「自粛」意味のついて考えよう
コロナウイルスによって、ここまで「自粛」が多用されることもないでしょうか。
兵庫県と大阪府の行き来の自粛、各所イベントの自粛、、、禁止されているわけではなさどうですが、やめといた方が良いという雰囲気は感じます。
いっそうのこと禁止や制限といった言葉の方が、強く拘束力がある言葉を使った方がわかりやすいのですが、控えてねって言われているだけで罰則があるわけでもありません。
あくまで自己責任で行動するってなると、行動自体が控えめになるのは当たり前です。それはきっと責任という言葉がフワッと重くのしかかるからです。
仮に自粛のムードに反してコロナウイルスにかかった人がいたとして、それをきっかけに感染が広がってしまったら、世間は責任の所在を追求するでしょう。
よく不祥事を起こした人が辞任で責任を取らせようすること、あれも一緒です。
まず、「責任」について考えてみたいと思います。
ウィキペディアでは、責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。
何かの出来事に対する応答ということは分かります。
別に「責任」という言葉を考えるきっかけがありました。それは「ニュータイプ」の著者の山口周先生のツイートです。
自分としては、責任と言っている地点で大体は取り返しがつかないことがほとんどのような気がします。
起きた事に関して、あとはただ流れていくのみです。
過ぎ去るものの中で、いったい何を取り返せるというのでしょうか。
それはなかったことは出来ません。既に起きてしまったことなのですから。
時の流れとしては既に終わっていることです。
ただ、怒りの感情のやり場を求めて、相手に同じような処遇を求める。それに相当するような対応を求める。
結局のところ「責任」というのは感情の墓場のようなものではないでしょうか。
強調したいのは、今言いたいのは法外で起きていることではありません。
さて、「自粛」に戻します。自己責任とは別のものだとして、自分で自分の行動の範囲を決めなくていけないのは確かような気がします。
あくまで自分の行動する範囲を整理しましょう。その範囲や境界線はお任せしますという内容がしっくりきます。
ただ、自粛といって好き勝手に行動していいわけでもありません。そこには明確な境界線が必要です。
なぜ境界線が必要かというと、自分をコロナウイルスから守るためです。
まず、自分が感染しないようにする。これが前提にあるからです。
つまり、普段しっかり手洗いうがいをしてても、感染が起こりうる場所に行くことは自粛とは言いません。
屋内外であろうと、自分の県に感染者が少ないとしても、何をするかしないか、どこまで行くかは自分で決めなくてはいけません。
自粛の意味が曖昧で分からないと言うのではなくて、自分で決めなくていけないということです。
ただ、役所や政府の指示待ちをするのではなく、自らの裁量を問われているからこそ、今自分で考えることが必要なのだと思います。
挑発的な言い方はすれば、「君たちは自分の身は自分で守れるの?」って試されている状態に近いと思います。
別に仕事や買い物に行くなとは言われてません。人に会うなとも言われてません。
今はまだ、どうするかは自分で決められるのです。