何もないとはそういうことなのだ
先月の末、こんな記事を書いた。
実家の中のモノというモノすべて、一切合財が運び出された日の記事だ。
それから1か月、昨日その実家に寄った。
母の命日、4回忌。
すでに実家は売却に向けてさまざまな手続きを進めており、手放す前に設備点検を受けたところ、浴室のシャワーヘッドの交換が必要だといわれた。
たしかにあらぬところから水が漏れていたなと思い出し、やむなく交換に応じることにしたのだが、昨日が偶然その作業日だったのだ。
業者は、別件の進捗によっては到着がかなり遅れるかもしれないという。
まぁそれはしょうがないから、来るまで待つしかない。
そう思って自宅を出る準備をしながら、はたと気がつく。
——実家には何もない。
それはもちろん理解していた。
実際、先月末に搬出作業が終わったあとの実家もこの目で見ているから、どんな状態かは分かっている…つもりだった。
しかし、その意味するところまでは考えていなかった。
いつ来るか分からない業者を、
コーヒーでも飲みながら待とう——ケトルがない。
ゆっくり本でも読みながら待つか——ソファがない、ライトがない。
PCで仕事しながら待つしか——机がない、イスがない、Wi-Fiがない。
ふつうに思いつく待ち方は、ことごとく無理な話になっていた。
何もないとはそういうことなのだ。
あらゆるデジタル機器を遠ざけてストレスを軽減し、生命力を回復させる「デジタルデトックス」というものがあるが、それどころではない。
アナログすらない実家で過ごす時間は、もはや「文明デトックス」と呼んで差し支えない。
底冷えするのにカーテンもない、エアコンもない。
うっすら埃が積もっているのに、掃除機もない、雑巾もない。
もちろんスマホの電波は通じる。
が、せっかく他に何もないのにそんなものをいじって業者を待つのはどこか悔しくて、あえてスマホはリュックの底に押し込んだ。
これで本当に何もない。
業者の到着を待つ間、僕はイラストを描くことにした。
毎年この時期になると手描きするイラストがあるのだ。
僕は33年間欠かさず大学時代のサークルの仲間に送る同窓誌を作っていて、その表紙に置くイラストを毎年描いているのだ。
当時のサークル名が〈キャロット〉だったこと、その後の同窓会名が〈にんじん倶楽部〉であることから、イラストには必ずウサギが登場する。
その時どきの世相や僕の個人的な思いを代弁する、顔を見せないウサギ。
実家に何もないなら、そのイラストを描く時間に充てようと思った。
紙と鉛筆だけ持ち込んで、何の音もしない静寂の空間で意識を集中する。
今年のウサギは…
今年のウサギは、僕のフリー…
ピンポーン♬
早すぎるってー!
*
(2024/11/27記)