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自分自身を彫り出す意味〜本当は、あらゆる場所で繋がっている〜
こんばんは。Vinoです。
はじめましての方へ。
出会いあれば別れありと言いますが、どんな人ともいつかは、必ず、お別れが来ます。
自分が望んで離れることもあれば、仕方なくお別れすること、相手が去っていくなど、別れの仕方は千差万別です。
でも、不思議と私たちは、出会いの仕方に対する視野は狭いように感じます。
学校で出会う人、職場で出会う人、趣味の場で出会う人など、出会いの前提として、ある一定のコミュニティや集団がないと人と出会わない、そんな固定観念を持っているように思いました。
でも、本当は、別れの仕方が様々なように、出会い方も無数にあるはずなのです。
古くから日本には、「袖振り合うも多少の縁」という、ことわざがあります。
道端で見知らぬ人とすれ違うのも、本当は因縁があるのだと言いますが、前世があるかは別として、そうかもしれないという気がしています。
というより、いつでもどこでも誰とでも本当は全て繋がっていて、だけど、その縁は目には見えないため、繋がっているなんて思えない感じというか。
もし、誰かと出会ったとして、それは、ポッと急に降って湧いたご縁ではなく、もう既にあった縁が、自分自身の意識や行動の変化によって色濃く太くなり、ハッキリとした縁が出来たのではないかと思うのです。
縁は、「エン」だけでなく、「フチ」とも読みます。
「フチ」は、内と外の境目というか、フチが出来ると、そこに物体の輪郭が現れて来ます。
「ご縁」も、自分の変化変容によって、自分自身の「縁取り」が変わり、生まれるものなのかも、と、ふと思いました。
自分という人間をどういう風にフチ取るかで出会いも変わるというか。
自分の輪郭が曖昧だと、目の前にある無数のご縁のどれを手に取ったら良いか分からず、相手から見ても、ボンヤリした縁取りだと、自分に必要な人なのか分かりにくいでしょう。
なので、やはり大切なのは、自分自身をよく知り、自分という人間像を彫り出し、明確にすること、これに尽きる気がしました。
この記事を書いていたら、ふと、昔の浜崎あゆみさんの歌を思い出しました。
YouTubeとサビの一部を引用します。
そう僕らは、あらゆる全ての場所で繋がっているから
この言葉について考える 君とだってもうすでに
あぁ僕らは、いつか永遠の眠りにつく頃までに
とっておきの言葉を 果たしていくつ交せるのだろう
最初にこの歌を聴いた時、わたしは、強烈なインパクトを感じました。
音楽は当時流行りのトランスっぽい感じなのに、歌詞は、どこかもの哀しさというか、哲学的というか、音は疾走感で突っ走るのに、心は、動かず、今ここに在り続ける、そんな印象を受けました。
わたしの語彙力のなさで上手く表現し切れないのですが、わたしたちは1人ではないし、だけど1人である、だからこそ出逢える相手は貴重なのだと思います。
今日は、蟹座で迎える新月の日ということなので、少し哲学的な感傷的なことを書きたくなりました。
頭で理解しようとせず、言葉を感じてみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!