ドライブ・マイ・カーを見て。ネタバレです。

キネ旬のレビューで「車への偏愛がまったく感じられないから星一つ」みたいのがあった。
確かに車へのフェチは感じなかった。それはしょうがないだろう、ないものは出せないだろう。濱口さんは芝居フェチだから稽古や本番の演劇シーンがやっぱりよかった。モノや人体に対するフェチはまったくないんじゃないかな。
そんなわけで、特に『ワーニャおじさん』の力(もちろんその強さを生かす巧みな脚本も)により、普通に楽しめる作品なんだけど、いまいちグッとは入ってこなかった理由を考えてみると、まず、登場人物の誰にも、理解できない部分がない。「自分の闇をコントロールできない」系の高槻くんも、音さんも含めて。それがなんか退屈だった。あと引っかかったのは追い込まれた主人公がドライバーの女の子に、君のふるさとを見せてくれとかいって、そこそこ大変な過去のある彼女にふるさとの北海道の村まで連れて行かせて、そこで彼が号泣するんだけど、
は? 今試練を課されてるのは、君だろ? 多少の信頼感ができたとは言え、他人である若い女性に、自分が困難を乗り越えるきっかけを与えるために、彼女が彼女の痛みと向き合うことを強いるのか? そんでその場所で、君がボロ泣きしてカタルシスを得るのか?
彼女はいい人だし、孤独だし、別にそれでかまわなかったかもしれないが、私はもやもやした。
私はもっと彼や、彼女の、それぞれの孤独が観たかったのかもしれない。
孤独が十分には描かれずに、なんとなくあったかいような関係性が準備されてる感じが、刺さらない。
でも私にもし似たような経験が、深く愛したり憎んだりした誰かを<ころしてしまった>経験があったなら、まったく違うようにこの作品は見えるだろう。もしいつかそのようなことがあり、そして振り返ってこの文章を読んだら、懐かしく思うのかな、寂しくて退屈で余裕しゃくしゃくの自分を。喪失感なんて高級なものはなくて、孤独と無力感だけに猛烈なリアリティを感じる私を。

それにしても、手話は本当によかったなあ。

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