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映画や小説などが好きです。 現在はカナダ、トロント在住。

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      • Homesick

        納豆ご飯の朝食。最近はサザンばかり聴いてしまうし、日本の文章を読むし、ホームシックなのかな。今の生活に少し、飽きている、または息が詰まっているのは、事実と思う。でもこの、「ああ、ここに私の居場所はないのかな」という、帰るべき場所に帰りたいという感覚は、日本にいる頃から、家族と住んでいた子供のころから、ずっと繰り返し訪れたから、私は、この感情に対応する「帰る場所」は少なくとも現在の現実には存在しないことを了解している。それは特定の場所や、人々の元で安定して得られるものではなくて

        • 何で今ここ(ベルリン)にいるのか、というか言っちゃえば、何でまだ生きるのか

           2ヶ月ほど前からワーホリでドイツのベルリンにいる。渡航前には「何でドイツ?」「何しにいくの?」「すごいね!」「ワクワクするね!」「楽しんで」「応援してる」来てからは「何でドイツ?」「来たばっかりなんだ!ワクワクするね!」「いっぱい遊んで楽しんで」「頑張ってね」といろんな言葉をもらって、その度にそれなりの現実を含んだ、よそゆきの返答をした。ドイツは学費が安いから。進学がしたくて。向こうで映画作りもしてみたい。ありがとう。楽しみです。頑張ります!でも実際のところ、前向きな理由な

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          五月

           深夜、疲れて帰って、twitterを開いて癒される。過去の自分の傾向でいろいろ表示されるんですよね。だったら過去の自分、ありがとうと言う感じだ。お前は最高だよ。ガメ・オベールさんのブログやツイートがここ数年は常に好きだけれど、それ以外に流れてくる、傷ついたひとの呟きもすごく私を救ってくれる。他人の不幸は蜜の味なんではない。弱音を吐いてはいけないと、クールに軽やかに何でもこなしていけなければならないと、やっぱりどこかで理想を掲げ自分を変えようとしているけれど、「私は傷ついてい

          快楽

          上野千鶴子さん『ひとりの午後に』を読んだ。世界各地で見た豪華な夕陽のこと。三十代から海外でおぼえた車の運転。食や入浴のよろこび。知的で艶っぽい。ばななさんも何かのエッセイで書いていたように、官能とは性欲が満たされることではなくて、この世界を感じながら生きることそのもので、たとえひとりでも、生には甘いよろこびが溢れている。だからひとりで生きることは怖いことではなく、自分の未来も楽しみで仕方がないと、束の間かもしれないが、思うことができた。コロナ禍の初夏、不安と寂しさでふさぎ込ん

          ひっかからない映画祭

           プールで泳ぐ。泳いでいるうちは特別楽しいとか気持ちいいわけでもないが、後味がいい。よく眠れそう。ジム通いして筋トレやランニングをする人も、やってるうちはちょっと苦痛だけど生活全体のバランスとして整うからやってる人多いんだろうなーと思った。  お風呂入って水着を干しながらふと思いついたんだがいつか「ひっかからない映画祭」というのをやりたい。というのは、去年撮った短編が見事なまでにどこの映画祭にもひっかからず、自分では大好きなのに、ともすると弱気になりそうになるのだが、ちょっと

          ひっかからない映画祭

          ドライブ・マイ・カーを見て。ネタバレです。

          キネ旬のレビューで「車への偏愛がまったく感じられないから星一つ」みたいのがあった。 確かに車へのフェチは感じなかった。それはしょうがないだろう、ないものは出せないだろう。濱口さんは芝居フェチだから稽古や本番の演劇シーンがやっぱりよかった。モノや人体に対するフェチはまったくないんじゃないかな。 そんなわけで、特に『ワーニャおじさん』の力(もちろんその強さを生かす巧みな脚本も)により、普通に楽しめる作品なんだけど、いまいちグッとは入ってこなかった理由を考えてみると、まず、登場人物

          ドライブ・マイ・カーを見て。ネタバレです。

          ”この世界に残されて”

          今日は仕事前、シネスイッチ銀座でハンガリーの映画『この世界に残されて』を観た。冒頭5分くらいからずっと泣いていた。クララの苛立ちと寂しさが、わかり過ぎたーー身近な人を喪った経験もない私がこんな風に言っていいのか、ホロコーストで両親と妹を亡くした少女の絶望などわかるわけがないとも思うが、しかし私の心は生々しくクララに共鳴した。価値ある(と自分が信じる)ものについて語り合い分かちあう相手が必要なのに、周りはバカばかり。かつてそんな相手はいたのに、消えてしまった。拠り所がなく、未来

          ”この世界に残されて”

          無色透明で誰にも気づかれずに生きて死にたい、という願望が、昔から自分の中にある。欲望や情熱と、常に綱引きをしている。どちらも魅惑的だ。だから私は前に進むことがない。ただここにいて、明滅しているだけなのである。

          『喜劇 愛妻物語』について

          以下、私的にはネタバレではないが、人によってはネタバレだと感じる内容を含むかも。  この映画について何か言うのに、ちょっとだけ気を遣うのは、これが実在の夫婦(足立紳監督と妻の晃子さん)をモデルにしているという点だ。当然ながら、私は彼らの夫婦関係や、人格を否定したいなんて1ミリも思っていない。あくまで表現として、疑問を抱く側面がある。  私には、この映画は黴臭い「男性の性欲と甘えを仕方ないなあって笑って受け止めてかわいいって言って」カルチャーを地でいくものに思えた。「まあ、

          『喜劇 愛妻物語』について

          北の橋/息子のまなざし/クリーン

           DVDをガサッと(と言っても3枚)借りて帰る。テンション上がる。今行かないと観れないから、と映画館に行くのとも、やってるから観るかーとサブスクのコンテンツをかけるのとも違う、数ある歴代の映画の中から、今私が観たいのはコレ!と選んで持って帰るワクワク感。主体性を発揮したときならではの爽快さ。 『北の橋』タイトルからして堪らない感じがする(シンプルなのに/シンプルゆえに)。家をもたずパリをさまよう二人の女を夭折のパスカル・オジェとその母ビュル・オジェが親子共演。お話は荒唐無稽

          北の橋/息子のまなざし/クリーン

          サンライズ

           今日はかなり頑張ったと思う。ブログ書いたし英語で日記も書いたし勉強したし短編映画の企画書とプロフィールを協力者に送ったし、お弁当を作って朝も昼も8割くらい有機食材(契約してる宅配で日持ちしない野菜がどっさり届いたから)で、お菓子を食べないという誓い(砂糖を摂ると疲れやすくなると聞いたから)も守った。  『演技のインターレッスン』という本を読んでいるが、単に演出の勉強を越えてまるで自分自身がもっと芯くって生きる方法を探ってるみたいで、セラピーみたい。  シネマヴェーラで念

          サンライズ

          体を買うのは普通のことか

          Black Lives Matterや香港の問題には共感を示すのに、日本国内の性差別には無関心なインテリ男子が多くて、何だかなーと思う。 私はどちらかというと「いい大学」に通い、世間的にはインテリとみなされる人たちと学生時代を共にした。恵まれた環境であったはずだが、結局は社会の縮図だった。〈女〉として、当時から、違和感や嫌な思いを抱くことはそれなりにあった。しかしその頃の私はそれを表現し立ち向かう言葉も概念も十分にもっていなかったし、むしろ、彼らの価値観を内面化して適応しな

          体を買うのは普通のことか

          自分に飽きた

           この名前もう全然自分の感じがしないから、もう使わない。今年手伝いに行く映画があって、その界隈ではこの名前使ってたから現場を混乱させないために継続するけど、これが終わったら終わり。ENBUを卒業して1年経った。経済的にも、精神的にもようやく落ち着いた。ENBUでの1年の「学生生活」はめちゃくちゃに楽しかった。楽しく忙しく、無我夢中であるときほど、振り返ったときには後悔や苦味も強く湧いてくる。私はいつも節目節目で過去を振り返るたび、全てが黒歴史に思え、それを上書きしようと躍起に

          自分に飽きた

          映画の未来とかどうでもいい

          私たちの日常が地球を作り変え、コロナを含めさまざまな危機をもたらしていることを考えると、私たちは元の日常には戻ってはいけないのだと思うけど、どうやって戻るかとか、失った日常に対する焦りとセンチメンタリズムばかり世の中に蔓延してるかのように見せられてる。本当に蔓延してるのかもしれないけど。 映画は大好きだけどはっきり言っていま映画とかその他さまざまな愛すべき文化の未来とかどうでもいい。人類の未来が気になる。映画が衰退しても人類が生き延びていればいつかだれか〈映画的なもの〉をま

          映画の未来とかどうでもいい