自分で決められないことの面白み
■「あっ決定権ないんだ…」
タイトルや、表紙デザインやらが、やっと出そろってきました。
思えば、この本を出すことが決まってから、もうなんだかんだで半年以上経過しているんですね。
商業出版の場合、タイトルや帯の文言、そして表紙のデザインなどの決定権は著者にはありません。まあもちろん有名になっていけば発言力は増していくのだとは思いますが、私の場合は、著者としての実績は全く無いので、発言力もあまりない(ように感じます(笑))
本来、自分で決めたいタイプの私にとって、これはなかなかのストレスでした。出版をプロデュースしてくださる方が最大限わたしの意向をくみ取って出版社に提案してくれるものの、「どれもダメでした…」となることたびたびでした。
■自分に問い続ける
言葉を絞り出すやり取りしていく中で、いろいろ自問自答して考えました。この考えたことがとっても大変で、でも振り返るととても大事なプロセスだったなって思います。
この本で一番伝えたいことは何だろう?
誰がどうなってくれたらうれしいんだろう?
この本を通じて実現したいことは何か?
ビジョン・フレームももちろん描きました(^-^)
■委ねることで見えてくること
でも、なんか途中からちょっと頭が切り替わってきたんですね。自分で決められないってことは、言い換えれば自分のいつもの見方・考え方を超えることでもあるかもと。
そこからは、自分的に絶対NGな文言や切り口以外は、出てくるものに身をゆだねてみようというスタンスで、楽しんでみようと思いました。
そして出てきたものが・・・
■絞り出して手放す
考えに考えて、言葉を絞り出して、でもそれが採用されず、あるところでそこへの執着を手放す。
どうせ決定権ないんだからと考えることをやめるのでもなく、自分のこだわり以外を拒否し続けるでもなく、そのプロセスの中で見えたものは、きっと自分ではつけないだろうけど、でも面白い!という感覚も芽生えて。
人と協働して何かを創り出していくということは、このプロセスの中で出てくるものを面白がれるかどうかが、とても大事なんだと思う。
「創造」を意味するクリエイティビティ。創造の「創」の字は傷という意味でもある。予定不調和やミステイク、自分にとって一見望ましくないと思うような出来事やアイデアなどを面白がった時、そこにクリエイティビティが生まれるのかもしれない。
そうそう、そういえば前にこんな記事も書いてたっけ。