生活保護の倫理化と再生産
生活保護は権利である。先代の首相もそう言っている(多分)。もう少し踏み込んで言えば"ただの"権利である。例えば高額療養費の限度額申請と同じくらいにはただの権利で、住民票の異動と同じくらいにはただの手続きである。或いはそうあるべきである。しかし、現実にはさまざまな局面において生活保護は倫理の問題にされて、ただの権利の享受主体が倫理の対象になる事態が起きている。それにはいわゆる支援者とされる社会集団が一役も二役も買っている。支援者がただの権利について回る倫理を再生産している。そこには外部性があり、結果としてただの権利をただの権利にしておけない状況に貢献している。
支援者の中にも、極めて善意から生活保護を「回避できる」ことにポジティブな意味を見出す人たちがいる。グループホームは家賃補助が出るから、B型作業所で工賃を稼げば生活保護にならずに地域生活が送れますよ!なんてことを平気で言う。
目下、生活保護の倫理化に最も貢献しているのは扶養照会についての支援者のアナウンスメントだろう。生活保護における扶養照会は、民法上の扶養義務規定に基づいて、2親等(3親等だそうです)以内の親族にコンタクトを取って要保護者を扶養する見込みがあるかどうかを確認する手続きになる。扶養義務者が経済的な援助が出来るならその分の保護費が少なく済んだり、場合によっては保護を要しないことになる。この手続きが生活保護申請を阻む障壁になっているというのが扶養照会批判の本旨の一つだ。しかし、しかし、扶養照会はなぜ忌避されるのだろうか。虐待から逃げてきたので扶養照会されると居場所を知られてしまうという話はよく聞く。もっともだと思う。こっちは今回の議論の対象ではない。こういう人も含めて、現実の不利益があり得る人に扶養照会をかけるべきではないという主張に異論はない。
また、家族に知られたくないからという話もよく聞く。有り体に言えば恥だから、と。しかし、こういう立派な記事からも、生活保護の障壁が扶養照会という具体的な手続きというよりその下に通底する倫理的な忌避に基づいていることが窺える。
言わんとすることはわかる。だから扶養照会するなら生活保護は申請できない、と。生活保護に倫理の問題が混じり始める。果たして、支援者は生活保護を恥だという理解に如何なる態度であるべきなのだろうか。
本当は支援者とされる人たちは、家族に知られることや社会から疎外されるとか、そういう倫理観そのものに異議を申し立てなければならないけれど、それは今のところうまくいっていないと私は思う。現在の困難の個別的な解決を越えて扶養照会一般を標的にすることは、結局のところ生活保護について回る倫理観、恥だとか落伍者だとか、そういう社会的に内面化された倫理観を受容し、再生産することにつながる。生活保護はけしからんという社会のコンセンサスを補強する。
本当は、今まさに生活保護を必要としている人の障壁を取り除くのと同時に、まだ見ぬ要保護者やその家族、社会に対して「生活保護はただの権利」だと言い募っていかねばならないのだと思う。家族や社会に対して負い目なく生活保護を受けていると言えるところを目指さないといけないと思う。扶養照会に対するメディアでの支援者の立ち回りは、生活保護をただの権利にするのとは逆方向に向いていると私は感じる。
現在のところ、生活保護の受給を倫理によってコントロールするという明らかに意図された権能は非常に有効に機能している。非保護下で苦境にある人たちの溜飲を下げて正当な保護を受けることを思いとどまらせるような障壁が確かにある。支援者が社会の眷属として生活保護を倫理化し、再生産することで、そのコントロールに貢献している。つくづく、Naiveであることは恐ろしい。だって、彼ら支援者は概して善良で高邁で、ひとえに善意からそのようにしているのだから。
2022.10.15追記
扶養照会の範囲は3親等以内なので記載を訂正しました。