noteについての一考察
先日、noteから退場するのもありだなぁと思える、とつぶやいた。
僕としては、ちょっとnoteしんどい、書きたくないという心の吐露であり、誰の目にも止まらないつぶやきのはずだった。
ところが実際には、驚くほど多くの方からコメントをいただいた。
その多くが、もう僕が心に固く「退場」を決めているという前提で、淋しくなる、読めなくなるのは困るというもの。
僕が自覚しているより、みんなの反応が一歩先を行っている感覚だった。
娘や息子にそのつぶやきを見せてみたら、退場するとは書いていないが心は退場で固まっているように読める、という。
そうか、そうなのか。
もしかするとそれが本心なのかもしれない。
自分では気づいていないだけで。
身動き取れないほどの忙しさからようやく脱した今、noteについて考えてみるにはちょうどよいタイミングかもしれない。
6,000字にも及ぶ、長い長いnoteについての一考察。
*
僕とnoteの出会いは、2020年の2月に遡る。
2019年の末、愛媛の村おこしの会社を退職した僕は、そこで18年間の長きにわたって担当していたメルマガに代わって書ける場所を探していた。
愛媛で書いていたのは単なる企業告知のお堅いメルマガではなく、観光施設のイベント情報など一般にも読みやすい内容だった。
さらに、会社の許可を得ず独断で500字程度のミニエッセイを毎週埋め込んでいたこともあり、企業メルマガとしてはかなり読まれた方だったと思う。
読者は4万人を超えていた。
一般にメルマガは発信者から読者に向けて送る一方通行のメディアだ。
が、僕はそれだけでは飽き足らず、読者から寄せられる感想のメールに対して一通一通すべて返信し、多くの読者と濃い関係性を持っていた。
全国の百貨店を回って特産品を販売するのも僕の任務だったが、メルマガで僕の予定を知った広島の読者が東京まで駆けつけてくれることもあった。
広島からなら愛媛がすぐそこなのに、だ。
もっと話がしたいと誘われ、各地の百貨店で仕事あがりに読者と呑みに行ったことも数知れない。
僕はメルマガを通じ、メルマガ以上の大きな輪の中にいたのだ。
そんなメルマガから離れる。
これは僕にとっては天地がひっくり返るほど大きなことであり、直前には言いようのない淋しさに襲われた。
こんなことを最後のメルマガに綴った。
ありがたいことに読者からも、メルマガが終わってもどこかで書き続けるならそこへ行きますと言っていただけた。
僕は代わりのメディアを探し、2か月かけて見つけたのがこのnoteだった。
noteを見つけたのときのことを僕はこう表現している。
一方通行のはずのメルマガでさえも読者との交流を追求した僕は、メルマガに代わるメディアにも当然ながらその双方向性を求めた。
「発信者と読者がぐるぐる」という表現はまさにそこを指している。
ただし一方で「コンテンツが平等に集う場」も重要視した。
一部のプロや広告資金力に恵まれたクリエイターの発信が優遇されることなく、かけだしのクリエイターのコンテンツと対等に並んでほしかったのだ。
つまり、双方向性が保証されてもそれが上下関係をまとうならNGだし、平等性が保証されても双方向のやり取りがなければNGということになる。
あくまで僕的に、だけど。
そんなnoteで僕は開始から4年半にわたり、毎日投稿を続けた。
最終的に何日連続だったかよく分からないが、きっと1720日ほどのはずだ。
もちろんその1720日の中には、「こんなに楽しいメディアがあるだろうか」の日もあれば、「やめやめ! もうこんなのおしまい!」の日もあった。
でもnoteに対し、総じてプラスの思いがなければ1720日は続かない。
が、僕は最終的に突然連続投稿をやめた。
単に連続を途切れさせるだけではなく、ほぼ投稿することをやめたのだ。
10月下旬のことだった。
*
——10月下旬、新宿。
夕方、仕事を終えてヘトヘトの僕は重い身体を引きずりながら、次の約束までの1時間をどこでどう過ごそうか、回らない頭で懸命に考えた。
カフェに入ってPCを展げるのでもよかったが、実質30分ほどしか仕事できないのに、そこに数百円を投じるのがバカバカしく思えたのだ。
結局僕は西口の家電量販店に入り、息も絶え絶えにマッサージチェア売場に向かった。
東南アジア系らしい多くの先客たちがマッサージチェアに身を埋めている。
僕はためらいもなく最新のデモ機に身体を横たえた。
リモコンを手に取り、[首から背]コースを、強弱は[最強]を選ぶ。
グイッグイッ、ウィーン、グイッグイッ、ウィーン…
2日間の凝り固まった疲れが[最強]の人工の手によってほぐされていく。
このマッサージを受けている間にnoteを書こう。
そうやって、おそらく1721日目になるはずの記事をスマホで書きはじめた。
グイッグイッ、ウィーン、グイッグイッ、ウィーン…
書き上げたつぶやきを読み返す。
2か月仕事がんばったよ、疲れたよ、のつぶやきだ。
なんだか違う。
書き直す。
やっぱり違う。
いつもならここで粘るはずだった。
どうしたら気持ちが伝わるのか推敲を繰り返す場面だ。
でもその日は違った。
粘るにはあまりに疲れすぎていたのだ。
2日の疲れどころではない、この2か月の疲れ、いやnoteをはじめてからの4年半の疲れが一気に押し寄せた。
グイッグイッ、ウィーン、グイッグイッ、ウィーン…
僕は半分朦朧としながら、機械にほぐされて流れていく疲労物質とともに4年半1720日の連続記録を手放すことにした。
なんのためらいもなく。
実はこの半年あまり、noteのあり方に疑問を持っていたのだ。
*
前述したように4年半も続いた原動力がnoteに対する「総じてプラス」の感情だったとすれば、もう終えようと決意したのはnoteに対するここ半年の「総じてマイナス」の感情があったからということになる。
それはいったい何なのか。
何が変化したのか。
僕が感じる最大の変化は「見通しの悪さ」だ。
note運営の、将来を見通す力のことを言っているのではない。
(それも少しあるけど。いや、それがいちばんの遠因だけど)
ここで言いたいのは、noteの中の視界の話だ。
2020年にnoteをはじめたときの印象は、上述したように「コンテンツが平等に集う場」であり、「発信者と読者がぐるぐる」だった。
クリエイターが個々にnoteの世界に暮らし、それぞれが言いたいことを言い聞きたいことを聞く「原始社会」のようだと感じていたのだ。
あるものはドングリを拾い、あるものはモリで魚を突く、みたいな。
それがいつの頃からかオサが立ち、クニを作るのが流行しだした。
メンバーシップ然り、共同運営マガジン然り、ハッシュタグ企画然り。
同じ志を持つものが徒党を組みだしたのだ。
個別に狩猟採集していた人たちが共同して稲作をはじめるようになった、と歴史の教科書でも見たことがあるように。
そうなると、元来一人では生きられない人間の弱さが一気に露呈し、奇妙な結束力を強靱強固にすることは想像に難くない。
かくしてグループはその中だけで通用する方言を使うようになり、内輪ネタに走り、グループの内と外を隔てる壁や溝の構築に躍起になった。
その結果、noteの世界は視界不良となる。
いや、もっと分かりやすく言おう。
タイムラインに読みたくもない記事が並ぶようになったのだ。
タイムラインって元来、この人の作品を読みたいとフォローした人の作品が並ぶ場所。
ところがその人がまったく別のルールに基づくグループに所属すれば、自分のタイムラインに異質な記事が顔を出すことになる。
もちろん、これは興味ない、読みたくないと飛ばして読めば済むことだ。
最初はそうしていた。
しかし、昨今のグループの多さといったらない。
飛ばして読もうにも、読みたい記事が埋もれてしまってどこまで飛ばせばいいのか分からず、勢いあまって読みたいものまで飛ばしてしまう。
これが、僕の言う「視界不良」の状態だ。
以前もその問題を取り沙汰したことがあるが、noteに原始社会の幻影を見る僕にとって、やはりそこは外せない大きな問題だ。
個々が自立してこその原始社会であり、noteであると思っているから。
とくに僕が問題に思っているのはハッシュタグ企画だ。
記事にお決まりのハッシュタグをつけるだけで参加できる手軽さから、参加者はうなぎのぼりの印象だ。
別に企画を悪いと言っているのではない。
しかし、一時的な企画ならいざしらず、年がら年中同じハッシュタグをつけてOKというのは、企画というよりもはやnoteの一機能の感すらある。
そしてそれらの大きな目的は、同じハッシュタグをつけたもの同士で相互にスキをつけ合う互助、すなわち「相互扶助」だ。
相互扶助——いかにも日本人が好みそうな響き。
仮に大した内容でなくとも、同じハッシュタグをつけたもの同士、傷を舐め合うかのようにスキを交換する。
それはそれはすこぶる気持ちのよいことだろう。
共同運営マガジンも「相互扶助的スキ交換装置」である点では同じだ。
閉鎖的なクニが乱立したnoteは、卑弥呼のように力を持ったオサがキラキラと映る構図ができ、結果、クニはより強大になっていく。
荒野を一人、徒手空拳で歩くにはあまりに危険な世界になってしまった。
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僕もメンバーシップを主宰している。
その点で、グループを形成する側に立っていることも自覚している。
僕のエッセイをいいと思って読んでくれている人が、僕のメンバーシップ限定記事を快く思わない可能性も十分に理解しているつもりだ。
だからこそ、自分が嫌悪を抱く「相互扶助的スキ交換装置」にだけはすまいと考えている。
どんなレベルの原稿でもいいから決まったハッシュタグつけて投稿してね、は決してやらないということだ。
とはいえ、僕のメンバーシップに興味がない人からすれば、隔週でやってくるエッセイ講座の記事やぐるめぐるの記事などは見たくないはず。
僕はそれを心底申し訳なく思っている。
だからこそ僕は、以前も主張したように、見たくない記事を指定できる機能を熱望するのだ。
たとえば、「#ぐるめぐる」を指定した人のタイムラインには、僕のふだんの投稿は並ぶが、ぐるめぐる関連の記事は並ばない、という機能。
読みたい人の読みたくない記事を指定できる機能ということだ。
この機能がない現状では、ひたすら我慢するかフォローを外すかしかない。
それでいいのか。
僕はこの機能を何度もnoteの運営に提案した。
だが、読みたくない記事を指定できるというのは交流の間口を狭めるものという認識なのか、運営からは今のところなしのつぶてだ。
異質な記事が混ざったタイムラインに我慢ならずフォローごと外すほうがよほど交流を阻害すると思うのだけど、この考えはnoteの運営的には違っているのだろうか。
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noteは広告掲載がいっさいない。
上位表示させるための有料オプションのようなものもない。
その点でまだ「コンテンツが平等に集う場」であることは保証されている。
資金力にものをいわせることができない仕組みは美しい。
ただ、そのせいか、note運営会社は個人向けはずっと赤字続きとも聞く。
有料記事も思ったようには売れないようで、もっとクリエイトを収益化しましょうという焦りにも似た運営のメッセージを見かけることも多い。
そこで運営が活路を見出そうとしているのが、メンバーシップなのだろう。
記事ではなく活動そのものをフォローするのがメンバーシップだ。
そこには収益が発生し、その収益の中から「あがり」を運営が取る。
記事単体が売れないなら、そして広告も置かないなら、運営としてはこのメンバーシップの「あがり」こそが貴重な財源。
こうして運営はメンバーシップを作ることを奨励し、ますますnoteの世界は壁高く溝深くなるのだ。
結果、現在のnoteは分断がまかりとおり、視界はかすんで不良だ。
そんなnoteに何を書けばいいのか。
僕が書いたエッセイは、そして悲痛な心のつぶやきは、いったい誰のどこに届くというのだ。
ここ半年、そんな諦めにも似た境地が僕の心を占めていた。
そして新宿のマッサージチェアの中で、4年半つないできた糸がぷつりと切れた。
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それからはほとんどnoteを書いていない。
ほとんどnoteを読んでもいない。
これからどうしようというのは正直よく分からない。
でも一つだけ言えることがある。
noteが好きで、noteが嫌いだということだ。
そんな片思いに揺れる中学生のようなあやふやな気持ちのままでは、今がやめどきという決断はまだ下せそうにない。
先日つぶやいた「noteから退場するのもありだなぁと思える」は、もう少し先に取っておこう。
そこから導き出せる解は——
書きたいときに書きたいことを書く。
当面それしかないか。
僕はまだnoteとの適正な距離、向き合い方を見つけてはいない。
noteの根本思想が好きだからここにいるが、noteの根本思想が足かせとなってここにいづらい状況が生み出されつつあるとも感じている。
これからもnoteとの距離感は僕を悩ませ続けるに違いない。
憎いな、note。
(2024/11/8記)