パリたべもの日記②
妄想のサヴァラン
小さな時から【サヴァラン】という名前の響きが好きだ。勝手な音楽的注釈を加えることを許していただけるなら、フランス語的な「サヴァ」に続いて、「ラン」と軽快に転がり落ちるような音の愉快さ。言わずと知れた有名な洋菓子の名前であるが、このお菓子そのものは洋酒にたっぷりと浸してあるので小さな頃は全く興味がなく、母の大好物だったこともあって【ママのためのケーキ】という風に認識していた。
成城学園前駅からすぐのところにある【アルプス】というケーキ屋さんを母と訪れる度に、このサヴァランはまず最初に指名され、一番乗りで白い箱の一角を占めた。そんな時私は店員さんがはめた白い手袋がすうっとショーケースの中に入り、他と比べると妙にテカテカとしているだけでさほど見栄えのしないこのお菓子をピックアップする様子を見ながら「ああ、今日もこのカワイクナイ子がいるんだな」と思ったりした。
ワインゼリーをちょっと食べただけでも顔が真っ赤になるほどアルコールに弱い母がなぜこのサヴァランをそこまで好んだのか、今思えばとても不思議だ。
月日は流れ、私が再びこのサヴァランに注目したのはいつだったか、母がパリに送ってくれた荷物の中に潜ませた森茉莉の「貧乏サヴァラン」を読んだことがきっかけだった。
この本ではこのお菓子自体に触れているわけではないのだが、「金は無くとも口が奢っている人」というのを端的に表すのにこれ以上秀逸なタイトルはないだろう(思わず自分を重ね合わせた)。そしてそのひとつひとつが見たことのない宝石みたいにこちらを釘付けにする彼女の随筆を読んでいくにつれ、私の中でムクムクと食への探求心みたいなものが湧き上がってきたのである。
私はその時すでにミルフィーユやクロワッサンがとびきり美味しい洋菓子の本場に住んでいたわけだが、なぜかサヴァランを口にしたことはなかった。
何と言ってもフランスの美食家であるブリア・サヴァランの名前を取ったこのお菓子。原型はババ・オ・ラムというもので、18世紀に宮廷に仕えるパティシエだったストレールがパリの自分の店で広めた(実際ババ・オ・ラムとサヴァランの違いは、前者はコルク型、後者はリング型であることと、レーズンが入っているかいないかの違いだけと言われている)。
世界屈指の美食家の名前がつくこのお菓子は確かに他のどのような洋菓子とも違っている。
アクセントに洋酒を利かせたお菓子は多々あるものの、ここまでたっぷりとアルコールを含ませた状態で悪びれることもなく、子供に媚びを売らない姿にはただならぬ迫力というか、ロックな精神を感じてしまう。それに洋酒の禁断の甘さに浸り切ったブリオッシュのひとかけらと言う発想自体が、どこか背徳的な感じで大人である。
これはもう、パリのプティ・パレにあるクールベのスキャンダラスな絵( 原題はLe Sommeil 。大きなタブローの中で女性二人が堂々と愛の後の眠りを貪っている)に匹敵するぐらいの大胆さではないだろうか?
色々と妄想を膨らませた後に、これは何としてもこの国で一度サヴァランを食べなければという気持ちに駆られた私は、近所のパティスリーへと向かった。
成城のアルプスのショーケースに丁寧に並べられていたあのサヴァランとどれぐらい似ていたかは思い出せなかったけれど、妄想の後のサヴァランは明らかにもう昔の「カワイクナイ子」などではなかった。ショーケースの中でそれらは色鮮やかなライバル達をものともせず、全身をラム酒に浸されてキラキラと輝きながらこちらに恍惚の眼差しを向けていた。大人になってからちゃんと味わったパリのサヴァランはわたしにとってはまさに新しい味の発見と言うべきもので、洋酒に浸されて驚くほど柔らかくなったブリオッシュ生地はほんのりとした甘さとともに舌の上でとろけ、正真正銘大人のためのお菓子であることがわかった。
以後、母のようにサヴァランの魅力に目覚めた私は、これから少しづつパリ中のサヴァランを制していこう、などとと密かに企てている。