人はなぜ無低に誘われるのか

はじめに

 本稿には無低に誘われる人を一からげにする意図も貶めるつもりもありません。

繰り返される無低批判

 去年の終りに無低についての記事を書いた。これは主に無低側の事情や無低を紹介する福祉事務所側のロジックに焦点を当てた内容にした。無低に誘われる人の立場に立った文章となるとどうしても個人的な内容に触れざるを得ないので、書くことを躊躇していた。しかし、実のところ悪徳無低の栄えは無低側だけでなく入居者側にも要因(要因であって責任ではない)がある。こんなどーしょーもない記事も出たことだし、人はなぜ無低に誘われるのかについて、先述の記事同様に卑見を述べようと思う。例によってアカデミックな裏付けのない個人的な雑感であるので注意されたい。

「無低」にブチこまれた23歳男性

 当該記事を読んでみると、悪徳無低に吸い込まれていく理由がよくわかる迫真の記事である。彼は新聞配達で搾取され、無低に搾取され、この記事に至ってジャーナリストのシノギになった訳で、私は悲しい気持ちになった。この記事以外でも無低を批判する人たちの論調はだいたい同じで、本質を迂回した出口の話に終止している。無低の供給を断ってもそこに需要があるという根本には頑なに触れないその論法が、彼らの批判する当局のやり方と驚くほど似通っているのは偶然ではなかろう。

うまく生きられないということ

 日本語が通じない人に出会ったことがあるだろうか。もちろん日本語でない言葉を母語とする人の意味ではない。自分の名前以外の字を書けない人を見たことがあるだろうか。文字が読めないということがどういうことかわかるだろうか。ひと月分の予算が固定費の分もろとも数時間で費消されることがあるのを知っているだろうか。一人で世界全体と対決しているように生きる人と言葉を交わしたことがあるだろうか。あなたの何気ない言葉が鋭利なナイフのようにこころを苛んでしまったことはあるだろうか。良かれと思ってしたことが全て否定されたことはあるだろうか。自ら地獄へ突き進んでいく人の背中を追い掛けたことはあるだろうか。キャッチボールにならない会話から了解を得ることの難しさがわかるだろうか。現代にも放浪の民がいることを知っているだろうか。
 記者や学者はそういう人と出会うことはないだろう。仮に出会ったとしても、彼らの人生について何らかの責任を当人と按分することはないだろう。まして上のような記事を書く人間には言語による意思疎通が不可能な人を相手にしては記事は書けまい。また、象牙の塔の高みから無低を批判する人たちからも見えることはあるまい。見ようともしないのだから当然であるけれど。だから、物書きやアカデミアが私たちのお客さんを認識する日は来ない。いつまで経っても他人事なのだ。
 彼らの方もまた、自分たちに接近してくる意図を読むから、シノギにしようと近寄ってくる連中は避けられがちだ。だから、記事のようなあちこちで搾取され続ける人だけが、文章として世の明るみに出てくることになる。そういう限られた人たちだけを記事にしたところで、何かが変わるわけではない。

無低に来る人たちがみなそういう人たちなわけではないけれど、人よりも不器用だったり、世渡りがうまくなかったり、損な性分だったりすることは多い。そういう人たちが現代の日本で他人と合意を結びながら生活していくのは難しい。定型的な枠組みから自由に生きるのはなお難しい。定型的に生きるにしても、現代社会における契約や手続きを成功裏に処理していくことが、人と関わり合いながらいきていくことが、ときには意味内容について合意のある言語表現それ自体すら難しいのだ。

 人がうまく生きていけないことには理由がある。家族との不和や逆境的育ちのような考えで説明できることもあれば、病気や障害といった名前がつくこともある。未だにピタリとくる言葉のない生きづらさもあるかも知れないけれど、理由があること自体は確かだ。理由があって現代社会が要求するライフスタイルと、それに必要な能力水準を満たさないことはどうやら確からしいようだ。
 これは状況に照らして一時的なこともあるし、悲しくもパーマネントなこともある。当人に責任を求めるにはあまりにも悲惨な状況がたくさんある。だから、無低に誘われる人がすべて、パーマネントに能力がないと言いたいわけではない。社会通念が想定する能力水準は非常に流動的で相対的なものだ。正規分布のグラフにカットオフする線を引いて決めているようなものかも知れない。だから、社会通念が変わればうまく生きていくことの意味合いも変わる。
 社会的な設定された能力水準が望ましいかどうかについては論じない。それが自分を良心的だと思う人間が望ましいと考える能力水準よりもはるかに高いことはほとんど自明で議論の余地もないからだ。或いは人はそれを能力の問題ではなく社会のインターフェースの問題だと言うかもしれない。ライフスタイルの多様性かもしれない。それは一面で正しいと私も思う。しかし、界隈以外のほとんどすべての人間が社会通念として持っている暗黙の能力水準を満たしていないこともまた、ほとんど自明で議論の余地もないのだ。業として対人援助をする者は、自分たちと社会通念とのあいだで人間の想定がズレているということをまず認識しなければならない。

人が疎外されるとき

 現代日本にはいろいろと人を支援する制度があって、どれもこれも手放しでは褒められないにしても、使わないよりはよほどいい制度がたくさんある。民間にも便利なサービスがたくさんある。しかしそのどれもが、合意や契約といった社会通念上の能力水準を求めてくる。特定のライフスタイルを求めてくる。手続き一つとってみればわかる。文章が読めない人には契約ができない。自分は病気ではないと考える人には障害福祉サービスは使えない。意思の疎通が図れなければ一部の例外を除いて生活保護は受けられない。不動産屋や大家と合意が得られなければ家は借りられない。
 支援や支援者の中にも、人間かくあれかしという無条件の前提が常に存在している。求められる水準や条件を満たさない人はあらゆる支援やサービスからキックアウトされている。コミュニケーションが上手く取れない人は、他人の善意に預かることすら簡単ではない。無低に誘われる人たちの中には、あらゆる支援や善意から締め出されている人が多い。そういった支援があることすら知らずにいることも少なくない。そういう人たちと日々顔を突き合わせている者は、かつてはみんなと同じように持っていたであろう社会通念上の人間の想定を揺るがされることになる。
 最も深刻なことは、上に書いたようなこの世でうまく生きていくことができない人たちが、社会通念上は存在しないことにされている、という現実だ。うまく生きていけないという事実、うまく生きていけない人間の存在をひた隠しにしたがる人がいる。アパートを希望する人はみな賃貸借契約を完遂できて生活が維持できると思い込みたがる。まるでタブーのようにしたがる。人間の能力が均質ではないことを頑として否認する。そうして支援者の「普通」を投影したがる。でもそれは社会通念を共有する人間の願望ではあり得ても、事実ではない。この点は、一般の人よりも非参与的に業界に接点を持つ記者や対人援助を生業にする人たちに特によく見られる傾向ではないかと思う。

 去年の記事で、悪徳無低は原因ではなく結果であると書いた。穴だらけの制度からこぼれ落ちて無低を必要とする状況があまりにも多いのに、それが社会通念上想定されていない、社会制度上一顧だにされていないことこそが、悪徳無低を必然の結果にするもう一つの要因だ。人間の善意だけで悪徳無低に誘われる人たち全てをフォローしきれない事実は、いみじくも先進的な各種民間団体が身を以て証明しているところかと思う。
 あらゆるお手盛りの支援からキックアウトされることと、手続きや契約ができないことや自分の生活を自分で作れないこととは地続きである。それは、社会通念に照らせば能力がない、或いはうまく生きられないということになるだろう。そういう人たちが社会からも"理解者からも"いないことにされて素通りされた先の一つに無低がある。いかなる態度であるにせよ、無低だけが彼らを存在する人間として接する局面が確かにある。そして、無視できない数の人間を無視する社会の中にこそ、悪徳無低は商機を見出すのだ。

 ただ、上でも書いたように、何かができないこと、うまく生きていけないことには理由がある。それ自体は恥ずべきことでも非難されることでもなくて、人間のありようであると、私は強く思う。事実に色はついていない。だから私は、社会通念が想定する水準を満たさない人が一定数いることを、倫理ではなく事実の問題としなければならないとも思う。
 これは簡単なことではない。既に知的障害や境界知能という概念が一知半解のまま乱暴に扱われて、多くの人を傷つけていることからもわかると思う。これまでに、うつが、発達障害が、双極性障害が、そして愛着障害が、生きづらさを説明する概念から人を疎外する概念へと捻じ曲げられつつある。うまく生きていけない人につけられるあらゆる名前は、当初の意図を離れて人を傷つける道具に堕する可能性を秘めている。うまく生きていけない人自身に要因を求めることは、その原因と責任を人間の側に押し込める危険性と表裏一体である。
 ただ、うまく生きていけないという事実を悪魔化してひたすら他者や社会に帰責する態度も間違っていると私は思う。それは結果的に彼らを社会通念から締め出すことにつながるからだ。果てしない他責の先に支援の根拠を見出すことはできない。私に言わせれば、このような記事は件の男性が社会通念から疎外されることに加担している。何かがうまくできないというただの事実を倫理的に扱うことは逆説的な能力主義への囚われにほかならない。それを恥ずべきこと、倫理的な保護の対象だと思うから、事実に蓋をしたくなるのだ。そういう発想が、うまく生きられないというただの事実を神聖不可侵かつ不可視化する。無低に誘われる人を「かわいそう」で「憐れな」人という檻に閉じ込めたところで事態はよくならない。檻に閉じ込めた支援者も檻の外の自由市民も、誰も彼らを対等な人間だとみなしていないことこそが問題だ。事実を無視して成長はない。それが、無低を批判する彼らの言い分に毎回変わり映えがなく、そして状況の改善に今一つ寄与しない本質的な理由であると私は考える。

まとめ 悪徳無低が潰えるとき

 うまく生きていけないということは事実である。したがって、うまく生きていけない人がいることもまた、事実である。それ自体に倫理的な意味はない。社会の中でどう振舞おうが人間は人間に過ぎない。私たちはこの点で能力主義の裏返しとしての倫理から自由になる必要がある。うまく生きていけないことも含めて一人の人間であると私は言いたい。そうして初めて、彼らは確かに"いる"人として他者、国家、社会から他の人たちと同様に尊重され得るように思う。それは彼らを倫理の対象とすることと本質的に反対の意味だ。聖なる支援者も憐れな当事者も想像の中にしか存在しない。現実世界で彼らが等しく人としてとして扱われるときが、悪徳無低が潰える最初の一歩になる。

2022.10.31追記
タイトルをはじめ無低が無底になっている箇所が全部で10か所以上あったので訂正しました。本当に恥ずかしい。

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