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サイエンスを語るなら、まず山頂を決めよ
はじめに
先日参加した眼科手術学会を見ていて、私は強い違和感を覚えた。それは、毎回同じ議論が繰り返され、何ら進展がないままセッションが終了するというお決まりのパターンだ。しかも、座長もパネリストも、そして聴衆も、それに疑問を感じている様子がない。これは果たして科学の名に値するのだろうか。彼らは同じ話で盛り上がって、何も解決しないことに何ら疑問を感じていない。単なる世間話のようになってしまっていることに気づいていない。例えば、科学的議論が成熟している分野では、異なる意見があっても検証可能なデータや理論が用意され、それを基に最適なアプローチが議論される。しかし、現状の学会ではそのような過程が見られない。
眼科に限らず、手術は「サイエンスをベースにしたアート」であると言われることがある。たしかに、手術には術者の経験やセンスが問われる側面があり、完全に標準化することが難しい部分がある。しかし、「サイエンスをベースにした」と言うからには、そこには統一された原理原則が存在しなければならない。例えば、物理学や化学の実験では、同じ条件下での再現性が求められるのと同様に、手術手技も条件ごとに最適な方法が確立されるべきである。科学とは結論を出し、それを次のステップへと進めていく営みである。議論がただの意見交換で終わり、何の解決も見出せないのなら、それはもはやサイエンスではない。
同じ議論を繰り返す学会の構造的問題
現在の学会において、多くのセッションが「パネリストが意見を述べる→座長が適当にまとめる→終了」という流れで終わる。これは一見すると活発な意見交換の場のように見えるが、実態はまったく異なる。議論の目的が明確でなく、何を解決しようとしているのか不明確なまま、各術者が自分の経験を語るだけの場になってしまっている。
こうした現象が繰り返される背景には、以下のような問題がある。
結論を出す責任がない パネリストたちは、個々の経験や好みを語るだけで、それが本当に科学的に正しいのか、または解決策として妥当なのかを深掘りしようとしない。結論を出すことが求められていないため、責任を負う必要がないのだ。
科学的な視点の欠如 議論において、「この問題に対してどのようなアプローチが最適か?」という問いが明確にされていない。したがって、議論がバラバラの方向へ進み、聞いている側は「結局、何を基準にすればいいのか?」という疑問を持つことになる。
個人のアートの披露会になっている 手術は「サイエンスをベースにしたアート」と言われるが、現状では「アート」の部分が強調されすぎている。つまり、パネリストが「自分はこの方法で成功している」といった発表をするだけで、それが科学的にどれほど妥当なのかが検証されない。聞いている側は「好きな方法を選べばいいのか」となり、医学の進歩が停滞してしまう。
登山に例える学会の在り方
この問題を登山に例えると非常にわかりやすい。科学的な議論においては、まず「どの山頂を目指すのか」を決める必要がある。山頂とは、解決すべきテーマのことだ。例えば、「網膜裂孔の位置別に最適なタンポナーデを決定する」などの具体的な課題を設定する。
しかし、現在の学会では、この「共通の山頂」が見えていない。あるパネリストは北アルプスの話をし、別のパネリストは富士山の話をし、また別のパネリストは屋久島の話をする。これでは、聞いている側は「そもそもどこを目指しているのか」がわからず、結局好みの話になってしまう。
対照的に、もし最初に「目指す山頂」を明確にすれば、各術者が異なるルートを示すことに意味が生まれる。「このケースならルートAが適している」「この条件下ではルートBの方が成功率が高い」といった科学的な整理が可能になるのだ。
科学的議論を成立させるために必要なこと
例えば、網膜剥離の硝子体手術において、下方の裂孔に対するタンポナーデは空気で十分だと主張する者たちがいる。では、その根拠は何かと問うと、「治るから」だという。これがサイエンスと言えるのか?
硝子体手術では、硝子体の処理、特に裂孔周囲の処理をどうするのか、排液をどのように管理するのか、タンポナーデが裂孔に適切に当たり液が侵入しないようにするための工夫が必要である。網膜剥離の治療目的は、剥離した網膜を復位させることにある。では、そもそも論として、ガスを空気に代えることで得られるメリットは何か?例えば、コスト削減や早期のガス吸収といった点が挙げられるが、それが本当に治療目的を達成する上で最適な選択肢なのか? こうした要点を整理せずに、ただ「空気で治る」と主張するだけでは、科学的な議論とは言えない。これらを語らずに、ただ「空気で治る」と主張するのは科学ではない。
もちろん、秘伝のコツのようなものを公開したくないという心理があるのかもしれない。しかし、それは科学ではなく、科学的根拠が薄く、主観的な意見に偏りがちである。科学的に議論するためには、上述した各プロセスを明確にし、共有する必要がある。それが語れないから「手術はアートだ」とお茶を濁し、毎回同じ議論を繰り返しているに過ぎない。これでは聞いている側も学術的な価値を見出せず、次第に議論そのものに興味を失ってしまう。 手術に関する議論を本来あるべき形にするためには、以下のようなアプローチが必要だ。
解決すべきテーマを明確に設定する 例えば、「下方裂孔に対する最適なタンポナーデは?」「PVRグレードC1に対する最適な手術戦略は?」といった明確なテーマを設定することで、議論の焦点を定める。
パネリストはテーマに沿ったエビデンスを持って議論する 「私はこうやっています」ではなく、「この条件ではこの手技が最適である」といったデータに基づいた発言を求める。
異論を整理し、何が確定的で何が不確定かを明示する 異論があること自体は科学にとって健全である。しかし、異論をそのまま放置するのではなく、「この部分はエビデンスが不足しているので、今後の研究課題とする」といった整理を行うことが重要だ。
セッションの最後には、何らかの結論を出す 「この条件ならAが推奨」「エビデンス不足の部分は今後の課題」といった形で、必ず何かしらの方向性を示すようにする。
結論:科学的意思決定の場へと進化させよ
このような議論で座長が最後に「先生方のご意見がきけて非常に有意義でした」と言ったとき、私は思わず驚きを感じつつも、その言葉を飲み込んだ。 現在の学会は、「パネリストの好みの発表会」であり、「科学的議論の場」とは言えない。もし本当に「サイエンスをベースにしたアート」なのであれば、まずサイエンスの部分=**解決すべきテーマ(山頂)**を設定し、それを基に議論すべきである。
議論がただの意見交換に終わるのではなく、次のステップへ進むための「科学的意思決定の場」となるよう、学会の在り方を見直す必要がある。さもなければ、何十年経っても同じ議論を繰り返し続けることになるだろう。