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次へ向かって歩くときが来たようだ

今朝は早くから実家へ。
9時から業者が遺留物の片づけに来るというから。

ついにこの日がやってきた。
やってきてしまった。

父が亡くなって、実家が空き家になって半年。
たびたび実家に寄っては少しずつ片づけをしてきた。
使えるものは引き取って、明らかにいらないものはゴミに出し。

とはいえ、片づけというより見た目を整える意味合いが大きかった。
次に住もうかという人が内覧に来たときのための最低限のマナーとして。
あまりに生活感あふれたままの家を見ても、購入意欲を削ぐだろうから。

でも、押入の一角が片づくたび、一抹の淋しさが押し寄せた。
うそ、なんで…?
この家に自分が住んでたわけではないのに。
この家は僕が独立してから親が購入したマンション。
思い出といえば、子供を連れて帰省した5回くらいの記憶だけ。
でも、実家が実家でなくなっていく過程は実に淋しかった。
こんな感情、予想だにしなかった。

でも急がなくてはいけない。
もう手放すと決めた実家にいつまでも物を置いておくわけにはいかない。
でも急ぎたくない。
親がたしかにこの世に生きた証の最後の欠片を失いたくない。
でも。
でも。
でも。
でも…

作業が入る前に、最低限必要な品を救出しに早朝実家にやってきた。
大きなスーツケースいっぱいに思い出を詰め込んだ頃、チャイムが鳴った。
ついに片づけ業者がやってきてしまった。
清潔感の象徴であるはずの白い作業着に身を包んだ屈強な男が4名ほど。
しかし僕にはその白装束は死に神のように見えた。
作業してくれる人たちには悪いけど、それが正直な感想だ。

作業は5時間ほどかかるという。
僕はその場で見届けるか、近くで待つかを選べるのだという。
一も二もなく近くで待つを選び、スーツケースを転がしてドトールに来た。
記憶の欠片がぞんざいに投じられるところを見ることができるはずがない。
お宝はないかと選別する欲望のまなこに耐えられるはずがない。

理想は最後まで子の手で片づけることなのだろう。
でもそれはやっぱりできない。
最後は無慈悲な他人の手でケリをつけてもらわないと先に進めないから。
ごめん、お父さん、お母さん。

あと数時間すれば、終わりましたの電話が入るだろう。
そして僕は実家に戻って、書類にサインをしたあと、ひとしきり泣くのだ。
業者が帰ったら、まちがいなく泣くのだ。
だって今、ドトールでこれを書きながら、すでに泣いているから。

時代を一つ、心の中にしまい込んで、次へ向かって歩くときが来たようだ。

(2024/10/31記)

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へんいち
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