「一点の卑俗なところもなく、
清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ
私の念願するところのものである。
その絵を見ていると邪念の起こらない、
またよこしまな心を持っている人でも、
その絵に感化されて邪念が清められる
・・・といった絵こそ私の願うところのものである。
芸術を以て人を済度する。
これ位の自負を画家は持つべきである。
よい人間でなければよい芸術は生まれない。
これは絵でも文学でも、
その他の芸術家全体に言える言葉である。
よい芸術を生んでいる芸術家に、
悪い人は古来一人もいない。
みなそれぞれ人格の高い人ばかりである。
真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。
私の美人画は、
単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、
写実は写実で重んじながらも、
女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい
という気持ちから、それを描いてきたのである。
私も現在の絵三昧の境に没入することが
出来るようになるまでには、
死ぬる程の苦しみを幾度も突き抜けてきたものである。
そのようなことを、つきつめて行けば自殺するほか途はない。
そこを、
気の弱いことでどうなると自らを励まして、
芸術に対する熱情と強い意志の力で踏み越えて、
とにもかくにも、私は現在の境をひらき、
そこに落着くことが出来たのである。
あの当時の苦しみや楽しみ、今となって考えてみると、
それが苦楽相半ばして一つの塊となって、
芸術という溶鉱炉の中でとけあい、
意図しなかった高い不抜の境地をつくってくれている。
私はその中で花のうてなに坐る思いで、
今安らかに絵三昧の生活に耽っている。」(上村松園)
以前、
わたしは奈良の松伯美術館で開催された上村松園展に行った。
上品で優美、内に強さを秘めながら、
あくまでも、たおやかで、気品高い女性像の数々。
生誕130年記念の特別展だった。
「序の舞」、「鼓の音」、「娘深雪」、「母子」、「楊貴妃」等々、
【品がよい】とは、
このことかという作品が並んでいた。
わたしは、展覧館内を逍遙しながら、
いくつかの作品に魅了された。
そして、
ひとつの疑問を持った。
上村松園は、どのような思いで、
これらの絵を描いたのか?
その答えは冒頭の上村松園の言葉にあった。
「一点の卑俗なところもなく、
清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ
私の念願するところのものである。」
「芸術を以て人を済度する。」
「よい人間でなければよい芸術は生まれない。」
「真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。」
「気の弱いことでどうなると自らを励まして、
芸術に対する熱情と強い意志の力で踏み越えて、
とにもかくにも、私は現在の境をひらき、
そこに落着くことが出来たのである。」
やはり、真の芸術家は違う。
思想が違うのだ。
上村松園の絵には、【気品】が漂う。
だが、
その絵の裏側には、血の滲む努力と苦労がうかがえる。
まして、当時は女流画家も少なかった。
その艱難辛苦は、想像にかたくない。
わたしは昔から
なぜか【品】のある人に、スッと心が惹かれる。
【品】とは、なんだろうか?
広辞苑によると
【品】とは
「人や物にそなわる(好ましい)様子。風格。くらい、人がら」
とある。
わかるような、わからないような感じなので
もう少し他の関連語で調べる。
【品性】
ひとがら。人品。人格。
哲学用語では 性格を道徳的価値として見る場合の呼称。
【気品】
どことなく感じられる上品さ。気高い品位。
というような言葉が並ぶ。
わたしは
もう少し調べてみた。
すると
【気品】について
このような記述があった。
「気高い趣。どことなく凛(りん)として上品な感じ。」
(大辞泉より)
この言葉が、
わたしの中の【品】という、イメージにピッタリくるものだ。
「気高さ」、「凛としている」、「上品」、
この3点が、【品】の中に込められている。
さらに私は懸命に考えた。
閃いた!
「純一無雑の高貴なる魂の現れ」だ!
高貴なる魂が、自然な形であらわれたものが、
【品】だと。
そして、
【品】は、身につけられるものだろうか?
そして、
【品】は、どうしたら身につけられるのだろうか?
を考えていたときに、
ある文章と出逢った。
【気品の礎(いしずえ)】という言葉だ。
どのようなものだろうか?
それは
一言でいえば、
【義務を果たす】ということだ。
義務を果たしていない人は、
【自信がない】ので、
言動に落ち着きがなく、
薄っぺらな印象を与える。
身なりを整え、
礼儀正しく
立派に振る舞っているように見えても、
どこか品位に欠ける人がいる。
経営者や政治家などの中でも、
社会的地位があるにもかかわらず、
何か軽薄な感じを受ける。
【言動に重み】がない。
何か信用できないという気持ちを
払拭することができない。
そんな品のない人がいる。
何故か?
それは、
【個人的な義務を怠っている】からだ。
どこか品位に欠ける人は、
個人的な義務を怠っている人が多いという。
たとえば、
配偶者に対する配慮をないがしろにしていたり、
子供の養育を人任せにしていたりと、
【私的な部分】で
【自分でしなくてはいけないことをいい加減にしている】
社会的な人の目につく部分の義務は遂行しているのだが、
【内々のことに関しては手抜き】をしているのだ。
【外見だけをよくして中身は整えられていない】
したがって、
社会的立場から個人の場に移ったとき、
【安住できる環境がない】
その「根なし草的な不安」が、
【落ち着きのなさ】として表れている。
つまり
【すべての義務を果たしている】という
【安堵の気持ちに基づいた自信】が生まれてこないのだ。
そういえば、時折
品がなく、どこか落ち着きがない人を見かける。
安定感のある【気品の礎(いしずえ)】
という土台を培うために
私たちは、どのようなことをしたらいいのだろうか?
【常に心を平静に保つための要件の一つは、
自分はベストを尽くしているという充実感】だ。
どこかで手抜きをしているという【やましさ】があれば、
それは【心の乱れ】となって表れる。
人に対するとき、特に何げない会話のときなどに、
潜在的な【引け目】として感じられて、
積極的な態度に出ることのできない理由にもなる。
【身近な義務の重要性】を忘れてはならない。
たとえば、
困っている兄弟がいるにもかかわらず、
それを見捨てて海外のボランティア活動に従事したりするのは
本末転倒だ。
本来自分がしなくてはならないことから【逃避】するために、
社会的義務のあることをして、
【自分を欺(あざむ)いて】いる。
では、具体的に【義務を果たす】ために、
どうしたらいいのだろうか?
それは
「身近なところから
自分のできることを
一つずつしていくことによって、
自分をつくりあげていく。
自分の周囲から固めていって、
徐々に範囲を広げていく
手法をとらなくてはならない。
そうすれば自分の基礎も盤石だ。
そこから揺るぎない自信が出てくるし、
人間としての信頼性が生まれてくる。
それが気品の礎(いしずえ)にほかならない。」
(山崎武也著「気品の研究」より)
何故、私は、子供の頃から、
品のあるものや、品を感じる人に惹かれるのか?
【品(ひん)】とは何か?
【品(ひん)】のある人とない人との違いは何か?
その
【品(ひん)】は身につけられるものなのか?
さらに、
【品(ひん)】を身につけるためには、
具体的にどうしたらいいのか?
に思索を深めてきた。
そして、私の結論は、
「【品(ひん)】は克己より生ずる」
ということだ。
身近な当たり前のことを、
きちんとやり遂げる習慣を持ち続けている人には
【品(ひん)】を感ずる。
誰にひけらかすのではない。
また、自慢するのでもなく、
自分が決めたことを、
自分が成すべきことを、
日常でも仕事でも、
自己を律し、
義務や責務を、
果たす習慣を持つ人は、
やはり、どこか【凛として品がある】。
逆に、他人が見ていない
プライベートな面で、
だらしない事や、
いい加減なことや、
他人に言えないことをしていると、
それは、見る人が見ると、
【品のない】、
【顔】や【表情】、【しぐさ】に表れる。
だらしないとは、
【やるべきことをやらない】ことだ。
義務や責務を果たしていないことだ。
それが、【品のない顔】として表れるのだ。
自分で決めたことをやらない。
自分との約束を常に破る。
やるべきことをやらない。
そんなことを続けていると、
どんどんと、
心に【やましさ】が宿り、
だんだんと、
どこか【自信のない顔】となって表れる。
それでいいのか?
【顔】には、人の生き方があらわれる。
生まれついた端正な美人や美男でなくとも、
年齢を重ねるに従い、
【いい顔】になる人の例を、いくつも私は見てきた。
そして、
わたしが知っている
多くの【品のある】人の顔には、
ひとつの共通項があることも発見した。
それは
気負いもなく、
また、華美でもなく
【静かな自信】に
充ちた表情をされておられることだ。
【自分だけが知っている】
自分が成すべき事を、
【自分は、きちんと果たしている】と、
自然と胸を張った生き方が
【顔】に表れている。
生まれつきや、人工的に創った、
顔の善し悪しではなく、
ぴんと伸びた背筋、
堂々と胸をはって、
わたしは生きているという
生き方が
自然と
【凛とした顔】となっているのだ。
そこに
質の高い環境、
優雅な立ち居振る舞い、
鷹揚(おうよう)な態度、
などがかさなると、
自然に、
【品位】と【威厳】が
そなわるのだ。
本当に身分が高く人間として立派な方は、
そのような【品(ひん)】をそなえている。
その辺りが
「貴賓は気品に通じる」所以だという。
この【品(ひん)】のテーマを纏めるにあたり、
多くの品のある人や作品や自然物と
接しながら思う。
わたしなどはまだまだ足元にも
及びもしないが、
この一生を賭けて
見せかけだけの【品】でなく、
本当の【品】を身につけるべく
怠りがちな心に鞭打って、
自己の人生に対する責務を果たし、
【克己】を実践躬行する
誓いを新たにした。
完
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参考及び引用
河北倫明監修 上村松篁編「上村松園」 山崎武也著「気品の研究」
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