共感、理解、何もわからん
ここのところ、家族や親族についてそれまでのわたしの理解を改めさせるエピソードが立て続けに起きていて、果たして理解とは、共感とは、ということがわからなくなりつつあります。
こころと向き合わないように思われていた人が実はわたしたちの内的な心理を鋭く洞察していて、普段から受け身なように見えて実は孤立を避け一貫して人の輪の中にいるような生存戦略を取ってきていたり、また別の人は、およそ他人にどう思われているかを一顧だにしないような気まま勝手に見えて、その実は家族関係の軛に完全に屈従しながら生きていたことに気づいたりして、自分から見える他人というのが如何に人間存在の断片しか認識していないのかを思い知らされました。
またこれは少し違う角度の話ですが、家族とちょっとした諍いを起こした際に、親からの善意が、ときにわたしが独立した個人であるという感覚を傷つける行為にしかならないことを、勇気を振り絞って伝えてはみたのですが、その反応は「ああ、この人にはこの、いい年をして親に世話を焼かれることの不快感というものがついぞ理解できないのだ」という感覚を確信に変えるものでした。そしてまた、それが親という生き物で、おそらく人の親になることがないであろうわたしが「親という生き物の感覚を理解する日は来ないのだろうな」ということにも気づかされたのでした。まあ、錯誤かもしれませんが。
わかっていたつもりが全然わかっていなかった、わかりあおうとがんばってみたけれど却ってわかりあえないことがわかってしまった、ここのところそういう体験ばかりな気がします。そしてその結果、そもそもわたしがわかっているつもりのことは果たしてどこまで合っているのか、という考えが浮かんでくるようになりました。結局、わたしという関数の集合の内部変数を入れ替えただけのものを他者として認識しているだけで、他者つまるところわたしでないものがどのような関数の集合で、その内部変数にどのような値を代入して出力されたものなのか、実はほとんど何も知らなかったに等しいのだな、と感じています。わかりにくい例えでアレですが、そういうことなのです。
共感的理解とはよく言ったものですが、この全く違う関数の集合であるところの他者に対して共感という感情的営為は本当に成立するものなのでしょうか。果たしてわたしが体験しているものは共感なのでしょうか。目の前にいる他者が共感されたという趣旨の反応や言葉を返してきたとして、その刺激を共感として受け取ることはわたしという関数内の処理に過ぎないのではないか。
自分でも何やらおかしなことを書いている自覚はあります。しかし、わたしはクライエントはもとより他者一般と、そういう根本的な部分でボタンの掛け違いをしたまま生きてきたような気がします。