャルワーカーは世の中にたくさんいます。制度について詳しく教えてくれる現業員もたくさんいます。けれども、目の前の人をどう理解したらいいだろう、この人の対人関係はどのように構築されてきたのだろう、あの人はどうやって社会に繋がれるのだろうという、目の前のクライエントとの共同作業にまつわる、ソーシャルワーク現業員によるテクストはインターネットでは案外見当たりませんね(noteでのお付き合いの中にはそういうことを書いていらっしゃる方がいて、他のフィールドに比べて少しだけ肩身の狭い思いが和らぐものです。)。両者は排他ではないので、どちらかだけが望ましいとか優れているという話ではありませんよ。ただ、人間について書く人が少しくらいいてもいいだろう、と言いたいだけです。
ソーシャルワーカーとしてミクロもミクロである人間理解のことを書くことは、わたしにとって示威行為でもあります。精神科医や心理士ほど洗練されたものはわたしには書けませんが、ソーシャルワーカーは社会適応や運動だけを旨とする職業ではなく、理想論や思弁を弄ぶだけでもなく、まずもって人間理解に基づく対人援助の専門職だぞということ、そして現場で悪戦苦闘している同輩達の多くはそういう人たちであることを、及ばずながらでも書くことで示したいのですね。たぶん。
とはいえ、基本的にはお読み頂ける方にはどなたでも、というopen-heartedなnoteを心がけています。よろしければ今年もお付き合いのほど、よろしくお願いします。
おしまい