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主観感情=無意味?ディベートの誤解4つを解決(後編)

 私って冷めた人間で、ディベートは好きなんだけど、ディベートを過大評価する人や過小評価する人に出会うと、まだまだだなって心の中で思ってしまう人間なのです。

 この記事はディベートの誤解を解決するヒントを与える目的で書かれている。ディベートに関する次の4つの誤解について、私が正しいと思うことをここに記していく。
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1)ディベート=論破?
2)ディベートとディスカッションは完全別物
3)ディベートはYes/Noの結論を導くもので、中間の結論は出せないから実用性がない
4)感情は役に立たない

前編で1)と2)について解説したので今回は3)と4)について迫っていく。(リンク:https://note.com/vim_rubin/n/nab98930a3771)ちなみにこの記事は、前編を読んでいなくても単独でも分かるように説明していくつもりだ。
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3)ディベートは2項対立以外の議論には適用できない?

 これについては、一部正解だが、一部間違って認識されているとあえて言うことにする。まず、この主張がどのような場面でみられるか、イメージを共有するところから始める。例えば、選挙でどの政党に投票するべきかとか、たくさんの政党がある限り、2つを比較するためのディベートって意味ないやん。他には、無罪を主張する過失運転者と、有罪を主張する被害者側で結果どのような判決が適切かを話しあう場合、刑罰の程度についてとか、2項対立にできんやん。

 まだ序盤なのに、いきなり選挙の話は読む気失せるって?じゃ代わりに、500円の図書カードで様々な候補から、どの一冊を選んで買うかを吟味するときとかをイメージしてみて。たくさんの選択肢がありすぎて、2つの結論を比べるだけのディベートって使えんやん…って思ったりしました?
 裁判についても、もっと身近な例について置き換えてみると、「子供に携帯を与えるならば、どの会社のどの機種を与えるべきか」という議論を参考に考えてみるとよい。与えるか与えないかに加え、どの機種を選ぶべきかって議論するには、ディベートでは複雑すぎて無理やんね…と思ったそこのあなたは、絶対この記事最後まで読んでください。図を見ながら読んだらわかるように説明してるのでご安心を。

 前編で示したように、ディベートが「命題について、対立した2つの意見を戦わせる議論の一形態」であることを考えると、上で述べた例のように、単なる2項対立ではない議論に対し、ディベートという手法を用いる事はできないだろう、という主張はわかる。間違いではないんだけど、ディベートの使い方を知ることで、これらの議論を有効に行うことができる。(ここで言っておくが、私はディベート信者を増やしたいわけではなく、ディベートについて正しく理解し、適切に応用することで、よい結論の出す手段を広げたいだけだ。)

 選挙と訴訟や、図書カードと子供の携帯という2項対立ではない例を二つ述べたのには次のような違いがあるからだ。
前者(A):対立する選択肢はたくさんあるが、結論はひとつ。(たくさんの政党があるが、投票は一つの政党にしかできない。)
後者(B):Yes/Noに加え、Yesならばたくさんの選択肢から一つの結論を決める議論(有罪か無罪かだけでなく、有罪だったらどのような刑罰を与えるか結論づけなければならない。)

では、これらのケースについて、どのようにディベートが役に立つのかを紹介する。

A:たくさんの対立意見の中から一つの答えを見出す議論の場合。
 これは超簡単。たくさんの対立意見を二つずつに分けて、トーナメント方式で戦わせるだけ(図参照、戦いのマークはディベートが行われる場所を示す)。たくさんの選択肢も、そのうちの二つだけ比べたら、2項対立ができる。あとはこれを複数回やるだけ。例えば、上で述べた図書カードの使い道を考える(図左)。子供の絵本を買うか、自分のためにファッション雑誌を買うか、資格を取るための本、親友にプレゼントする小説を買うか。たくさんの中から一つしか選べないときに、各一冊を買ったときのメリットと買わなかったときのメリットによって、任意の2冊ずつ比べていく。よりメリットが大きいと思ったもののみ残し、それと他の一冊を比べる。この作業を繰り返すことで、最適な結論にたどり着ける。
 選挙の例においても、社民党vs公明党でより良いほうを決める。これと、自民党を比べ、さらにこの勝者を立憲民主党と比べる。この作業をすべての政党に対して行えばよいだけ(図左)。報道番組などでは、多政党の良さと悪さを一気にハイライトする場合が多いが、このディベート的方法は、より綿密な比較を行うことに適した方法だ。

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B:Yes/Noに加え、Yesならばたくさんの選択肢から一つの結論を決める議論の場合。
 この議論をで最適解を見つけるためには、お題を2つにわけることから始める(下図参照)。i)Yes/Noで答えるお題 ii)どの候補が良いかというお題 に分ける。i)は2項対立でありディベートを使ってYesかNoを決めることができる。Noであればそこで議論は終了であり、ii)の議論は不要である。対して、Yesであれば、さらにAで考察したトーナメント方法によって最適な答えが導かれる。

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 子供の携帯の例に照らし合わせると、子供に携帯を与えるか・与えないかという2項対立を解決する。結論がNoとなれば、そこで議論は解決となる。Yesの場合、議論の階層が一つ下がり、たくさんある機種の候補から、最適な機種を一つ見つける、というAで見たトーナメント的手法が使える。

 訴訟の例でも同じ。有罪か無罪か、これを最初に決めてから、無罪ならばそれ以上の議論は意味がない。有罪であると認めたらそのあとにようやく、刑の重さに対する議論をAの方式で行う。この場合、トーナメントの候補は、刑の種類や重さなどだ。(例えば、罰金300万、懲役1年なのか、懲役3年、執行猶予の有無なども含めてすべての場合分けを行ったらよい。)実際には、懲役5年が目安の被告人に対して、懲役15年と懲役16年どちらが妥当か、というものはどちらも過剰に刑を科すことになるため、懲役6年以上vs懲役6年未満という2項対立にすることで効率アップだ。

 このように、一見2項対立ではないではない議論は、2項対立にすることができ、ディベート的考え方を利用した最適な結論の導出が可能である。これらの方法には、時間はかかるという欠点であるが、最も良い結論を導くという目的を持つ議論に対して、これ以上に良い手段は少なくとも私は知らない。

4)議論において感情は役に立たないのか?

 ディベートにおいて、一般の方の誤解が多いのはこれではないだろうか。「人が過ごしやすいみたいな感情よりも、お金が増えるみたいに数字で見えるもののを言わなくちゃダメなんですよね?」と何度も質問されたことがある。まず、これは完全に間違いである。

 この段落の2つの結論を先に言うと、「すべての良し悪しは感情の良し悪しで定義される」「感情を表したうえで、なぜ感情が評価に値するかを説明するとより有効」。読み進めればわかるようになってるので、最後まで集中。それでは一個目の結論を目指してスタート。

 具体例だけでの本能的な説明としては、「お金が増えると良い」と思う理由は、例えば、便利なモノを得て、生活の困難が減り、今まで味わっていた苦しみが減る。遊園地や水族館に行く余裕ができ、楽しいという感情を得られる機会が増える。大学に行くためにお金を使い、つきたい仕事に就く満足感を感じることができるなどがあげられる。他にも、なぜ「エクセルが使えると仕事の効率が上がる。」ことがなぜ良いかを突き詰める、いままで紙で計算していた手間が省け、苦労しなくてもよくなるからだろうし、「医療が発展する」ことがなぜ良いかというと、長生きすることが可能になり、生きている間に感じられる幸福が増えるからだろう。
上で述べたいことを一般化すると、物事の変化自体がメリットなのではなく、その変化を経験する人間がプラスの感情を味わうからメリットといえるのだろう。お金が増えるという理性的だと思われているメリットも実はよく見ると、感情的なメリットがその先に存在しており、これらを総括して良いと思われているのだ。

 本能的な説明だけでは不十分な人も多いと思うので、少し理論的な話でこれを解説する。良い・悪いと判断する基準は「良い・悪い」と「人間が感じる」ことでしか定義することができない。これを示すわかりやすい例は、お金が増える事が良いと思っているのは人間だけであって、野生のライオンにとってお金が増える事には何の価値もない。宇宙開発が進むことが良い(注1)のは、人間にとってだけであり、別に将来宇宙に行くつもりのないサバンナのシマウマにとっては特にメリットではない。つまり、人間が理性的に良いと思っていることは、人間の認知能力で「良いと感じる」という主観に基づくものなのである。さらに、この主観による良し悪しは、突き詰めていくと、人間の経験に基づく感情的な良し悪しでしか定義することはできない

 ここまで読んだら、感情は良し悪しの根本を決めていて、理性すらも感情がもとになっていること納得できたのではないだろうか。ちなみに今Rubinはとんでもないことを言っている。長年先駆者たちが作り上げてきた、辞書が間違いだと言っているのだ。辞書によると、理性とは、「物事の道理を考える能力」であり、感情の対義語である。Rubinの主張は「道理を考えるには感情による良し悪しの定義が不可欠であり、感情と独立に理性を語ることはできない」である。これは、私の個人的な見解なので、ご自身で納得されたら採用してください。一応、これで一つ目の結論「すべての良し悪しは感情の良し悪しで定義される」はクリア。

(これに納得しなかった人のためにも、ここからの議論では理性という言葉が出てきたら、(あるかどうかは知らないが)感情以外のモノによって定義される道理に従って判断したり行動したりする能力という辞書的な意味で語っていきます。)

55144617-人の感情のセット

 そうはいっても、快不快とかの感情よりも、理性的なメリットのほうがより納得できるよ~って思ってる人もいるのでは?
 じゃあ質問です!「今日はやる気ないから運動はまた今度にしよう」って思うことありませんか?これは運動することによるメリットよりも、しないことによる感情的なメリットを優先しているといえますよね。パートナーを喜ばせるために貯金を崩して旅行券を買うなんてこともありませんか?お互いの幸せという感情のために、経済的なデメリットを正当化していう例だ。この例に限らず、実は誰しも、感情が理性を上回った判断を行うことはある。この感情と理性の比重の置き方は、人や場面によって異なり、一律に決めることはできない。

 上の段落で述べた論が、まさに、感情的なメリットを理性的意見と同程度以上に評価させる方法の一つ。感情というのは理性よりも劣った価値判断であるという考えに対しては、感情が理性を上回った価値判断をする場合があり、それらは一概に優劣をつけることはできない訴えることで、解決できる場合がほとんどだ。積極的に感情の良し悪しが、メリットよりも上回るべきという主張も行おうと思えばできるので、参考までに。

 「たばこ気持ちいいいから」っていうのをいくら言ってもたばこを吸わない人からしたら、気持ちよさよりも、健康とか財布のこと気にしたら?って思われる。でもこう考えるのはどうだろう。人の感情は生活の基盤を作っていて、たばこを吸えないことによるストレスで、健康にもむしろ悪影響が及んだり、仕事に集中できず効率が落ちてしまったら、元も子もない。だから、健康な心理状況を作り出すたば子による気持ちよさは、上で成り立っているのでその基盤を作るたばこの気持ちよさは、理性的な面(現状の健康低下とか出費減が多い)よりも優先される。仮にたばこを吸うほうが健康に悪かったとしても、健康であることがなぜ良いかというと、寿命が延びて幸せを感じる期間が長いからある。幸せを直接、科学的に与えてくれる喫煙という行為は、人生が短い期間であったとしても、あるかどうかもわからない将来の幸せよりも、確実である(注2)。ここまでいえば多分「たばこ吸うのは気持ちいいからいいじゃないか。」よりは少し説得力あるんじゃなかろうか。
 幅広い説得対象者にわかるように「感情を表したうえで、なぜ感情も同様(以上)に大事であるかを説明するとより有効」であるという二つ目の結論もこれで分かってもらえるのではないだろうか。

 後編はいかがでしたか。考える事が大好きなRubinが「誤解」と題して、私(Rubin)の考えとは異なる4つの主張を取り上げました。いろいろな意見があってよいと思うし、私の考えに納得できない人もいるかもしれないが、少しでも考えるきっかけになればと思っています。普段は、柔らかい文章を書きたいので、こういう固めの論調は疲れます~。では一休みします。

Rubin より♪

(注1)宇宙開発には賛否両論ある。ここでは、良いと思っている人を想定してもらうとよい。
(注2)私は喫煙を進めているわけでも、禁煙に反対しているわけでもない。むしろ、高い税金を毎日毎日納めてくれてありがとうございますって感じ。ただ論の一例として述べただけ。

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